2009年04月18日

「ロ短調ミサ」にレーゲンスブルク

 「バロックの森」は、バッハ最晩年の大作、「ミサ曲 ロ短調 BWV.232」特集。ライプツィッヒの聖トーマス教会カントルとして激務をこなしていたバッハは、礼拝における音楽のありかたについて市参事会と衝突することたびたび。あげくのはてに減俸処分まで喰らったりして、どうもこの時期のバッハはひそかに転職の機会をうかがっていたらしい。1730年10月28日には、かつてリューネブルクまでの道のりをともにした旧友でロシア公使として活躍していたゲオルク・エルトマンに一通の書簡をしたためる。「自分は絶えず不愉快さと嫉み、迫害のなかで暮らしている」。けっきょく旧友が転職を世話したようすはなくて、こんどはライプツィッヒからさほど離れていないドレスデン宮廷に眼を向けるようになる。バッハはハッセの新作オペラ初演に立ち会うためにかの地を訪問、聖ゾフィア教会のゴットフリート・ジルバーマン製作のオルガンをもちいた演奏会を開いて、大成功をおさめたりしていたから、ドレスデン市民のほうがバッハの「受け」はよかった。この時期からザクセン選帝侯一家を称える目的で旧作を転用した世俗カンタータをいくつか作曲しはじめていますが、じつは「ロ短調ミサ」もそうした「売りこみ」活動の一環だったようです。まず1733年7月27日付けで「キリエ」と「グロリア」のパート譜をザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト二世に献呈。その後「クレド」と「サンクトゥス」、「アニュス・デイ」を書き上げて、1749年ごろには全作が完成。「ロ短調ミサ」完成を優先させたためなのかどうかは本人に訊かないとわかりませんけれども、1740年ごろから作曲に取りかかっていたであろう――これまた畢生の大作と言うべき――「フーガの技法 BWV.1080」がけっきょく未完に終わってしまったのは、やっぱり惜しい気がする。ちなみに案内役の先生の解説でも触れていたけれど、「サンクトゥス」前半部は1724年のクリスマス礼拝のために書かれたカンタータが原曲なので、バッハの生前に演奏されたのは、この「サンクトゥス」前半部のみということになる。旧作カンタータのパロディが多いことからして、ギヨーム・ド・マショー以来の典型的なローマカトリックの「ミサ通常文通作」作品というよりは、大規模な「カンタータミサ」と言ったほうがよいかもしれない。単独のミサ曲でこれほど大規模な声楽曲は当時ではほかに例がないように思う。文字どおりバッハの記念碑的な宗教声楽作品でしょう。また「数象徴」大好きな人が小躍りしそうな仕掛けもいっぱいです。たとえば「クレド」。'credo'ということばは49回、つまり7x7回出てくるし、'in unum Deum'は84回(7x12、12はもちろん使徒数)、'Et incarnatus est'は19回(7+12、聖霊とマリアの人性)、'Crucifixus'では24音からなるバスに12個の和音が乗り、また基礎をなすオスティナートバス(固執低音)の反復音型は13回繰り返す、というぐあい。歌詞も、カトリックの「ミサ通常文」のみならず、ルター派の言い回しさえ出てくる。つまりこれは、せまい意味でのミサ曲ではない。カトリックとか、プロテスタントとか、そういったもろもろの制約から解き放たれ、ただ純粋に神を賛美するために書かれた音楽。だからこそ、信徒でもなんでもない一日本人が聴いても感動できるのだと思う。

 オルガン曲では「幻想曲 ハ長調 BWV.570」もかかりましたね。これはバッハがはたちになるか、ならないかくらいに書いた作品(小学館の全集版では1704年、『新グローヴ』では1708年以前としている)。小品ですが、けっこう好きです。やわらかいフルート系コーラスで演奏されることが多いですが、番組でかかったアンドレア・マルコンという人の演奏では、たいへん力強いオルガノ・プレーノでして、一瞬、べつの曲かと思った(笑)。おんなじ曲でも、レジストレーションひとつでこうも印象が変わってくるのですねぇ。

 …そしていつものごとく、これまた関係ない話ながら、いまさっきNHK総合で見たメキシコの「巨大結晶洞窟」。確認してないけれど、あの記録映像、National Geographicのものなんじゃないかな。あのバカでかい「石膏(セレナイト)の結晶(!)」が槍のごとくあっちこっちから突き出しているこの世離れした驚異の洞窟って、たしか以前、NG誌にも掲載されていましたから。それと、たまたまお昼にTVつけたらなんと、「世界ふれあい街歩き」にてレーゲンスブルクをやっているではないですか。途中からだったので残念! ひょっとしたら、大聖堂とか入ったかも。もしそうだったら、ぜひ見たかった。なんでもあそこのオルガンは、「一般の見物人からは見えない」場所に隠されているらしいから。「大聖堂の雀たち(Die Regensburger Domspatzen)」の呼び名で親しまれているレーゲンスブルク大聖堂聖歌隊の歌うバッハのコラールを収録したCDのライナーに、そんなことが書いてあります(MOTETTE CD 50721)。なんでも高祭壇の後ろ側に隠れるようにして設置してあるとか。写真を見ますと、歌っている聖歌隊員の背後にある祭壇のうしろから、ポジティフオルガンらしきケースの一部がちらりと見える…。なんでまたこんなヘンな場所に…と思ったけれども、20年くらい前に大規模な改修を施したとき、いっそのことオルガンもこんなせせこましいところじゃなくてもっと音響的にも最適な場所に再設置しようというわけで再三、会合が開かれたけれどもけっきょくまとまらず(どこの大聖堂でも似たようなもんだと思うが、たぶん予算がつかなかったのだろう)、オルガンじたいは新しくなったものの、1839年以来の「定位置」から動けずに現在にいたっています。ここの大聖堂に行かれる方は、高祭壇のうしろに注目してみましょう(笑)。またここの聖歌隊の前の指導者だった人は、現教皇ときょうだいでして、2006年だったかな、教皇がレーゲンスブルク大聖堂を訪問しています。というわけで聖歌隊のサイトをひさしぶりに見てみたら…あいかわらずなに書いてあるのかさっぱりですが、DVDかな? この'Domspatzen'というのは…。そしてオックスフォード・ニューカレッジ聖歌隊から昨年の今ごろに出たアルバム、'The Art of Choristers'もほしい(笑)。

posted by Curragh at 23:46| Comment(2) | TrackBack(0) | NHK-FM
この記事へのコメント
久しぶりにコメントさせていただきます。いつも、いろいろと勉強させていただいており、感謝しております。前のコメントの時は、ご教示ありがとうございました。その時は、お礼も書かず失礼しました。
ところで、今回のミサ曲ロ短調の作曲意図について、少し気になったことを書かせてください。紹介されている説は、以前から角倉氏がドレスデンへの猟官運動だったという説のことだとおもいます。これは小林義武氏らの説と対立しているようにみえます。お二人とも、ドイツでの論争をそれぞれの方が代表して、日本的に紹介しているように思えるのですが、私にはどちらも、豊富な資料と研究に基づいており、とても参考になり敬意も表しますが、作曲目的についての最終結論については、それほど確かな根拠に基づいているとはおもえません。それぞれに真実の一部は含まれているとは思うのですが最終結論は両方とも間違っていると思います。詳しく書くのは長くなるのでやめますが、私はバッハにとってこの曲の作曲意図は文字通りの意味での遺書であったと思っています。楽譜だけが残り、後世の音楽家が見れば、バッハが彼の作品(特にマタイ受難曲以降の)で何を言い遺したかったがわかるように書かれたのだと思っています。演奏機会があるとも想定しいないと思います。この点で私はお二人とは完全に違います。マタイ受難曲の完成譜(これも実際に演奏されたという証拠はありません。特にリフキンが演奏されたはずだと言ったのちに、あたかもそれで確定したと思われているようですが、私はある理由で、完成稿がバッハの生前に聖トーマス教会で演奏されたことはないと思います。すくなくとも自筆譜の通りには。)もそういう側面はありますが、まだ演奏機会を放棄はしていなかったと思います。しかし、バッハには、マタイ受難曲完成稿の例(演奏出来なかったという)が意識されていたのではないかと思います。いわば、マタイ受難曲がバッハにとっての、音楽的、宗教的転換点でミサ曲ロ短調が集結点だったのでしょう。
Posted by Deo at 2009年04月20日 00:36
Deoさん

鋭いご指摘、ありがとうございます。m(_ _)m

ただ、「ロ短調ミサ」については「遺書」というより「音楽による遺言状」と言ったほうがよりふさわしいかと思いました…バッハはまず他人の作品からすぐれた点を習得し、自家薬籠中のものにすることがたいへん得意な作曲家だったと考えています。バッハは自分が生涯をかけて学び、自分のものにしていったもろもろのこと、高度な対位法技法と声楽書法、数象徴を駆使して、後世の音楽家に自分が先人から受け継いだ音楽遺産を伝えようとしたような気がします。ただ、最初から「遺言状」のつもりで作曲していたのか、創作過程でだんだんにその思いを募らせていったのか…については自分にはよくわかりません。もうすこし文献を読んでみたいと思います。

一説によれば、バッハははやくもヴァイマール時代に受難曲を書いていたそうです。近年、「バッハの所蔵楽譜・蔵書」にかんする研究が盛んですが、ヴァイマール宮廷に仕えていたころ、ラインハルト・カイザーの「マルコ受難曲」を筆写して上演し、後年のライプツィッヒでもたびたび上演していたようなのです。それと、いまは失われてしまった「マルコ」と「ルカ」と、「マタイ」と「ヨハネ」の関連についてもどうだったのか…ほとんど門外漢の妄想にすぎませんが、興味があります。またこれは質問なのですが、「マタイ受難曲」後期稿は1742年ごろに聖ニコライ教会で再演したようなのですが、この版がトーマス教会では上演されなかった、ということなのでしょうか? ただ、リフキンのような「各パートひとりの歌い手」という主張は、賛成できません。ヴォーカル・アンサンブルとしての可能性という点ではおもしろいとは思いますが、それがバッハの意図したとおりの演奏だとは思えません。

「ロ短調ミサ」にかぎらず、この時期のバッハは――若い批評家シャイベに批判された反動なのか――古様式で書かれた作品、パレストリーナとかバッサーニらの宗教声楽作品を上演したりしています。こうした「古様式」研究の成果が、声楽作品では「ロ短調ミサ」として、また器楽作品、とくに「音楽の捧げもの」や「クラヴィーア練習曲集第三部」や「フーガの技法」、独立した一連のカノン群として結実しています。「フーガの技法」ではフローベルガーやフレスコバルディらの手法も見られます。こうしてみると、「マタイ」−「ロ短調ミサ」のみならず、晩年のバッハの大作にはおしなべて古様式にのっとったポリフォニー書法によってみずからの音楽を集大成しようという意思が貫かれていたように感じます。
Posted by Curragh at 2009年04月21日 03:19
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