2008年10月12日

基礎学問の大切さ

 米国発の金融危機からはじまったこの一週間の世界株式市場の大混乱。NYTimes電子版の記事では「ローラーコースター」にたとえていたけれども(どうでもいいけれども、紙くずを散らかすのはやめましょう[苦笑])…そういえば静岡に「曽宮一念」展を見に行ったときも、駅前の証券会社の電光ボードを食い入るように眺めていた人がいました。いずれにせよあくせく毎日働いている者のあずかり知らぬところで勝手に膨らみ、勝手にはじけ飛んだバブルのおかげで、実体経済にまで悪影響を及ぼしている。これが前世紀に世界中を混乱に陥れ、世界大戦にもつながった大恐慌に匹敵するほどの世界規模の金融恐慌にまで発展するかもしれない…などとまことしやかに囁かれてもいます。でも資本主義の暴走という点ではおんなじかもしれないが、1930年代のようなひどい事態にはならないと思う。あの当時とはくらべものにならないほど、人もモノも世界を行きかう時代。世界との距離が圧倒的に縮まり、やりとりされる情報量もまるでちがういま現在とあの当時とは単純に比べることはできないでしょう。むしろマッキベンが著書『ディープ・エコノミー』で描いているような、もっと地に足ついた経済構造に作り変えるチャンス到来と考える。原本は以前ここでも取り上げたから蒸し返さないけれども、いまの「市場原理主義」というのは、カネ→モノ→人の順番で、本来最上位に来るはずの人間の生活というものがないがしろにされ、ひいては自然環境の破壊をもたらす「持続不可能な」構造的問題を抱えている。不況になればなったで市井の人々は難儀するし、さりとて好景気になってもいまは昔とちがってみんなのサラリーが上がるわけでもない。賃金は据え置きのままで社会保障費負担ばかりがますます重くのしかかる。頼みの綱の預貯金とて長年つづいたゼロ金利政策のせいで知らないところで――どういうわけか――かつての不良債権のツケとかを間接的なかたちで払わされている。ゼロ金利で失われた国民資産はたいへんな金額だといいます。けっきょくこれは、政治も経済も、いっときのバブルという名の「危ない綱渡り」ゲームばかりに興じていて、「ほんとうに大切なもの」を見極めた社会作りを怠ってきた結果でしょう。はじめて'subprime mortgage'という金融商品の存在を知ったときは呆然とした。マッキベンも書いていたけれども、いまの米国人は――われわれもふくめて――身の丈にあった生活をしていない人が多いのではないか。そもそも返済能力のない人(insolvent)にむりやり住宅ローンを組ませてまで住宅や不動産を買わせ、そのローン売買を証券化して世界中の投資機関にばらまいた、とはいったいどういうこと…経済学者のS先生という方が地元紙朝刊にコラム掲載していて、米国の経済事情はさっぱりな自分はときおり読んでいるのだけれども、先生に言わせると「金融工学の悪用だ」と言い切っている。金融工学…というのもさっぱりですが、S先生に言わせると「19世紀末のノーベルによるダイナマイト発明に匹敵する」んだそうな。ようは道具の使い方が悪かったんだと。そうかねぇ、エコノミストや経済学者といってもピンキリ、こうした危なっかしい取り引きを黙認してきた罪は重いのではないかな。警告を発していたけれどもだれも聞いてくれませんでした、と言い訳する人もいるけれども。問題なのは、いまのマネーゲームという名のミダス王は、実体経済とはまるでかけ離れたところでバブルを生み出してははじけさせ、なんの関係もない一般市民まで巻き込んで後始末を強要することにある。もっとも新聞記事を読むと17世紀の「チューリップ・バブル」が記録上最古のバブル経済とその崩壊だったようですが、どこまでがバブルで、どこまでがそうではないかという見極めがつきにくい点が、こうしたバブル現象を性懲りもなく繰り返してきた要因のひとつだと書いてはあったけれども、けっきょくこれとて、人間が「ほんとうに大切なもの」を見る目を失っているからにほかならない。いま一度シュヴァイツァー博士の重いことばに耳を傾けるべきです。

 と、ここまでは前置き。世界中が「悪夢の一週間」として右往左往しているさなかに、日本人4名がノーベル物理学賞・化学賞を受くという吉報が飛びこんでもきました。でも受賞対象となった研究を見ますと、こんなご時世に警告を発しているかのような分野です。受賞者の方々はいずれも基礎研究、基礎学問の世界で長年、人知れず尽力された方ばかりなのです。こういう世界は、目先の利益でころころ姿勢を変えるいまの風潮とはまるで相容れない。とくに基礎研究分野では日本は世界的に立ち遅れていることは、もう何年も前から指摘されていること。「こんなもん研究してなんの役に立つんだ」というものが、何年か経ったのち、だれも思いもつかないかたちで突如として現れ、直接・間接的に世界を変えていく。ある研究者が、自分の大学とほかの大学とのあいだに相互アクセスできるように回線を張って、電子メールのやりとりができるように四苦八苦していたら、あるときこんなこと言われたという。「用件があれば、電話があればこと足りる。そんなもん研究してなにになる?」。いまやメールは、電話とファックスといった旧来の手段では考えられない膨大な情報を、世界中の人相手にローコストで瞬時にやってのける。下村先生の「緑色蛍光蛋白」だって、オワンクラゲから採取された蛍光物質のおかげで「癌細胞の蛍光マーカー治療」という画期的な治療法が編み出されてもいる。けさの地元紙記事にも、「すぐに役に立つものばかりでは、基礎的なことをやる人を失っていく。日本はこのままでは駄目だ」と下村先生と親交のある研究者の方が嘆いていた。

 物理学賞…のほうは、この前頓挫したCERNのLHCとも関係のある分野で、はっきり言ってこっちのほうは理解することじたいがむずかしい。なので手っ取り早く「こどもニュース」を見ました(苦笑)。南部先生ら3名の先生方の業績は、せんじつめれば当時、4つしか見つかっていなかったquarkの組み合わせのうち、理論上はあとふたつ存在するされていた「トップ」と「ボトム」を発見したこと(ちなみに原子核中の陽子・中性子はクォーク3つからなる複合粒子)。「こどもニュース」の解説を見ていて、「反粒子」なる用語をはじめて耳にした。「対称性の破れ」のことを指しているのだろうか。子どもでもわかりやすいように例によって擬人化された素粒子が出てきて、ビッグバンのときに、一方の片割れ「反粒子」が脱落して、素粒子だけが残ったという(LHCでは陽子どうしを光速に近い猛スピードで衝突させれば、まだ発見されていないヒッグス粒子の存在を確認できるかもしれない…と言われていた。ヒッグス粒子/ヒッグス場は、「質量」を生み出している根本ではないかと推測されている素粒子/場)。…この話聞いている最中、突然、どういうわけか頭にいにしえのグノーシス創世神話が蘇ってきた。アイオーンはめいめい男女一対の存在だったけれども、最下位のアイオーンにいたソフィアが過ちを犯して片割れの言うことも聞かずに醜いヤルダバオート(=デミウルゴス)を産み落とし、みずからも天界(プレーローマ)から冥界へと落下しかける。つまりそのとき「この世と時間」というものが生まれたわけですが、ここが「粒子−反粒子」の話と妙にダブってしまいます。ティム・セヴェリンが復元カラフのブレンダン号の航海記で、中世のヨーロッパ人は彼らなりの理解で世界を知っていたと書いていたけれども、まさしくそんな感じがする。彼らもまた、本質的にはけっこういい線を突いていたのかもしれない(ちなみにquarkなる語はもとはジェイムズ・ジョイスがあの奇天烈な小説、Finnegans Wakeで用いた造語)。

 なにごとも学問は基礎が大切だし、科学においてはとくにこのような基礎研究がなによりも大切…なはずなのだけれど、現実世界ではやたら時間がかかり、すぐに目に見える費用対効果をあげないこの手の分野はないがしろにされがちです。今回の邦人研究者4名のノーベル賞受賞は、なんらかのメッセージが込められているのかもしれませんね。

 ついでにとめどない科学の専門分化・細分化について書かれたコラムも先月、地元紙に掲載されてました。金融工学にせよ科学にせよ、道具の使いようによっては人類にとっては百害あって一利なし的な悪夢に陥ることもある(マンハッタン計画とか)。いまやあまりにも細分化された科学技術、テクノロジーが暴走しないためにも、異分野との「科学コミュニケーション」がきわめて重要だとコラムの書き手は説いています。たしかにそのとおりですね。ことに日本では、すぐ「これはだれだれの専門」とか言って、風通しが悪くなったりしますね。こういう縦割りの壁は壊さないと。「専門家→一般市民」という一方通行もよくない。専門家といっても、ただの専門バカという場合だってある。科学技術関連にかぎらず、大量の情報が世界中を飛び交っているいまの時代でそんな旧態依然のことをつづけていたら、かなり致命的なことになるのではないでしょうか。よくdigital divideと言うけれど、真に問題なのは「人間にとって、真に必要で有用な科学技術とはなにか」という視点でリスキーで暴走しかねないものと、そうでないものとを選別する力だと思う。これはマッキベンも『人間の終焉』でおんなじようなことを書いています。「これはいいけれど、こっちはいらない」。いわゆるgeekというのはどんな分野にもいるけれど、彼らは基本的に妄信的テクノロジー信仰者なので、常識的に考えればバカバカしい荒唐無稽な未来でもバラ色だと喧伝したりする。そういうインチキ・イカサマに惑わされない知識、これこそがまさしくいまを生きる人に求められている知恵だと思います。なにをどれだけ知っているかは問題ではない。どれが真に大切なのかを見極められる目をもつことが重要なのです。

 ちなみに記事はアイルランドの教育熱心さにも触れていまして、「ケルズの書」を所蔵している有名な図書館のある国立トリニティカレッジの授業料は、なんと無料! なのです。そう、アイルランドでは公立大学の授業料はただ。ちなみに国立博物館も美術館も自然史博物館も近代美術館も、入館料はロハ。一概に比較はできないが、このへん日本はもっとアイルランドを見倣うべきだと思う。

posted by Curragh at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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