2009年10月19日

『日本語が亡びるとき』

 … 巷では売れているらしいけれども、とりあえず図書館で借りて読んでみよう、と思ってはや数か月。行くたびに「貸し出し中」…になっていて、読んでみようと思ってから3か月くらい経った先日、ようやく借りまして、読んでみました。で、読んでみた第一印象は「なんだか知らんがとにかく論旨がたどりにくい本だなあ」(苦笑)。ようするに近代日本文学という「古典」が読まれなくなったら、あるいは学校教育において子どもたちに日本近代文学を読ませなくなったら、2000年の長い伝統を持つ日本語そのものが「亡んで」しまう、という自身の強い危機感が前面に押し出された本だということだけはボンクラでも理解できた(→著者のインタヴューを読むとさらによくわかった)。

 この本は言語学者が提出するような論文調ではなくて、著者自身の実体験にもとづいた、あくまでも「主観的な」日本語論、というか独断も偏見も丸出しのエッセイ。だから、というわけでもないとは思うけれども、先述したように「なんだか読みにくい」箇所がところどころ出てきて、アタマのよくない一読者はそのたびに何度も読み返すことになる(苦笑)。たとえば「私はすべての民族が<自分たちの言葉>を護るべきだとは、決して、思わない。… いつしかその言葉を話す人たちさえも地上から消えてしまったところで、その国の人たちを民族的誇りのない人たちだとは思わない。… 長い目で見れば、文明は大小にかかわらず興っては『亡びる』ものでしかなく、数え切れないほどの<話し言葉>はもちろん、数え切れないほどの<書き言葉>も『亡び』ていった」(pp.283-4)。ときて、いきなり「だが、私たち日本人はどうすべきか」なんていきなり振られたのでは、それこそ身も蓋もないではないですか。また引っかかる箇所も多くて、「フランス語とは、まずは1066年、フランスのノルマンディー公がイギリスを征服してから三百年にわたり、イギリスの宮廷で使われるようになった言葉(p.64)」という一文。「今のフランス語とは大分ちがう」と丸カッコつきで書いていますが、いまにいたるフランス語って、たしか北部方言のひとつ「オイル語(Langue d'oïl)」が南部の「オック語(Langue d'ocまたはOccitan)」を凌駕したのがそもそものはじまりなんじゃなかったかしら(Ancien Français)。英語成立史なら古フランス語のひとつ「アングロ・ノルマン語」について書かれてあっても不思議ではないけれど …。また著者が招待されたというIWPなる「世界中の作家がアイオワ大学に集まってひと月のあいだ、創作活動・講演をしてもらう」でのエピソード。移動の車中、リトアニアから参加した若い詩人が「『ボンサイ』を知っていますか?」ときて、要領を得ないやり取りを英語で繰り返しているうちに、通路を挟んだ反対側に座っていたモンゴルの詩人が流暢なロシア語で話しかけ、ふたりは意気投合、みたいな感じになって「息を呑んだ」…「そうか、人はモンゴルに生まれて、モスクワに留学し、ロシア語を学んだりするのか」(p.10-1)。当時のモンゴルは旧ソ連圏だったし、この詩人の場合はほとんど奇跡的にモスクワへ留学してロシア語を叩きこまれたようですが、そんなにビックリ(?)するようなことなのかなあ、と。

 もっとも著者の主張には頷けるところもあるし、また疾風怒濤のごとくつぎつぎと雪崩れこんでくる「西洋語」で書かれたありとあらゆる文献を「日本語で読めるようにする」、つまり翻訳する必要に迫られた明治の先達がいかに身を削るような苦労をしてきたかというくだりはとてもおもしろい(とくに福沢諭吉翁の話とか)。「野球」、「文化」、「社会」、「哲学」、「自由」、「権利」などなど、じつに多彩な「翻訳日本語」はこのときの「西洋の衝撃」を受けて、「曲折した」日本語から生まれたものだし、やがて明治の先達の苦労は西洋思想と日本古来の伝統文学とが融合したような世界的に見てもきわめてユニークな「近代文学」の花を開花させた、というあたりもおっしゃるとおり、と思う。とくに西洋語からの翻訳という行為を通じて、へたすれば西欧列強の植民地になりさがったかもしれない運命からいかに日本語を救ったか、についても書いてあり、このへんもたいへん共感できるけれども、「現地語」というものは日本語にかぎらず、「共通語」という「上位語」との衝突――具体的には翻訳という営為をつうじて――書きことばとして、考えるよすがとしても通用する「国語」へと昇華するものだと思う(もっとも西洋語 → 日本語という作業はひじょうに困難)。

 …しかしながらインターネットという技術革新の波に乗って急速に「英語化」してゆく世の趨勢にたいしていかに日本語(と「日本近代文学」)を守ってゆくか、という点については全面的には首肯できない。そもそも現在の「世界語」としての英語と、かつてのラテン語やギリシャ語なんかを「普遍語」という一語でひっくるめて説明しているあたりもよくわからない。いまの英語って、一枚岩じゃないですよ。むしろ純粋なnative speakerのほうが少ないくらいだから(全世界の英語使用者のうち、約半数は非英語圏の非標準英語を使っている。* また米国では、ヒスパニックの多い地域では英語表記をやめて商売する人も出てきているくらい→NYT関連記事)。たとえば言語学では、このあまりにも急激に拡散していった英語はもはやEnglish languagesであって、かつてのラテン語が欧州各国のヴァーナキュラーにそれぞれ解体されていった歴史のように、いずれは「たがいに通じない」言語になってしまうのではないかと危惧する学者だっているくらいです。英語は一見すると、安泰な一枚岩のように見えるが、じつは日本語もふくめて数多くの言語と衝突し、融合するうちに亀裂が入り、別物へと「変質」しているのです。ようするに、「普遍語」である英語vs. 「一国語」である日本語という論法は単純すぎる。著者は、いまや「世界全域で通用することば」となった英語について、「思うに、英語という言葉は、ほかの言葉を<母語>とする人間にとって、決して学びやすい言葉ではない。もとはゲルマン系の言葉にフランス語がまざり、ごちゃごちゃしている上に、文法も単純ではないし、そもそも単語の数が実に多い。慣用句も多い。おまけにスペリングと発音との関係がしばしば不規則である(p.49)」と書いていますが、ほかの印欧語族にくらべて、たとえば「曲折語」のラテン語とその派生言語であるロマンス語系にくらべれば活用も少ないし、「名詞の性」に一致させる必要もない。単語数が多い点については、日本語だってすごい量ですよ。それこそ一生かかっても習得できないほどに(ちなみに『広辞苑 第六版』では収録語数は24万語)。発音のむつかしさについてはたしかにそのとおりだとは思うけれども、フランス語の「鼻母音」とかもむつかしいし、rの発音もむつかしいし、リエゾン・エリジオン・アンシェヌマンなんてのもあるし、スペリングからでは想像もつかない発音をするのはむしろフランス語のほうではないかと(おなじロマンス語でも伊・西・葡語の発音のほうがまだしも楽)。また「散文で書かれた」作品のほうが近代以前の西洋において韻文で書かれた「詩や劇」よりも質が優れているようなことも書いている(p.173)。ヨーロッパ語のさまざまな現地語で(散文)文学と呼べるようなものが書かれるようになったのは12世紀以降とし、「『カンタベリー物語』の一部をのぞけば、詩や劇であって散文ではない」とも書いているけれども、ものごとには例外もあって、アイスランドの国民文学『サガ(『エッダ』は韻文)』がある。文字として書かれたのは12世紀ごろからだけれども、アイルランドにおけるケルト伝承のように、口承文学として代々、伝えられてきたものだから歴史はそうとう古い(ちなみにアイスランド語はこのころからあまり変化していないから、『サガ』や『エッダ』は子どもでも読めるという)。世界中で使われるようになった英語は、言ってみれば音楽の「五線譜」のようなものかとも思う。尺八や三味線で使われる譜面は読めないが、五線譜として記譜してくれれば世界中のだれもが演奏できるようになる、みたいな(また、「二重言語状態」のアイルランドについて、「思うに、アイルランドの自国語保護政策は世界で一番贅沢なものである。宮殿に住んでいる人間が、庭の隅に茅葺きの苫屋を立て、そこで風流生活をして心の安らぎを見出すようなもの」[p.118]なんて書いている。ひどいなあ! 『アイルランドの文学精神』を読んだ人間としては、なんだかこの発言は無知からくる冒涜に近い気がする。アイルランドの人、とくにゲールタハトの人がこれ読んだら怒るんじゃないでしょうか)。

 学問研究の分野ではたしかに英語で書かなければだれも読んでくれなくなっているのかもしれない。でもパリの講演で会ったというイディッシュで書いているという女性作家は、「日本語やイディッシュのような言葉で書くのには、英語のような<普遍語>で書くのとは別のおもしろさがあるのを指摘しようとした(p.95)」。そうですよ、だから川端が英訳され、その英訳がすぐれていたからこそノーベル文学賞を受けたのではないですか。また著者は、「西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の真の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえないのである。わかるのは主にあらすじの妙であり、あらすじの妙は、文学を文学たらしめる要素の一つでしかない」と発言しているのはまだしも、「近代に入り、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性があった。日本語で読んでも西洋語の文学の善し悪しがある程度はわかるのはそのせいである(p.263)」なんて書かかれちゃこんどは挨拶に困る。「逆もまた真」ですよ。どんな言語間でも翻訳というのは原文を超えられるものではないし、原文の身代わりでさえなりえない。それでも翻訳を読むほうがはるかにわかりやすいから読まれるのだし、日本文学の英訳がすぐれていたからこそほかの国の人からも高い評価を受けるようになった、と考えるほうが自然だと思うが … 。

 著者はいまの日本にはじっさいのところ、「読まれるべき文学はない」とまで言い切っている。これは一種のレトリックで、くだらない「三文文学」が跋扈しているいまの日本のていたらくぶりを嘆き、古典である「日本近代文学」を引き合いに出して活を入れているのだとは思いますが、著者の言う「日本近代文学」至上主義には疑問を感じる。読者としては、だれでもいいからすぐれた作品を書けばすむことではないかという気がする。すぐれた文学作品というのは「読まれるべき言葉の連鎖」に入る言語、つまり英語で書く必要性はないでしょう。

 猫も杓子も英語の時代、韓国では国策として国民に英語を強いるような教育を行っているのは著者の指摘どおりで、いわゆる「バイリンガル教育」なるものにもまっこうから反対している点は共感できます。ただ、やっぱりそのあとの展開がよくわからなくて、その気になれば「お金もほとんどかからない(p.289)」のに、なぜ英語の読み書きは「一部の少数ができればいい」ということになってしまうのかがどうにもつながらない。国語教育の内容を見直して、もっと単元数を増やして…というのはわかる。でもそれだけでは対外的にはやっていけない、いまや英語習得も待ったなし。なので「学校教育で、英語を読む能力の最初のとっかかり(p.289, 下線強調は引用者。ここは理解できるけれども、和英ともに「文章を書く訓練」だって必要。読むだけではダメ)」をあたえる。あとは学びたい意思を持った者のみがほかの言語もふくめて選択できるようにすればいいと書いているから、そういう論法で「一部の少数のものができればいい」と書いているんでしょうけれども…やや飛躍があるように感じる(また著者はいまの日本人の英語の現状にたいして、「『英語公用語論』には反対するが、政府の無策をまえにして『英語公用語論』を唱えずにはいられなかった人たちの思いには、手を取り合って泣きたいほど共感する(p.271)」とも書いている)。

 しかしながらこの330ベージにもおよぶこの本の最大の問題は、著者自身の「内向きな」姿勢とこの世代特有の(?)「憂国」史観にあるように思う(また、ばっさり斬って捨てている故河合隼雄氏の言明と、書いた本人は「反骨」のレトリックとして使っていると思われる坂口安吾の捨て台詞とは比較できないようにも感じる。ついでに駐車場の乱立については、たとえば先日目に留まった在日仏人日本茶店主の書いた、「日本の地方をこの目で見て改めて感じたのは、日本人の自然や環境に対する関心の低さ」という一文と通底し、この「無関心さ」については理解できる。けれどもこの場で強調しておきたいのは、日本人以上に日本の心のわかる「ガイジン」は数こそ多くはないが、いるという事実)。

 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見出したりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。(p.59)

 …こういう典型的に「内向きな」書き方がよろしくない、と思う。「同じようにものを見て」という書き方は、たとえば「相手を打ち負かす」ディベートが盛んな米国育ちという自身の経歴も影響しているのかもしれない。それと著者は近代文学を読ませることについで、「文語体にも慣れ、伝統的かなづかいにも慣れるようにする(p.320)」なんてずいぶん高級なこと書いているけれども、そもそも「気のおけない友」や「憮然」とかが本来の意味ではもはや通じず、また「綺羅星のごとく」の「綺羅」がなにを指しているのかもわからず(「綺羅」は『平家物語』にも出てくる)、また「召し上がりください」といった誤用もまかり通っているいまの日本語の現状をなんとかするほうが先決だと思うが … NHKでさえ、若いアナウンサーの日本語はひどいもの(ついこのあいだも「黄金色の稲穂」を「おうごんいろ」と誤読したり … 。orz そうそう、かなり昔の話ですが、女子高生が寿司屋で「あたし『いなかずしー!』と声を上げて、それを聞いた人がいすから落ちそうになったとか[『いなりずし』のつもりだったらしい]」)。また「近代文学」以前に花開いた文学、『枕草子』や『徒然草』から『日本永代蔵』、『野ざらし紀行』とかも大切かと思いますね(と言っても書いている当人は読めませんが orz)。

 いずれにせよ、ベストセラーだからと言って皆が瞠目するような本とはかぎらない。いみじくも著者自身、『ハリー・ポッター』について書いているくだりのように(「あの本はいったい何だったんだ!」pp.237-8)。

*...トム・マッカーサー著、牧野武彦監訳『英語系諸言語』(三省堂刊)、p.116。

評価:るんるんるんるんexclamation&question

追記。本文とは関係ないですが、『週刊新潮』4月2日号に寄稿されたさる数学者先生の「上から目線(いや独断)」丸出しの記事。小学校英語必修化について激怒(?)しているのはまだしも、「教養のある人は英語が下手で、英語が上手い人は教養がない」とか、あげくの果てには「祖国日本の敵は国民」という結論にはなんとも…『日本語が亡びるとき』と、この記事。両者になんとなく「おなじやうな匂ひ」を感じ取ったのは、偶然かしら? 

posted by Curragh at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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