2008年11月29日

バーの聖ブレンダン

 今日、29 日はもうひとりの聖ブレンダンの祝日なので、ここにもすこし書いておきます。

 手許の資料によると、疑問符つきながら 490 年から 573 年まで生きた人らしいので、聖ブレンダンと同時代人。船乗りのブレンダンとともに「アイルランド 12 使徒(Dá apstol décc na nÉrenn)」のひとりで、修道院草創期の聖人序列もおんなじ二番手。本家サイトには「親戚関係にある」とかなりはっきり書いてしまいましたが、あらためて調べなおすとそう書いてあるかんじんの資料が見当たらなくて、自分もいったいどれを見て書いたのだろうと…いまごろになって頭を掻いているしだいです。なので多数派を取って問題の箇所は訂正します。あしからずご了承ください。たんなる思いこみで筆が滑った、ということはおそらくないとは思うのですが、今後は訪問された方に誤解をあたえないように事実関係の調査にもっと注意を払います。m(_ _)m

 「バーの聖ブレンダン」のほうは、父親が Neman という名の詩人だったらしい。ということはフィリと呼ばれた階層の人なんだろうか。クロナード修道院でほかのケルトキリスト教草創期の聖人たち、コルンバ、キアラン、カニス、そして船乗りのブレンダンといっしょに聖フィニアンのもとで学んだ。このクロナード修道院時代に「年下の」ほうのブレンダンと知り合ったらしい。叙階されたあとはほかの聖人同様、アイルランド各地に修道院を建てていき、563 年ごろにバー ( Birr ) に修道院を建て、亡くなるまでそこの修道院長をつとめていた。その間、コナハト王家の血なまぐさい内輪の抗争について教会会議が開かれ、王族の一員であるコルンバをアイルランド教会から追放処分とする決議が下されると、コルンバはどこへ向かうべきか、クロナード時代からの親友でもあるブレンダンに相談したという。その結果、コルンバは 12人の弟子とともにヒンバ島( どこの島か不明ながら、一説ではジュラ島とも言われる ) 、そしてアイオナ島( イー島 )へと渡り、そこを北の布教拠点とさだめた。また一説ではこちらのブレンダンは禿げていたらしい。11 月29 日の夜にバーで亡くなったとき、はるかかなたの孤島にいたコルンバは、天使たちに守られて天に昇ってゆくブレンダンの幻影を見て、古くからの友人が召されたのを知ったという話が『聖コルンバ伝』第3章に出てきます。コルンバはある朝早く、バーのブレンダン院長が召されたから聖餐式を挙げるようにと弟子のディアルマイに命じた。弟子が、アイルランドからはそのような知らせを伝える使者は来ておりませんがと問うと、昨夜、天の扉が開き、天使の聖歌隊が地上に降りて、ブレンダン院長の霊を迎えたのを見た、全世界がとほうもない輝きを放つ光で満たされたのだ、と語ったといいます( →参考サイト)。またカール・セルマーによると、『レンスターの書』には 17人の聖職者がブレンダンという名前をもっていたと書いてあるそうです。

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