2009年02月23日

復活祭論争について

 本家サイトの一部記述訂正について悪しからずdisclaimerです。いわゆる「復活祭論争」の箇所ですが、最近、アイルランドで中世史を研究されていた方のブログを拝見したとき、ふと気になっていま一度664年ウィットビー大修道院での復活祭論争について、手許の資料をひまなときに精査してみました。結論から言うと、ちょっと誤解をあたえかねない書き方だったので、書き改めました。

 「復活祭論争」については学者先生の書かれた著書でも、たとえば「…ローマと直接結びつく南イングランドの教会と異なって長いあいだ孤立してきたケルト教会の宗規の違いは、衝突とはいかないまでも、論争を生み出さずにはいなかった(『キリスト教史 3』p.28)」とか、「…イングランド北部から南下してきたケルト系のキリスト教会の勢力と、南から進出してきたローマ教会系の勢力がその支配圏を巡って争い、キリスト教会分断の危険性さえ生じた(『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』p.97)」といった記述があったりします。でもじつはアイルランド本土の教会、とくに南部マンスターやキャシェルではこれより早く復活祭日付のローマ式算定を採用していた。はっきりそう書いてある本の当該ページをもう一度繰ってみたら、しっかり傍線まで引っぱってあった(苦笑)。というわけでこの問題、いま一度整理しておこうと思います。

 まずウィットビーでのローマ方式採用にいたるまでのおおまかな流れです。↓

AD 605-617 ローマ教会から派遣された三人の司教がアイルランドの司教兼修道院長宛てに書簡を送る
628 教皇ホノリウス一世がアイルランド教会へ書簡を送る(Bede, HE II-4)
629, 630 アイルランド教会がこれを受けてマー・レナ教会会議を開催、ローマ方式への統一を決定するも、アイオナなど北部教会はこれに従わなかった
631-3 アイルランド教会側は裁定を仰ぐためローマへ使節を派遣、マンスターなど南部教会のみローマ方式採用
639-40 北部教会が教皇ヨハネス四世へ書簡を送るも、教皇は彼らを「クァルトデキマニ」* の異端とみなす
664 ウィットビーの宗教会議でカンタベリー大司教を代表するイングランド南部教会代表ウィルフリッドにアイオナ代表コールマンが論破される。コールマンはアイオナへもどり、のちに30人の修道士を同行してアイルランド西海岸沖の孤島イニッシュボーフィンへ隠遁
697 バーの教会会議でアイルランド本土教会はローマ方式採用を全会一致で決定、アイオナ共同体のみ孤立する
716 アイオナ共同体、アイルランド在住アングロ-サクソン人司教エグバート(Ecgberht)の説得により最終的にローマ方式へ譲歩
[註]HEはHistoria ecclesiastica gentis Anglorumの略記

以上、ざっと見てゆくと、重大な疑問がわいてきます…ウィットビー宗教会議は、はたして「ケルト系教会vs.ローマカトリック教会」という構図だったのか? 結果的にはたしかにそうだったかもしれない。けれども、664年のウィットビー会議までのあいだ、すでにアイルランド本土教会とアイオナなどスコットランドのケルト系教会とは、あきらかな温度差がある。これは630年のマー・レナ教会会議のあと、ダロウ修道院長だったキュミアンが、アイオナの修道院長にローマ方式への転換を説得する書簡の存在からしてもうなづける。ウィットビー会議の顛末を報告している尊者ベーダの『イングランド教会史(第3巻25章)』ではどうなってんのかと思ってこちらのサイトを見たら、会議でケルト派の主張をぶったのは聖コルンバの流れを汲むリンディスファーン司教コールマン(前任者は聖フィナン、祝日は今月17日)で、イングランド・北部教会ともども現地語に長けていたロンドン司教ケッド(ヨーク、リッチフィールド司教聖チャドの兄、このすぐあとペストで病没)をオズウィ王など現地語しか話せない人への通訳として立てていたとある。ようするにアイオナ−リンディスファーンつながり。アイルランド本土教会の代表が参加していたとはどこにも書いてない。書かれてはいないけれども、北部教会側がローマ方式受け入れという「事実上の敗北宣言」をしたのであらためて意思統一を、ということで開催されたのが697年のバー教会会議。ここではじめてアイルランド教会側は全会一致でローマ式復活祭計算を採用するも、頑固なアイオナ側はまたも拒否した、という結果に。けっきょくアイオナ側が折れるのは8世紀になってからです。

 イングランドにおけるこの「復活祭論争」を描いたベーダの書き方を見るかぎり、なにやら劇的で当地では対立が激しかったらしい印象…を受けるのですが、これはケルト教会への敬意を払いつつも、ローマカトリック側の視点から描いた作者の筆によるところが大きいように思う。アイルランド本土では、いかにもアイルランドらしくわりと緩慢に受け入れていったらしい。つまりベーダやほかの伝記作者(エディウス・ステファヌスとか)が伝えるような激しい論争、ということではなかったような印象を受けます。いくつか資料を探してみたけれども、この一連の騒動は、結果的に「アイルランド系教会がローマカトリック教会側と歩調をあわせた」、ただそれだけのことににすぎないようです。たぶん彼らは自分たちがローマ側に「敗れた」というふうに認識すらしていなかったかもしれない。なので、やっぱり「アイルランドのケルト教会vs.ローマ教会」のような単純な図式は成立しない。アイルランド側では一部とはいえすでに「ローマ式復活祭日取り算定」を受け入れているし、「孤立していた」わけでもなくて、ましてや「異端」とみなされてもいなかった。当時はまだローマ教皇の権威がそれほど強くなくて、典礼方式も各地方教会によって異なり、ガリア式典礼、モサラベ式典礼、アンブロシウス式典礼、ケルト式典礼ありとまさしくバラバラ。もっともベースになっているのは「ローマ式典礼」だったけれども、大陸での社会秩序が落ち着いてくるにつれて発言力を増したローマ教会は、地方教会にも教皇を頂点とする司教区制度を徹底させるようになる。当然、氏族中心の修道院共同体だったアイルランド教会にもローマカトリック式司教区制度へ改めるように働きかけはじめる(パトリック来島以前に存在していた初期アイルランド教会では、ブレンダンの教師でもあったエルクはじめ、司教はいたにはいたけれど、あくまで従来の氏族社会に適応させたものでローマ教会のそれとはまったく異なる。のちに修道院長の権限が強くなると司教兼任の修道院長も多数出てきて、ローマ教会側はこれにも不満だった)。そうこうしているうちにこんどはヴァイキングがやってきて、アイルランド各地の修道院は大混乱に陥る。こういう不幸な出来事が重なって、アイルランドでは11世紀のクリュニー改革運動をへて12世紀にはシトー会などの定住型修道院に置き換わっていった…と考えていいのではないかと思っています(またこの時期はノルマン人とともに来島したアウグスティノ会などの托鉢修道会も活動をはじめていた。イングランドではウィットビー会議以降、部分的にベネディクト戒律を採用していた修道院が多かったこともあって、ベネディクト会系修族に置き換わった共同体も多かった)。以上、disclaimerと備忘録まで。

*...クァルトデキマニは、ユダヤの「過ぎ越しの祝日(ニサン月の14日目)」に復活祭を祝う古い慣例。314年アルル宗教会議で全教会がローマ教会と同一日付で復活祭を祝うことが決定、325年のニケア公会議ではローマ教会はアレクサンドリア方式(復活祭を3月21日春分後最初の満月のあとにくる主日とする)を採用、このときクァルトデキマニ方式は異端として破門された。ちなみにアイルランド使節がローマ滞在中の631年は、ローマ教会とアイルランド伝統派との復活祭は前者が3月24日、後者が4月21日とひと月近くも(!)ずれていた。

参考文献: J.F.Webb, D.H.Farmer trans. & ed., The age of Bede, p.15, pp.22-3, pp.116-8.

William M. Johnston ed., Encyclopedia of Monasticism Vol1, pp. 265-8.

盛節子 『アイルランドの宗教と文化――キリスト教受容の歴史』、pp.182-8.

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