2009年09月23日

『アイルランドの文学精神』

 『ケルトの聖書物語』の著者である松岡利次先生渾身の著作。一昨年にはすでに刊行されていたのに、知ったのはつい最近、『アイルランド・ケルト文化を学ぶ人のために』という4月に出た本の「ケルト神話と中世航海文学」の項目章末に挙げられていた参考文献リストを見てからでした(遅すぎ、武蔵)。→版元紹介ページ。

 副題に「7世紀から20世紀まで」とあるように、数多くの手写本が残されるようになる7世紀以降のアイルランド文学を俯瞰していますが、それだけにとどまらず、アイルランド文学という土壌に一貫して流れる彼らの文学精神について平明に語ることに重点を置いています。これはかなり異色で稀有な著作だと感じました。

 自分自身はいわゆる「ビッグハウスもの」とか「詩人の学校」とかはおろか、現代アイルランド作家についてほとんどなにも知識を持ち合わせていないから、この手の本はほんとうに貴重。読み終えて、6世紀ごろ作の『聖コルムキレ賛歌』にはじまり、90年代のアイルランド版バブル時代の作家メアリー・バークの『イー・ブラジル』*とかドウナル・ルエインの『俺はアイルランド人――ここから救い出してくれ』までの文学が孤立した点ではなくはじめて一本の線としてつながり、古より一貫して通底するアイルランド人の「意識の流れ」というものがようやくにしてわかってきたかとも思う。これはひじょうに大きな収穫でした。

 承知のとおりアイルランドの歴史は苛烈を極める搾取と偏見、差別の歴史でありますが、「それでは彼らの言語面ではどうであったのか」という点について、他国からの侵略というものに頻繁にさらされたことのなかった日本人から見るとまことに想像を絶するものがある。近代以降、アイルランド人の大半は本来のことばであるアイルランド・ゲール語を捨て、「アイルランドの」英語話者として生きる道を歩まざるを得なかった。反動として、ダグラス・ハイド博士らの「ゲール文芸復興運動」などが盛んになりますが、異国の地にあってそのようすを冷静に眺めていたジョイスやベケットたちはそこに巣食う偽善性、偏狭な原理主義を敏感に嗅ぎ取り、彼らの運動そのものを諷刺、パロディ化した。おなじ国の人間でありながらもはや母国語に立ち返ることもままならず、かといってよそ者の言語にして植民地時代から宗主国によって押し付けられた英語にも心の奥底に秘めた思いを託すこともできず、また北アイルランド問題に代表されるように文字どおり国家そのものがいまだに引き裂かれた状態にあるなか、この異常な「言語の二重状態」によって精神までもが引き裂かれつづけている――アイルランド文学とはつまるところ、この異常な言語情況が作り出した一種の奇跡にして怪物と言えるのかもしれない。

 初期キリスト教時代のアイルランド人聖職者は国際語にして共通語だったラテン語を完全に我がものとして、ラテン語そのものを皮肉った『西方風の語り(Hisperica Famina)』なるとてつもない奇作まで創作している(作者はたぶん大陸にいたアイルランド人学者。ある意味この作品はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の先駆けとも言える)。でもジョイスたちの綴る英語(もどき)の小説になるとあきらかに事情がちがう。言ってみればそれは、聖コルンバヌスが革舟カラフを駆って大陸へと布教旅行して身につけた「外国語」としてではない。彼らの乗ったそのおなじカラフがその後「棺桶船」に変わり、大飢饉に見舞われた祖国を捨て、生き延びるためにやむをえず海へと乗り出すしかなくなったアイルランドの農民が世渡りをするため、生きていくために身に着けることを余儀なくされた「外国語」として、だと思う。この絶望的にどっちつかずの状態に陥れば、人は失語症になるか、やたらくたらとしゃべりつづける饒舌のいずれかになるしかない。アイルランドの文学者たちは後者を選んだ――でも彼らの内面は分裂したまま。ある者はゲール語にこだわりつづけてゲール語でものし(『アイルランド地誌』のカンブレンシスも槍玉に挙げられる)、ある者は「みずからが英語話者のくせして、母国語を復活せよというのは偽善だ」として英語で書きつづけ、前者を、ひいては自分たちの国民性までも痛烈に皮肉り、パロディ化してしまう者…いままでこういう視点で考えたことがなかったので、このへんにくるともう圧倒されっぱなし。著者の書き方がはたしてこの「言語二重性問題」を言い得ているのかどうかはまた批判する向きもいるかと思うが、個人的にはそのとおりかも、と思う。歴史を通じてアイルランド文学のひとつの特徴として感じるのはたとえば時間の流れの歪み、あの世とこの世の「結界」のあいまいさ、徹底的に「笑いのめす」諷刺精神、そして何十にも入れ子になった複雑なパロディ化だと思う(もっとも「饒舌さ」、「話好き」については中世写本の楽しい「落書き」にも見られるように、彼らの生来の特徴と言える)。

 いまひとつ、終末思想というものはどこの世界にもあるとは思うけれどもアイルランド人聖職者たちはことのほか興味を示して、パロディ化した作品をいくつも残しています(『天の王国の悲しきふたり』、『聖アダムナンの幻視』、『常新舌』、『終末の兆し』など)。これについてもやはり彼ら独特の「無常観」が反映された結果かもしれない。『アイルランド来寇の書(Lebor Gabála Érenn)』は最初の植民から最後の「ミールの息子たち」、つまりいまのアイルランド人の祖先がやってくるまでの「神族」たちと人間たちの果てしない興亡を、ひとりの「変身しつづける、死に切れない人間」の目から描いています。また「地上楽園」のごとき形容をされるアイルランド特有の「異界」も、じつはこの世の対蹠地(antipode)、一種のパラレルワールドにすぎず、苦しみもあれば争いごともある(『コンラの冒険』、『ネラの冒険』など)。でももう「死んでも死に切れない」という苦しみからはいずれ解放される! ――「最後の審判」のときこそ、まさにこの世の「時間」というものが消滅するからだ…世の中を見てみればたとえばノースメン(ヴァイキング)来寇とか、堕落した大修道院どうしの血なまぐさい闘争とかが頻発する。当時の写本に書き写された物語群は額面どおりに受け取るものではなく、「それが書かれた時代背景」というものが反映されているもの。加えて、フィリと呼ばれた特権階級の詩人たちから受け継いだこのような「ぐるぐると果てしなく生々流転しつづける」物語が好きという、アイルランド人の精神的嗜好というものをかんがみる必要があると思う。その後はアングロ・ノルマン軍の侵入、だんだんに強化される宗主国の政策とカトリックの弾圧と差別、そして母国語抹殺の悲劇…とまさに現し世の悲惨を味わい尽くしたかのような茨の道のりが彼らの文学作品に深く深く影響している。また古代アイルランドの残影がいまだに現代文学にも見受けられる。たとえば「呪い」。例として挙げられている「死ね、カイアル!」に代表される呪いは詩人階級などが勢ぞろいして執行される儀式になっていたという(古代アイルランド社会では公衆の面前で恥をかかされることは万死に値することと考えられていたらしい。かつての日本にも「恥の文化」はあったが…)。なんだか日本の「丑の刻参り」みたいですが、そうはいっても彼らの過酷な言語環境はこちらとではまるで比較にならない。日本はむしろアイヌの人こそ、「言語を失う筆舌に尽くせぬ悲しみ」というのを肌身で知っているように思います。またある作家が自分の名前からゲール語長母音記号の「ファダ」を取り去ることがいかにつらい決断だったか、についても書かれていましたが、われわれにはおよそ計り知れない「大事件」にちがいないと察します。

 ひところのように単純に「ケルト的(Celtic)」とくくられることはなくなってきたとはいえ、やはりアイルランド人とその文学遺産に見るケルトの精神とはなにか、を深く考えさせられる一冊であることにはまちがいありません。虚心坦懐に、貪欲に、そして真摯に彼らの文学精神を学びたい向きには必読の書です。

 巻末の「アイルランド文学年表」。6世紀末の『聖コルムキレ賛歌』にはじまり、20世紀まで列挙された作品の蓄積は壮観そのもの、身震いさえ覚えます。著者は「あとがき」で近現代ものは大幅に割愛せざるを得なかったと書いていますが、それでもこれだけの作品群の分類と、時代を超えて縦横無尽に語るそのステーリーテリングの巧みさには目を見張りましたし、またなぜか心慰められたりもした――『方丈記』にも相通じる無常観とか、7-8世紀の隠修士たちの書き残した美しい自然詩(当時としてはこの手の自然詩というのはほかに例がない)とかには、たしかに日本人の心の琴線に響くなにものかがあると思う。でもアイルランド文学というのは、輝かしい黄金時代の呪縛からいまだに逃れられず、「私たちは生きているが、私たちは死んでいる(『ダ・デルガの館の崩壊』から)」という状態でこのやりきれなさから脱出しようと必死に活路を見出そうとしているのかもしれません。また19世紀の土地測量に伴う「地名の英語化」がいかに土着の文化と記憶を破壊したかについても言及しています(p. 76の「ケリー州のアイルランド語使用地域コルカ・グイーネ[=ドゥヴネの子孫の意]」(Corca Dhuibhne)というのは、現在のディングル半島一帯を支配していた古王国の名前で、英語名Dingle(Peninsula)へと変えられた[→観光局サイト]。ちなみにこんな記事も見つけました)。

*...「イー・ブラジル(Hy-Brasil)」はいわゆる「楽土」、「楽園」のことですが、これについてはカーニーらによるとUí Breasailに由来する可能性は否定しないものの、アイルランド土着のことばではないという。「ブラジル島」がはじめて地図に出現するのは1325-30年ごろのカタルーニャの地図上だという。その後ピッツィガニ兄弟やアンドレア・ビアンコらの地図に描かれるようになり、1853年になってもなおこの空想の楽園が'Hy-Brasil Rocks'として英国人フィンドレーの地図に記入されていた。『聖ブレンダンの航海』がらみでは、p.108『西方風の語り』中、「…風の話に続いて、集まった人びとの衣服について触れている。紫の衣をまとい、白い衣をまとい、真紅のローブをまとうというのである」というのは、たとえばchp.17に出てくる「三組の聖歌隊の島(堅き者の島)」の聖歌隊の描写、「少年組は白、青年組は青、壮年組は真紅の」衣服をまとっていたという記述にどことなく似ていると感じた。

評価: るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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