2008年12月15日

『キリスト教修道制の成立』

 以前、紹介したジム・ロビンソン博士の「ユダ福音書」関連本の訳者先生による論考集。書名を見ればわかるとおり、「そもそもキリスト教における修道制度というのはいかにして成立したのか?」ということに焦点を絞った本です。古代教会成立史についてはそれこそ膨大な文献の蓄積があるので、修道制度成立についてもタネ本、ではなくて歴史資料がたくさんあるのかと思いきや、意外にもそうでもないらしい。初期修道制度、とくるとエジプト(アントニオスやパコミオス)とシリア、トルコ(大バシレイオスなど)かな、と思うのですが、一次資料という点で見ると、わりと記録が残っているとされるエジプトでさえ、「修道制度のはじまり」を伝える史料の絶対数がすくなくて、シリアにいたってはさらに残っていないという。この史料のすくなさゆえに19世紀末以降、おびただしい数の論考が残されてきたのでしょうね。でもこれはバッハ研究と同様、「先行研究の消化」に陥りやすいことも意味している(『聖ブレンダンの航海』にかんする研究史も似たようなもんですが)。

 著者の戸田先生は、エジプトにおける修道制度成立を論じた古今東西の論考・文献を批判的に検討しつつ、ではこんにちにいたるまで霊的影響をおよぼしているキリスト教修道制度はいったいどんなふうにはじまったのか、を論じています。のちにオリゲネスが断罪されるきっかけを作ったとも言われる「砂漠の哲人修道士」、ポントスのエウアグリオス(A.D.345-399)なるちょっとエキセントリックな(?)人についてもくわしく論じているので、まるで門外漢の読者にはとても興味深かった。でもこの本を読んでみよう、と思った最大の理由はほかでもない、いままで探していたのに見つからなかった、「『ナグ・ハマディ文書』とパコミオス共同体との関係はいかに?」という問いに答えてくれそうな論考が収録されていたから(「グノーシス主義と修道制」pp.161-176)。

 「ユダ福音書」騒動以降、この「グノーシスと初期修道制」の関係はずっと気になっていたことでした。以前紹介したデコーニック女史の本とか、岩波の『ナグ・ハマディ文書』の序文とかを見たかぎりでは、どうも関連性は薄そう…というのが「定説」みたいです。でも戸田先生はそうとも言い切れないのではないか、と「ナグ・ハマディ」パピルスの冊子状写本(codex)の製本補強材(cartonage)に、「父パホーム(パコミオスはラテン語の翻字らしい)」、「修道士(monachos)」ということばが書かれてあり、定説化している「古紙流通」由来の雑多な紙片で閉じあわされているというよりは、写本の書かれた当時すでに存在していたパコミオス修道共同体とのつながりは当然あると考えたほうが妥当だ、という主張には目を見張った。現存する「ナグ・ハマディ」写本群のすくなくとも一部は当のパコミオス修道院と関係がある(かも)! もっとも、そのすぐあとで展開されている主張には即座にうなづけないような…第二写本の奥付けに書かれた「霊の人」については、それが即写本中文書に出てくるグノーシス的な意味合いで使ったのだろうか(パコミオスの共同体ではこの「霊の人」という用語を、修道者の「霊的進歩度」をはかる物差しとして使っていたらしい)。書き写したのは当の修道士だったかもしれないが、もともと修道院は過去の知的遺産を蓄積する図書館みたいな役割も担っていたから(当時読み書きできるのは修道士や司祭、司教くらいのもの。ちなみに時代は飛ぶがカール大帝も文盲で、なんとか読み書きできるようになろうと、宮廷に招聘したアイルランド人修道士教師のもとでお勉強していたらしい)、ここはふつうに、すでに過去の遺産と化したグノーシス関連著作をひたすら書き写しては暇なときに「読書」していた、ただそれだけだったような気がします。もっともそんな気がするだけで、なんの裏づけもないけれども。「霊の人」と書いていたからといって、即グノーシス的思想まで理解していた、とは言い切れないように思う。ようするにひとつの「古典」として扱い、読んでいたのではないでしょうか。過去の文学遺産を書き写して後世に伝える、という仕事ができるのは修道士くらいしかいませんでしたし。このすぐあとでエジプトにおける初期修道制度全般とグノーシスとの関係を論じた部分があり、こちらの(いちおうの結論としては)ほうは、「禁欲主義という点では似てはいるけれども、グノーシス主義者は神話的・理論的な思想を掲げ、いっぽうキリスト教修道制側の著作では実践的・倫理的省察重視」としたうえで、「内容がこの教義上の相違に明示的にかかわらない限りは、或る修道者が正統信仰を有しかつ「グノーシス主義的」著作を読む、ということがありえたのかもしれない」とあって、ようするにここは「古典として読書」したと解釈してもあながち的はずれではない気がしますね。もっとも正統信仰と言ってもまだまだ流動的で、一口に「教義上の問題」といってもそれこそいろんなケースがあった。このへんはたしかに著者の言うとおり、もはや一般論でくくれる範囲を超えているので、このへんなんとも言えないことだけはたしかですね。でもこういう研究を日本語で読める、というのは頼もしいし、一読者としてはたいへんありがたい。もっとこのへんの突っこんだ研究が出てくるといいですね。

 ほかにもたとえば「最初の隠遁者テーバイのパウルスは実在したか?」とか、「『アントニオス伝』の史料価値をめぐって(これは聖アタナシオスの真筆なのか)」とか、「キリスト教修道制の成立とマニ教――エジプトとシリアの場合」とか、読みごたえのある興味深い論考が目白押しの感ありです。このへんの疑問はたしかに突っこんで考えたことなんかなかったから、ひじょうに新鮮でした――もっとも聖ヒエロニムスによる『聖パウルス伝』ははっきり「創作」だと言ってもいいとは思うけれども、じつはこれエジプトより伝え聞いた話をヒエロニムスが「修道者の父」とされる聖アントニオスにたいする批判もこめてものした作品ではないか、という主張はひじょうにおもしろいと思いました(余談ながら、ラテン語版『航海』26章に出てくる「聖パトリックの修道院にいた隠修士パウルス」の話は、もちろんこの本家の聖人伝をアレンジしたもので[隠遁先が砂漠から絶海の孤島へと置き換えられている]、かつ8世紀に起こった「ケーリ・デ」運動の影響も認められると思う。つまり齢140の老パウルスにして「ブレンダン院長のほうがわしよりも勝っておる」と言わしめるあたりが、婉曲ながらもかつての「放浪修道士」たちへの批判になっているようにも感じる)。

 エジプトにおける修道制度成立について考察した本なので、当然というか、『砂漠の教父たちの金言』とかパラディオスの『ラウソスに献じるキリスト者列伝』も出てきます。こちらにかんする論考も、当の史料名こそ聞いたことはあるものの具体的にはさっぱり、という門外漢にはひじょうに有益でした。いくら「世捨て人」として「砂漠へ隠棲した」といっても、ハナから人跡未踏の過酷な砂漠地帯へのこのこ出向くような無謀な真似はありえません。そのへんは『聖アントニオス伝』にも書いてあることです(はじめは町外れに隠遁していたが、彼の評判を聞きつけた訪問者が押しかけるようになり、ついには「ナイル川沿岸から歩いて三日三晩かかる場所」へと隠遁せざるをえなくなった)。また同時にこれは当時、すでに「砂漠で苦行する隠者」がみんなの人気者だったことを逆説的に物語ってもいるところでもある。シリアの柱頭隠者聖シメオンみたいに、修道制度が確立される以前の揺籃期には、とにかく奇行以外のなにものでもない「苦行」に励む修道者が大勢いたのもたしかです。シメオンのように柱のてっぺんに座して修行する人もいれば、7年間生野菜のみ食べて生きたとか、20夜ずっと眠らなかったとか、7か月間蚊に刺されつづけたとか。…はっきり言って「イエスの教え」とはあんまり関係ない「苦行」の数々(笑)。でも著者先生も指摘されているように、エジプトの場合は修道者(隠修士)が人里すぐ近くの場所から「段階的に」砂漠奥深くへ退いていったことは、『砂漠の教父たちの金言』に収録されたことば、「生命も死も隣人から来る。われわれが兄弟を得るならば神を得、兄弟を躓かせるならば、キリストにたいして罪を犯す」、つまり世間での対人関係がうまく築けない人は砂漠の隠遁生活もうまくいかない、という教えを見てもうかがえます。シュネシオスという410年に司教になった人の『ディオン』なる著作では、修道者の「ござ作り」について言及しているとかありますが、修道制揺籃期(一般に3-4世紀にかけて)はまず――キリスト教以前の禁欲集団、フィロンの伝えるテラペウタイとかユダヤ教の急進的な一団とかの影響についてはいまだ諸説紛々――町外れに三々五々、それぞれ庵を編んで暮らし、場合によっては定期的に教会堂へ出向いては聖体拝領にあずかったり、手仕事でこさえたもの、つまり「ござ」とか「籠」、「網」といった日用品を売りさばいて生活の足しにしていたゆるやかな禁欲的集まりがあり、それがいっぽうではパコミオスのような共住型修道共同体へと発展し、また逆にさらに人里離れた砂漠へひとり隠棲する修道者が出てきた、というふうにとらえていいような気がします。そして「修道者の父」といっても、アントニオスが最初の修道者だったわけではむろんなくて、当時すでに大勢の「苦行者」がいたこと、ときとして彼らは――柱頭行者聖シメオンみたいに――市井の人々の人生相談的相手だったこと(いまふうに言えば、カウンセラーの達人)、つまりは相当数、そんな「苦行者」が町外れにいたことを、これら史料は暗示しています。こういうのは、周辺領域に目を配ることが肝心で、当時の時代背景の理解なしでは修道制成立の事情も理解しようがない。手許の文献とかもざっとだがあらためて目を通してみたりすると、一種の社会運動的盛り上がりがあったような気さえしてきます。そういう一団のなかから聖アントニオスやパコミオスたちが出てきたのではないか、と。

 ひとつ、おなじ修道制度といっても日本の禅寺の「修行僧」とこれら修道者と決定的にちがう点は、キリスト教の場合、修道士はあくまでも「町の聖職者」、つまり叙階された司祭・司教にたいして忠実であったこと、換言すれば彼らに支配される側にとどまったことという指摘はたしかにそのとおりで鋭いと思いました(註のp.67)。だから気性の激しいアイルランド人修道士(たとえば一本気な聖コルンバヌスとか)は後年、ローマ教会に属するガリアの聖職者たちと衝突したんだな。このへん、仏教のみならずマニ教とも決定的に異なる点です(マニ教では独身の出家者はエリート集団として一般の信者と完全に区別されていた。のみならず一般信者の「布施」で生活していたので、このへんも「ござ」をこさえて自活していた正統教会の修道士とは決定的に異なる)。

 以上、この手の本の性質上、ややとっつきにくい点はあるものの、概して読んでおもしろく、勉強になります。初期キリスト教修道制に興味ある人は読んでおいて損はなし、と思います。またエウアグリオス論の最後で著者先生が私見として述べている、「宗教にまつわる最も深刻な対立は、宗教と宗教の間に存在するのではなく、同一の宗教の内部にこそ存在する。対話が最も必要なのは、宗教と宗教の間においてではなく、むしろ同一の宗教の内部においてであり、その最も必要な対話とは、同一の宗教の内部で、知識人と非知識人の間で行なわれるべき対話なのである――もし宗教がなお、真理を自らのものと称しようとするのであれば」(pp.186-7)という主張もたしかにそのとおりかもしれない…と感じました。評価:るんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 23:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
この記事へのコメント
今晩は〜。修道院制に関する本は、何冊か読んだことがありますが、本書はかなり興味深そうですね。なんか読んでみたくなりました。

とは言いつつも、手元には東国札所三十三ヶ所巡り&西国札所三十三ヶ所巡りの縁起を記した分厚い本が、読みかけでこれを読了しない限り、なかなか新しいものには手が出せない状態です。

あちこち節操なく手当たり次第読んでいて、自分でも何がなんだか分からない状態ですが、こういう本ってそそられてしまうんですよねぇ〜。

いつも興味深い情報、有り難うございます。
Posted by alice-room at 2008年12月17日 22:53
alice-roomさん

コメントありがとうございますm(_ _)m

本文には書かなかったのですが、周辺領域への目配りという点ではひじょうにおもしろいことも書いてあります。それはキリスト教建築との関連です。はじめ非公認宗教だったキリスト教では、目立たないようにユダヤ教のシナゴーグに隣接した集会所のような場所を教会として使っていたが、260年のガッリエヌス帝の寛容令以後、多くの殉教者聖堂が建てられはじめたとする研究を踏まえたうえで、もしこれらの殉教者聖堂と町外れに住む修道者とを結びつけるなら、最初期の修道者の存在形態は、キリスト教徒、とくに殉教者の墓の「墓守り」のようなものだったのではないか(p.152)…たいていの類書では迫害を逃れた人が修道者になったとする捉え方が一般的ですが、殉教者を奉った聖堂ないしは祠を守る人が修道者(隠修士)になったかもしれない…あんがいそんなところかもしれませんね。もっともこの本はエジプトにおける最初期の修道制度を論じたものですから、エジプトでもそうだったのかどうかはなんとも言えませんが、可能性はあると思います。そしてこれはもちろんたんなる偶然ですが、ラテン語版『航海』26章に出てくる隠者パウルスも、パトリックの修道院の「墓守り」だったと書かれています。

「東国札所三十三ヶ所巡り&西国札所三十三ヶ所巡りの縁起を記した分厚い本」を読んでいらっしゃるのですか。こちらの書評も楽しみにしています〜。
Posted by Curragh at 2008年12月20日 17:17
更に詳しい情報をどうも有り難うございます。益々興味をそそられました。来年の春までには、チャレンジしたいと思います。早速、読書リストに追加しました(笑顔)。

書名は「西国坂東観音霊場記」 という本なのですが、西洋の「黄金伝説」とは異なるものの、不思議な奇蹟譚ってどうも私は惹かれてしまうようです。年末中に読了したいと思っているのですが・・・さてさて?
Posted by alice-room at 2008年12月23日 00:34
『西国坂東観音霊場記』という本なのですか。いまちょこっと「ググって」みますと、なんと著者は富士市出身の方ではありませんか。こちらもなにかの縁ですね。こんど図書館で探してみます。m(_ _)m
Posted by Curragh at 2008年12月26日 19:26
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