2009年06月06日

ふたたび「人が重点か、動作が重点か」

 米国版文章読本みたいな本、The Elements of Styleについて書いた記事で、ついでに引き合いに出した第5文型のよくある文例(知覚動詞+人+原形動詞または動詞の現在分詞形)にかんして、遺伝子工学や特許関連の現役翻訳者でもあるKeikoさんから手厳しい批判をいただきました。で、言い出しっぺとしてもこれは徹底的に調べなおさないと、ということで大西本・田中本をはじめ、調べられるかぎり文献や辞書事典類に当たってみました(立ち読み数時間、図書館でも数時間。本屋さんではもちろん、これはと思うものは買いましたよ[笑])。

 Keikoさんの主張は、すべて転記するのはしんどいのでこちらをご覧いただくとして、まずはじめに当方の非について自己批判。まずこちらの書き方がまずくて、少々行き過ぎだった点は率直に認めて、反省しなくてはならない。とくに「教える側が…」以下のエラソーな書き方とか。また当方の思いこみもあり、誤解を招くようなところがあったことも、率直にお詫びします。あらためてこのよくある文例について、虚心坦懐に見ていくと、「正しい捉え方」はつぎのように言えると思う。

 'I saw him sing a song.' の場合。田中本によると、'him(he) sing(s) a song'ということを見たということで、じっさいにその現場を見たというわけではない。'I saw him singing a song.'の場合はもちろん、目の前で歌っている当人をこの目で見たことになる。原形の場合は、'him(he) sing(s) a song'がひとかたまりのイメージ。ing形の場合は、「いま目の前で見ている」感じ。

Keikoさんはこの動詞ing形における、「躍動感」というものを当方が誤解しているとし、意味上の主語である「人」ではなくて、あくまで「わさわさ動いている感じ(大西先生ふうに言えば)」に「力点」がある、そこを見落としていると指摘しています。

ここまでが当方のエラー。ではKeikoさんが言うように、松本先生の本に書いてあることは「そういう目新しい(奇抜な?)理論」なんでしょうか? 

 そのとっておきの実例を、ほかならぬKeikoさん自身からちょうだいしました。「くまのプーさん」シリーズの一冊、『プーのほっきょくテンけん(Expotition to the North Pole, 邦訳は石井桃子訳)』からの一節です(→原文はここで読める)。重複を顧みずにここにももうすこし長く引用します(下線は引用者)。

But Pooh was getting something. Two pools below Roo he was standing with a long pole in his paws, and Kanga came up and took one end of it, and between them they held across the lower part of the pool; and Roo, still bubbling proudly, "Look at me swimming," drifted up against it, and climbed out. "Did you see me swimming?" squeaked Roo excitedly, while Kanga scolded him and rubbed him down. "Pooh, did you see me swimming? That's called swimming, what I was doing. Rabbit, did you see what I was doing? Swimming. Hallo, Piglet! I say, Piglet! What do you think I was doing! Swimming! Christopher Robin, did you see me--"

But Christopher Robin wasn't listening. He was looking at Pooh. ...(pp. 119-120)

小川の水溜りにドボンと落ちたカンガルーの子どもルーが、流されつつも「見て見て! ぼく泳いでるんだよ!」とアップアップしながらプーさんたちに必死にしゃべり、そしてプーさんたちの渡した'pole'にようやっとつかまって岸に這い上がった場面。下線部をよくよく見ると、ほんとうに言いたいことはただたんに「いまなにしてたと思う? 泳いでいたんだよ!」という「動作」というより、「うさぎさん、ぼくのやってたこと見た? 泳いでいたんだよ! やぁ、こぶた、聞いてよこぶた。ぼくなにしてたと思う? 泳いでたんだよ! クリストファー・ロビン、見てた? ぼくねぇ…」と、周りから見ればどう見ても流されているだけのルーが、「ぼく、泳いでたんだよ!」と「まさに泳いでいた自分」に注目してほしい、と言っているところがこの科白のほんとうの「力点」だと思うのです。幼い子って、よく言いますよね、「ねぇねぇ見た見た? ぼくいまねぇ…」みたいなこと。この「力点」について、松本先生はさらりと書いているだけだから、たしかに誤解を招く書き方ではあるかもしれない。でも誤りではないように思う。もっともすべてがこの通りにくくれるものではないことは認めなければならないけれども、すくなくとも「文章全体の力点」という点ではあながち的外れとは思えない。

 もうひとつの実例もKeikoさんから提供していただきました。こちらは『オックスフォード実例現代英語用法辞典(Practical English Usageの日本語版)』に載っていた例文。

Watch me jump over the stream. (p.367)

「私がこの小川を飛び越えるのを見ててごらん」なんてずいぶん悠長な訳がついてましたが、我流に訳せば、「見てて。この小川を飛び越えるから」。この訳文、どこに「力点」があるかと言えば、意味上の主語である「自分」がこれからおこなう「動作」にありますね。また「原形不定詞」について、当方の書き方のまずさゆえ、Keikoさんに誤解をあたえてしまったところがある。もちろん現在形とは別物ですし、僭越ながら出題したクイズは、いつもの悪い癖で「ついで」に出したもので、本題とは関係ありません。では動詞原形とはどういうものなのか。Keikoさんは「原形そのものには、なんの力もないといってもいい。真っ白の赤ん坊の状態なのです」と書いていますが、田中本にはこうあります。「(動詞の)原形にはテンスもアスペクトもなく、時間的に中立で、しかも、動作の場合は『未遂行の状態(いまだ遂行されていない状況)』が前提になる」、「現に起こっている何かというよりも、むしろ『行為の未遂行』ということから『何かをこれから行う』あるいは単に『何かをする』ということを表現するということである」(『文法がわかれば英語はわかる!』pp.110-1。下線は引用者)。ここが、松本先生の言う「原形の場合は『動作』に力点がある」ということと重なると思われるのです。「動作が未遂行」の状態というのは、おのずと読み手ないし聴き手の関心が「そのあとどうなるのか」のほうに移りますね。なので松本説がとりわけ「奇説」というわけではないと思います。たしかにそこまで「踏みこんで」書いている本は見当たらないけれども。

 断っておきますが、松本先生の本は翻訳技術にかんする本なので、英語学習者はあんまりこの点にこだわる必要はないかもしれない。でもことばの深層構造を考えるうえでは、一見、おんなじことを伝えているだけに思える第5文型のこの二通りの用例には、微妙に伝えたいことのニュアンスがちがうということは、やっぱり言えると思う。たとえば「ゾウの鼻は長い」と「ゾウは鼻が長い」とでは、微妙に伝えたいことがちがいますよね(え、なに、わからんですと??)。蛇足ながら説明しますと、前者では「鼻」に、後者では「ゾウ」にそれぞれ重点がくる。二通りの第5文型の文例はこれと似ています。洋の東西を問わず、ことばというものはじつに奥が深いと思います。

 …Keikoさんいかがでしょうか? 「キアーロ」していただけましたか(「気まクラ」ふうに)? 以上当方のお詫びと自己批判、そして独断と偏見のなるべくないように努めた拙い分析でした。

posted by Curragh at 22:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 語学関連
この記事へのコメント
また随分時間をかけて丁寧にお調べくださったとのことで、ありがとうございました。

数回読み直してまず思ったことですが、、、、、やはり私は納得できません。キアーロしませんよ〜〜 それどころか、、さらなる混迷も、、、orz…

以下、同じことの繰り返しになる部分もありますが、いま一度お付き合い下さい。

>'I saw him sing a song.' の場合。田中本によると、'him(he) sing(s) a song'ということを見たということで、じっさいにその現場を見たというわけではない

すみません、これはもう少し説明していただけませんか。私の固くかつ貧しい頭では、おっしゃる意味がわからないのですが・・・「わたし」が、実際に彼/彼女が歌うのを見に行ったのでなければ、なんで、わざわざI saw というのですか?? I heard him sing でも I saw him sing でもI saw him crossでも何でも構いませんが、ともかく、主語が目的語の行う何らかの事実を知覚するからこそ、こういう構文になるのではないですか??

>「ぼく、泳いでたんだよ!」と「まさに泳いでいた自分」に注目してほしい、と言っているところがこの科白のほんとうの「力点」だと思うのです。幼い子って、よく言いますよね、「ねぇねぇ見た見た? ぼくいまねぇ…」みたいなこと。

ここはおっしゃる意味は確かにわかりますよ。まずは「ぼくのやってることみてた?」が言いたいことで次が「泳いだんだよ!おぼれてたんじゃないよ!」だということでしょう?

確かに、自分を母親や周りの大人にアピールしたくて、自分が体験することを興奮して話したがる幼児が使う’me’という言葉は、大人のそれとはまた異なる強くて深い意味を持つのでしょうね。(幼児にとって一人称がそれほど重要だというのは、日本語をはじめ、あらゆる言語において言えることだと思います)

最初からCurraghさんのおっしゃりたかった「力点」というのが、そういう観点だったというのは、本日初めて知りました。なるほど、面白いですね。

あの、、、、Curraghさんは最初こう書いておられました。

「進行形の場合は<中略>「だれが歌っていたのか?」という質問が前提になっているので、「ほかのだれでもない彼」が歌っていた、ということになります」

これはですね、例えば「AledではなくてHarry が」ということで、単純にAではなくてBが・・という他者との比較におけるその人の強調だとおっしゃっていたのだと解釈したのですが・・・
(それが誤解だとおっしゃるのですかね??)

幼児にとっての’me’ は、そういう他人との比較という相対的なものではなくて、もっと絶対的なものだと思います。もちろん、誰々ちゃんじゃなくて、ぼくをわたしを、というシ単純なシチュエーションもありますが、少なくとも上記のルーの科白で、ミルンが言いたいことは、、そういうことではありません。なぜなら、川の中にいたのは、ルーだけだったという明白な事実があるからです。他のカンガルーの子供と遊んでいたわけでもありません。

ですから、この場面において、力点がme > swimmingであるという理論は成り立たないと私は思います。(お断りしておきますが、私は2つの要素を天秤にかけて比べるように力比べすることには興味がないのです。どうもCurraghさんが、そういう比較によって議論展開をすることに固執されているようなので、、こちらもこういう説明の仕方をせざるをえないのですけどっ(笑)) しいていえば・・・ me = swimming または、me < swimmingだと思います。

これを検証するには、次のように考えてみてください。先ほども言ったように、川に落ちたのはルーだけだということは明らか、だから、引き上げられたあと、meという情報を伝えなくても、話は成立します。ですが、swimmingという語は絶対に伝えないと、「溺れてたんじゃないよ、泳いでいたんだよ」という重要情報が伝わらないので、話は全く成立しないのです。

<ここで切って、残りは次の投稿にします。>

Posted by keiko at 2009年06月07日 15:02
もうひとつ。英国人ネイティブの人たちが、この有名なお話の中でいかにswimmingというところに焦点を感じ取っているか、ということを証明するものがあります。それは、音声教材です。私は何人かの英国人による朗読CDをいろいろ愛聴していますが、いずれも、
Did you see meまではどの単語もほぼ同じ強さ/長さ、音程なのですが、swimming?でふうっと強くなり音程も高くなります。Curraghさんがおっしゃるように、あくまで me > swimmingであれば、Did you see みいいいい!swimmingになるはずではありませんか??

>動詞原形とはどういうものなのか。Keikoさんは「原形そのものには、なんの力もないといってもいい。真っ白の赤ん坊の状態なのです」と否定的ですが、田中本にはこうあります。「(動詞の)原形にはテンスもアスペクトもなく、時間的に中立で、しかも、動作の場合は『未遂行の状態(いまだ遂行されていない状況)』が前提になる」、「現に起こっている何かというよりも、むしろ『行為の未遂行』ということから『何かをこれから行う』あるいは単に『何かをする』ということを表現するということである」

別に私は「否定的」なんかじゃないですよ(苦笑)・・・否定とか肯定とかいう次元の話ではありませんっ。。。「なんの力もない」の次の「真っ白の赤ん坊の状態」のほうにもう一度着目していただけませんか。これから成長して、いろんな無限の可能性をもつ未来志向のものではあるが、現時点では何も定まらず無力なごく基本単位としての純白な状態、そういう意味です。ですから、その田中先生のおっしゃる「テンスもアスペクトもない」「なにかをこれから行う」というのと同じです。これから、、でも not yet だということでしょう??

>ここが、松本先生の言う「原形の場合は『動作』に力点がある」ということと重なると思われるのです。

重なりませんよぉ。。。。。誰か助けてっ(笑)

>なので松本説がとりわけ「奇説」というわけではないと思いますね。

いや奇説です。それに、そもそも、知覚動詞構文において(知覚動詞と限定するわけじゃないとおっしゃるなら、準動詞で??)そういう「どちらに力点が?」ということに固執する意味がどうしてそれほどあるのか、ということ自体私にはわかりません。

度々の乱入、乱文どうお許しを・・・・m(__)m


Posted by Keiko at 2009年06月07日 15:05
補足です。

「Did you see meまではどの単語もほぼ同じ強さ/長さ」と言ったのは、訂正したほうがいいかもしれません。

正確にいうとですね、、
こういうリズムなんですよ。

「タッカ、タッカ、タン!」という付点八分音符2回のあと、八分音符1回。

タッ  カ  タッ カ   タン!

Did  you see  me   swimming

(you と me が「カ」に対応しているということを、わかっていただけますよね?)

つまり、youとmeはごく短く弱くて、swimmingが一番強く長いです。

(Satomiさん、これ、音符の名前は間違ってませんかね??笑)

まだ説明し足りないこともありますが、長くなるので、このへんにしておきましょう。

失礼しました。


Posted by keiko at 2009年06月07日 18:49
1). 'him sing a song'の場合、「なにかをする(歌う)」という行為を表しているだけで、「『彼、歌を歌う』ということを聞いた/見た」(上記引用の田中本より)。

2). > 「進行形の場合は<中略>「だれが歌っていたのか?」という質問が前提になっているので、「ほかのだれでもない彼」が歌っていた、ということになります」

これはですから当方の勇み足です。

ルーの科白については、相対的にだれとだれとをくらべてというわけではもちろんありません。泳いでいるつもりのルーと、流されつつあるルーをみんなが見ているから、ing形になっているのだと解釈しました。swimmingを強調してしゃべっているのは、流された本人の科白なので、当然そうなるでしょう。石井訳も読んでみましたが、流された本人が「流されたんじゃなくて、泳いでたんだよ!」と力説しているからユーモアを感じるのではないでしょうか。

3). 不適切な表現は平にご容赦を。のちほど削除します。

4). > 重なりませんよぉ。。。。。誰か助けてっ

動作が「未遂行の状態」である場合、読み手/聴き手の関心は「その後どうなるのだろう?」ということになりますね? 'Watch me jump over the stream.'なんかはまさしくそうだと思いますが。

5). > そういう「どちらに力点が?」ということに固執する意味がどうしてそれほどあるのか、ということ自体私にはわかりません。

形がちがう以上、伝えたいことが微妙に異なるからです。まったくおんなじだったら、同一でいいはず。「ゾウの鼻」の文例とおんなじです。そのことを――誤解を招く言い方かもしれないが――端的に指摘したのが松本本かと思います。
Posted by Curragh at 2009年06月08日 00:50
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