本日は、聖ブレンダンの祝日。今年もぶじに迎えることができました(新型インフルエンザが気がかりではありますが…ちなみにいまはもう使わなくなった「豚インフルエンザ」は英語ではスワイン・フルー swine fluと申します)。昨年11月ごろ、こんな興味深い記事を見つけていたのですが、つい先日になってようやく目を通した(苦笑)…なかば放置状態だったけれども、タイミングとしてはちょうどよかったかも。
ラテン語版『聖ブレンダンの航海』のクライマックスであり、ブレンダン修道院長一行の旅の目的地でもあるこの「聖人たちの約束の地(Terra repromissionis sanctorum)」。この物語が中世ヨーロッパ中で人気を博したのは、聖人がいわば「地上楽園」を見つけるために長く苦しい航海に船出する、という筋立ての妙に尽きると思います。キリスト教徒から見れば「地上楽園」とはほかならぬ「エデンの園」、つまり神から与えられた、原罪を知らない人間本来の場所を再発見する物語ですし、またギリシャ・ローマ時代から知られている「幸福諸島」という名の「地上楽園」を再発見する物語としても受容されてきました。* このブレンドのさじ加減がまさに絶妙だったからこそ、西ヨーロッパ最果ての地から生まれた一航海譚にすぎないこの物語が大陸でも受けたのだと思います。『航海』とはきょうだい関係にある『メルドゥーンの航海』や、古アイルランド語で書かれた現存最古の航海譚『ブランの航海』(成立は7世紀ごろ)とこの『航海』が決定的にちがう点は、やはり知名度の高さです。ラテン語版『航海』だけで125もの写本群が確認されていることからしても、もしこれら『航海』写本群がなかったら、船乗りとしてもすぐれていたアイルランド人修道士の活躍を伝える資料というのは、後世に伝えられなかったかもしれません。
リンクした記事は、サンチャゴ・デ・コンポステーラ在住のフリーライターの人が書いたもので、聖ブレンダン、もしくはブレンダンに代表されるアイルランド人船乗り修道士は北米大陸の発見者だったのかどうか、というもので、トピックじたいはとくに目新しくはないけれども、ここでもすこしだけ検討してみたいと思います。
『航海』第28章で登場する「聖人たちの約束の地」には、つぎのような特徴があります(第1章ではブレンダンに先んじて上陸した聖バーリンドの話にも簡潔に出てくる)。1). この土地(あるいは、島)は、たがいの顔も見えないほど「濃い霧にすっぽりと包まれている」こと。2). ブレンダン一行が40日間、歩きまわっても「この土地には終わりがなかった」こと。3). 40日後のある日、土地の真ん中を東から西へ滔々と流れる大河のほとりに出るが、河はあまりに広くて「渡れそうになかった」こと(ここで「若い人」に出逢い、「この河を渡ってはならない」と忠告される)。4). 広大な土地には果実(「アランソン写本」現代仏訳では「リンゴ」になっている。オメイラ訳では'fruit')のたわわに実った樹々が茂り、土地の石はすべて宝石だったこと。5). 闇夜が訪れることがなく、永遠に「昼」がつづくこと。ここで注意すべきは、この航海譚にはアイルランドの船乗り修道士の実体験とキリスト教的要素、古典からの借用などが渾然一体となって、境界線がきわめてあいまいになっているということです。5)はあきらかに聖書、とくに「天上のエルサレム」を描写した「ヨハネの黙示録」が発想源だと考えられるし、3)の「土地(あるいは、島)をふたつに分かつ大河」というのも、いわば「この世」と「あの世」との「結界」を暗示しているとも取れます。2)にしても、果実のたわわに実る樹々が茂る土地…という「常春」を思わせる記述も、たとえばギリシャの歴史家ストラボンは紀元前50年ごろに「幸福島」について言及しているし、またアイルランド以外の古代世界に流布していた「幸福諸島」にも見受けられます。もっともこれについてはアイルランド土着の伝説的要素もあるていど反映されていると考えたほうが自然だから、かつてのアイルランド人研究者たちに主流だった、なにがなんでも「古典からの借用」という発想はすんなり受け取るわけにはいきませんが。
リンク先記事を見ると、たしかに北大西洋を自分の家の庭のように日常的に往き来していたアイルランド人修道士が「北大西洋の探検家リスト」の上位に来ていいと思うし、もっと注目されていいとも感じますが、「ブレンダンが北米大陸に一番乗りで到達していたのかどうか」という議論に火をつけたとも言えるジェフリー・アッシュの本 Land to the West(1962)に出てくる具体例、たとえば「かたまった海(chp.14)」=「サルガッソー海」というのはちょっとどうかと(アッシュらによるじっさいの北大西洋地理との検討は、オメイラ教授英訳本の「はしがき」にも紹介されている)…『航海』の該当箇所ではこの「かたまった海」の位置は、「眠りの泉の島」から見て北の方角。そこからさらに西風に押されて東進して、「羊の島」へともどってくる(chp.15)。「魔の海サルガッソー」はたしかに有名だけれども、はるかに南に位置しているから、ここでは的外れのように感じる。「聖人たちの約束の地」の地理的特徴をそのまま現実の地理に額面どおりに適用するのも、方向ちがいだと思う。
ティム・セヴェリンが1970年代後半に行った復元船による北大西洋横断航海も、ほぼ同時代にあいついで刊行されたアッシュやモリソンらの著作の影響をほぼまちがいなく受けています。そのセヴェリンの実験航海記 The Brendan Voyageについて、『航海』英訳者ジョン・オメイラ教授がTimes Literary Supplement(14 July 1978)紙に書評を書いていますが、どうも先生は自分の訳書を「無断引用」されたのがそうとうカンにさわった(?)みたいで、「『航海』28章ではブレンダン一行は『東へ向かった』とはっきり書いてあるのに、彼はあくまでもアメリカへ向かったことにしたいようだ」とばかりにかなり辛辣に批判しています。もちろん、オメイラ教授の言い分は正しい――『航海』に出てくる「約束の地」というのは北米大陸ではなくて、聖マーノックのいる「歓喜の島(Insula Deliciosa)」からさほど遠くない「西の海上」のどこかにあることを暗示しているから(もっとも、セヴェリンのおこなった実験航海の価値じたいは否定しない。じっさいにおなじような航海を追体験してみなければ見えてこない事実というものは確実にあると考えているから)。
リンク先記事には、アダムナンの『聖コルンバ伝』(7世紀)とディクイルの『地球の計測』(9世紀)が出てきます。『コルンバ伝』中の修道士コルマックの挿話に出てくる「人間が越えられない海」では、カツオノエボシだかクラゲだかなんだか知らないけれども得体の知れない「海の怪物」に襲撃されたことが書かれていて、いっぽうディクイルの『地球の計測』には最果ての地としてアイスランドが出てきます。両者とも、時代的には古い『航海』の言及がなぜかありません。著者の結論では、『航海』に出てくる「約束の地」のいかにもケルト伝説的な書き方(リンゴの樹、永遠の光)と、当時広まっていた「対蹠地(antipodes)」という「異界」発想まで引っぱりだして、この物語の読み手にとってもブレンダン一行がたどり着いたのは現実に存在する土地ではなく、「異界」だったと認識していたから、その後「新発見された陸地(ないしは島)」とは認識されずに終わったのではないかと結論づけています…でもオメイラ教授の言い分じゃないですが、『航海』第28章では、あくまでこのブレンダン一行のめざした「聖人たちの約束の地」というのは、アイルランド北西海岸沖に浮かぶ「歓喜の島」から遠くない「西の海のどこか」に霧にすっぽり覆われて存在していたと考えるのがもっとも合理的な解釈です。『航海』のどこを突いても「北大西洋を横断した」と思わせる記述は見出せない。具体的物証にも欠けているので推定にすぎないが、アイルランドの船乗り修道士たちが到達した最果ての地は、いまのところアイスランドかせいぜいグリーンランドまでだと思われます――いずれにせよ「聖人たちの約束の地」は、現実の北大西洋の地理と古代以来の「地上楽園」という、ある意味普遍的な「理想郷」、「桃源郷」、ジェイムズ・ヒルトンの小説 Lost Horizonに出てくるShangri-laのような「到達可能だが非現実の異界」として描かれているから、ヨーロッパ大陸の知識層読者の心を惹きつけ、その結果として『航海』の写本がつぎつぎと量産されるようになったのだろうと思います(リンク先記事に掲載されている画像の出典は、1362-67年にかけて、ピッツィガニ兄弟が製作した世界図に描かれた「カナリア諸島の聖ブレンダン」から)。
*... 「地上楽園」としての「エデンの園」については、たとえばカルタゴの神学者テルトゥリアヌス(c.A.D.160-225)が『護教論』Apologeticusで、「神々しい美しさを湛えた楽園は聖人たちの魂を受け入れるべく指定された場所」だと書き、またアレクサンドリアのオリゲネス(A.D.185?-254?)も、聖人が「天国」で永遠の生命を受ける準備として「地上楽園」に入る、と書いている。
2009年05月16日
この記事へのコメント
もっとも安く人を働かせる方法は楽園や永遠の命を信じさせることですか?
Posted by kodaimoso_hahe at 2010年03月15日 01:52
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