まずは「バロックの森」からまとめて。先週分の「中世・ルネサンスのミサ曲」。最初に「ミサ通常文」に通作したランス大聖堂聖職者にして作曲家だったマショーの「ノートルダム・ミサ」、前にも聴いたけれどもオケヘムの超絶対位法による「ミサ・プロラツィオヌム(拍子の異なる四つのパートが同時に歌われる)」、ルネサンス時代に流行った対位技法のひとつ、模倣様式の頂点をなすと言われるジョスカン・デ・プレのミサ曲「舌よ、歌え」、対抗宗教改革時代の「トリエント公会議」の決定を受けて、「歌詞が聞き取れるようにした」パレストリーナのミサ曲、「教皇マルチェルスのミサ」とか、まさに大作ぞろい(バッハ最晩年の一連の「古様式」ものは、パレストリーナやフレスコバルディふうの対位法書法が使われています)。また今回、放送を聴取しておもしろかったのは、ギヨーム・デュファイはワインにもうるさかったらしい、ということ。シャンソン「さらば、ランのよきワインよ」なんて作品まで残しているんですね。よっぽどそこのワインがうまかったんだな(笑、ちなみにバッハもワイン好きで、晩年のライプツィッヒ時代では当地で流行ったコーヒーも好きだったらしい)。デュファイときて、fauxbourdon という用語も思い出した。自分もこれよくわかんないんですが( 笑、意味は「見かけの低音部」くらいでしょうか。bourdon ということばはもとは擬音語で、ハナバチみたいな太っちょのハチがブンブンいう羽音からきている )、デュファイの場合は、上声パートにたいして即興的に完全 4度下もしくは 6度下で歌われた内声パートのことを指すようです( 英国ではこのような和声進行をディスカントと呼ばれたようで、「イングリッシュ・ディスカント」なる呼称もあります )。
今週は、テレマンが富裕市民階級の奏楽向けに書いたというその名もずばり「音楽の練習」なる曲集の特集でした。この 1740年に出版されたという室内楽曲集は初耳でしたが、ふつう通奏低音担当楽器、チェンバロやヴィオールといった脇役を主役に据えたトリオ・ソナタとかがちょっとバッハを思わせておもしろかった。けさの「リクエスト」では、北ドイツオルガン楽派の祖、オランダのスヴェーリンクの傑作のひとつ、「エコー・ファンタジア」もかかりましたね。明日の朝はこれまた楽しみなのが、オルランド・ディ・ラッソの「楽しいこだま( O lá! O Che Bon Eccho )」。合唱は、言わずと知れたドイツの名門、レーゲンスブルク大聖堂少年聖歌隊。使用盤は日本クラウンらしいけれども、廃盤になった古い音源らしい。この曲、東京カテドラルにてBoni Pueriで聴いたけれども、文字どおり数人の団員が背後から「こだま」を返す、とても楽しい歌です。作曲者ラッソ自身も少年時代は美しいソプラノヴォイスの持ち主ゆえに、その美声をめぐって何度か「誘拐」されたこともある、ある意味すごい経歴の持ち主でもあります( 英国でもたとえば「王室礼拝堂 Chapel Royal 」は田舎の大聖堂や修道院を回っては優秀な少年聖歌隊員を公然とさらっていた )。
昨夜、NHK総合にていまやときの人、辻井伸行さんが生出演してピアノを弾いていたので番組を見てみた。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール審査員のひとりが、こんなこと言ってました。「彼の演奏は飾り気がなくて、素直だ」と。コンクールの審査員って、だいたいメモ書きしていますね。でも辻井さんの演奏が始まったとたん、この審査員の先生はノートを閉じ、演奏に聴き入っていたという。
かつてサイモン・プレストンがヘルムート・ヴァルヒャの演奏を、「素朴で、飾ったところがないからよかったんです」と評しているのを読んだことがあります。辻井さんの場合も、まったくおんなじでした。梯剛之さんもそうだけど、盲目というハンデイを背負った演奏家はそれゆえに「音」にたいする反応が異常なほど発達しています。バッハがヴァイマール宮廷で宮仕えしていたころ、公子エルンストが留学していたオランダではヤン・ヤコプ・デ-グラーフという盲目のオルガニストが、当時最先端だったイタリア様式の協奏曲形式をひとりでオルガンで弾くという妙技を披露して人々を驚かせていたという。音楽理論家のマッテゾンをして、「三声や四声からなるあらゆる最新のイタリアの協奏曲やソナタを暗譜しており、わたしの眼前で、氏のすばらしいオルガンをもちいて驚くべき正確さでこれらを演奏した」(1717年)。16世紀スペインにもアントニオ・デ・カベソンというやはり盲目のオルガンの名手がいて、「スペインのバッハ」なる異名をとるほどの大作曲家でもありました。
辻井さんの演奏を聴いた審査員先生の話にもどると、つまるところ辻井さんの奏でる音楽は、演奏行為という介在をもはや感じさせない域にまで到達していたということではないかと思うのです。だれだって心から音楽に聴き入るときは、目を閉じて耳だけで聴こうとすると思います。目の見えない人は、もともと音にたいする感覚が研ぎ澄まされているから、それゆえ音楽の本質に迫れるのだと思います。審査員先生が指摘するごとく、最近は技巧に走る奏者が多いとは感じる。もっとも最低限必須の演奏技術は必要です。どんなに複雑な楽曲でも、作曲者が訴えたいことを汲み取って、音楽として再現しなくてはならない。これはたいへんなことです。そしてピアノという楽器は、チェンバロやオルガンにはない難しさがある。たとえば音色・鍵盤の形状などは、チェンバロほどには楽器製作者のクセとか、お国柄によるバラつきは少ない。でも左手と右手の微妙なタッチの差がすぐ音に反映される。これを完璧にコントロールしたうえで、なるべく作曲者の意図に迫り、解釈したものを音として出さなくてはならない。辻井さんの指の動きを見ているととてもしなやかで美しく、神業にも思える。
ヴァルヒャも辻井さんも、「盲目だから、ではなくて、ひとりの演奏家として見てほしい」というまったくおんなじことを言っているから、「盲目の演奏家は…」という言い方はたしかによくない。辻井さんに言わせれば、「心の目は見えているから、大丈夫」! だからあのようにピアノと一心同体になれるんですね。それが聴く人の心に、音楽のもつ力をストレートに、深く伝えているのだと思う(余談ながら、「杜のホールはしもと」でBoni Pueri公演を聴きに行ったとき、年明け3月に辻井さんのリサイタルを予告するチラシを見かけました…そのとき聴いておけばよかったかな?)。
…そういえば今年は6点点字の発明者、ルイ・ブライユも今年が生誕200年。パリ盲学校出身の彼もまた、すぐれた教会オルガニストとして活躍していました。やはり即興演奏が得意だったようです(点字楽譜について、このようなページを見つけましたが、点字楽譜の普及についてはどうなんだろう…。点訳本でさえ需要に追いついていないので、点字楽譜の場合はさらに輪をかけて追いついていないのではないかと思ったしだいです)。
…と、話はまったく関係ない方向へいきなり飛んでしまって申し訳ないのですが、静岡県民のひとりとしてどうしても一言だけ言いたい。明日は県知事選挙の投票日。ここ二週間ばかし、静岡県知事選挙戦のことがかまびすしくメディアでも取り上げられたりしましたが、「衆院選の前哨戦」だなんて冗談じゃないですよ。「政争の具」にしないでいただきたい。今回の選挙は、県民のために真摯に仕事をしてくれる、しかるべき人を選ぶための選挙です! 個人的には、前知事在任四期16年はひどかったと思う。なんで県民の税金で「搭乗率保証」なんかしないといけないの? 飲酒運転した県職員については免職さえしなかったし、教育委員会や財務事務所の「プール金」問題が立てつづけににバレたときもけっきょくなんだかよくわからないかたちで収拾してしまったし…こんどはもうすこしまともな感覚をもった人に就いてもらいたい。
2009年07月03日
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