2010年02月13日

『翻訳とは何か―職業としての翻訳』

 『翻訳とは何か―職業としての翻訳』は、図書館の日本語関連本の書棚で、たまたま見かけた本。山岡先生の翻訳論かぁ、とあまり考えないで借りたのですが、中身はひじょうに深かったです。折しも Happy for no reason のヘンテコな邦訳を目の当たりにしたときだったし、あらためて「翻訳をするとはいったいどういうことなのか」という問題を考えさせてくれました。

 翻訳にかんする本 … はたぶんいまほど巷に溢れている時代もないんじゃないかと思う。でもたいていは「重箱の隅を突っつく」たぐいの誤訳指摘本だったり、「あなた翻訳家になれる!」みたいな安易な本だったりする( 上記タイトルの下線部、なんとも思わないようなら言語感覚が鈍い )。この本はそうではなくて、真剣に翻訳というものを志している人のために書かれた本格的な、いまどきめずらしくたいへん硬派な翻訳論です。

 そもそも翻訳とはなんぞや、からはじまって、玄奘三蔵や「英訳聖書の父」ウィリアム・ティンダル(ティンダルに先駆けてジョン・ウィクリフがいるけれども、この人は聖ヒエロニムスのラテン語訳版、いわゆるウルガタ訳からの「重訳」で、しかもいま読んでいる英訳聖書関連本によれば、現存する英訳版では本人は直接翻訳に携わっていないらしい。また初期英語時代にも部分的ながら聖書の文書を英訳しようとした人は何人かいて( 有名な尊者ベーダもそのひとり )、明治時代に兵法書の翻訳で活躍した村田蔵六( のちの大村益次郎 )の逸話から、ぐっと具体的に翻訳の技術について、翻訳の市場について、翻訳教育産業の批判と翻訳学習者にまつわる問題まで、「仕事としての翻訳はいかにあるべきか」までを論じた本。この手の本って、たぶんいままでありそうでなかったように思う。なので読んでいていちいち「そうだよなぁ」と頷かされることしきり。もっとも後半の「翻訳の市場」と「翻訳者への道」は、なんだか気の滅入る(?)暗い現実の話がたたみかけるように出てくるけれども( 著者自身、「翻訳市場の底辺の話をしていると気分が暗くなってくる」なんて書いているし ) … それでも著者ははっきりとこう言う。「翻訳は学び、伝える仕事だ」と。また、「翻訳とは、あらゆる独創性の基礎となり、それどころか、社会や文化や技術や経済など、人間のあらゆる活動の基礎になる学習と継承を担っているのである」とか、「とくにひとりの著者の原文をつぎつぎに翻訳していれば、原著者になりきって、原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える訳文が流れるように自然にでてくるようになることがある。翻訳者にとっては至福のときである。一度、この感覚を味わえば、翻訳の魅力に取りつかれる」なんてくだりもすばらしいし、感動的でさえある。もっともクギを刺すことも忘れてなくて、フリーの翻訳者、とくに出版翻訳者でじっさいに生活できている人はほんのひと握り、有給休暇もなければ辞書・事典、コピー機などの投資もすべて「持ち出し」、これら経費を差し引けばへたすると赤字、という現実も具体例を出して説明しています(フリーの人は「個人事業主」なんだからしかたないけれども)。こういう厳しい現実を知って、愕然とした方はたぶん翻訳には向かないと自分も思う。たしかに昔の日本みたいに、なかば国家事業として翻訳者の生活の保障された時代はよかったかもしれない。著者が書いているように、欧米ではアドヴァンスと言って「印税の一部前払い」という制度が確立していて、実売部数xアドヴァンスというふうにすれば翻訳者の生活もいくらかは改善されるとは思う。でも翻訳なんて ―― なんて、という言い方はまずいけれども ―― 苦労多くして益少ないの典型みたいな仕事、現実問題としてひじょうに悪い条件であくせく仕事している翻訳者がほとんどでは、けっきょく、もっとも大切なのは「情熱」、これに尽きる。この本はぜったい自分が訳すんだ、みたいな、そういう情熱がないととてもじゃないけどやっていけないと思います。そのためにはふだんから、不断の努力もつづけていないと … 演奏家が毎日、倦まず休まず練習しているのとおんなじで。そうしないと、いざ「そのとき」、チャンスがきても持てる力を十全に発揮できない。でももしそのときに力を発揮すれば、できあがった結果オーライの世界だから、つぎのチャンスが転がりこんでくるかもしれない。もっとも「持ちこみ企画」がボツになりつづけるかもしれないが( え? ワタシ? んーなんのことかなぁ ) … 。

 「翻訳の技術」ということでは、「並みの語学力では太刀打ちできない」とも。考えてみれば当たり前で、たとえば経済学の本にバッハのオルガン曲がいきなり出てこないともかぎらないし、ダリの「やわらかい時計」の話が出てこないともかぎらない(前に書いたことだが、あるミステリの邦訳でバッハの「ヨハネ受難曲」がなんと「ジョンの熱情(!)」と訳されていたという話もある)。自分が書き手なら、これから書くことは制御できる。でも翻訳者はすでに存在する「原文」を制御することはできっこない。ここに翻訳特有のむつかしさがあるとも言えるし、だからこそ challenging だとも言える。語学力ついでに言わせてもらえば、英国の児童もの、たとえば『くまのパディントン』シリーズも使われている英語がこちらの想像以上に高度だったりする(じっさいに読んでみてください)。そしてきょくたんな例では、'... Gate, Gate, Paragate !' なんて呪文みたいなものが出てきた「絵本」がその昔あったという。え、なんじゃこりゃって? 「むつかしいことでない( アイルランド人写字生のよく書いた注釈ふうに言えば )」、「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい」、『般若心経』だったというオチつき。

 また「翻訳者ならなんだって訳せて当たり前」みたいな発想をもつ発注者もよろしくない。これも前にも書いたことですが、日本語の文章を読む場合を冷静に考えてみてください。軽い文芸ものしか読んでない人が、特許関係の書類とか医学論文を「正しく」読解できるはずがない。冗談ではないですよ。でもこと翻訳となると、この常識がとたんに通用しなくなるらしい。

 「ゼロから創作するのとはちがって、翻訳はたやすい」という発想もまちがっている。著者も書いているとおり、「原文」というのは翻訳者側からではどうすることもできない。野球関連本だから野球の歴史とか野球に関係することだけ押さえておけばいい、なんてことはない。それとなく『聖書』の引用とかが出てくるかもしれない( 昔から英和翻訳者は『マザー・グース』と『聖書』とシェイクスピアくらいは読んでおけと言われている )。辞書も学生用なんかじゃ歯が立たない。ラテン語の辞書も必要になる。もっともいまではネット上のオンライン辞書のたぐいがひじょうに充実しているから、以前にくらべれば格段に調べ物は楽になったが … 。

 「職業としての翻訳」中の「世界語としての英語と母語としての日本語」のくだりは、ひょっとしたら以前読んだ『日本語が亡びるとき』とも通底しているのかもしれない。でも後者が主観的で情緒に走っているきらいがあるのにたいし、個人的にはこちらの書き方のほうがおおいに共感できる。「 … 日本語で海外の文化や技術を吸収でき、したがって、日本語で考え、日本語で議論し、日本語で表現できるのは、いまの日本人にとっては当たり前のことだ。当たり前だから、有り難みがわからない」。海外の知識を原語のままではなく母国語に翻訳してから理解し、またそのような教育も受けたから、ヨーロッパ以外の国では珍しく高等教育を受けた層とそれ以外の層で使うことばが異なる状況にはならず、欧米以外の国でいちはやく工業化を達成できたこともこれと無縁ではないだろう、と書いたうえで、昨今流行りの古くて新しい議論、英語公用語をとるか、それとも母国語としての日本語を大切にするかを論じています。著者に言わせれば、日本の将来を考えれば、英語公用語( 唯一の公用語という意味 )がひろく受け入れられるとは思えないとし、第二の方法、つまり日本語を大切にする道しか残されていないと言っています。かつてのように海外から入ってくる技術・文化・知識を豊かな日本語という母語を使って「学び、伝える」ことが必要だと。翻訳論ながら、この本はすぐれた日本語論としても読める、ある意味貴重な一冊かもしれない。またいまひとつもてはやされる傾向の強い「独創性」についても批判しているくだりもおおいに共感する。100%の独創なんてありえない。「歴史上に残る発見や発明をみていくと、ほぼおなじ時期に、それぞれ独自に、おなじことを考えた人が他にもいたケースがきわめて多い」。「自然選択説」だってそうだし( ダーウィンとウォレス )、「写真術」の発明だってそう( ダゲールとニエプス )。翻訳は、じつはこのような「学びと継承」の土台をなすきわめて重要な、一生をかけるべき仕事なのだ。著者のもっとも言いたいことはまさしくこの一点。おおげさな言い方をすれば、翻訳なくして現代日本の発展もなし、ということです。ことほどさように( なんか英文和訳調だけど )翻訳は社会のありとあらゆる分野において浸透しているということです。

 英訳聖書の例を出すまでもなく、どこの国でも文化的発展著しい時期というのはかならず「大翻訳時代」でもありました。「外国から学ぶ意欲を失った国や民族の先行きは暗い」。

 最後にこちらの引用も引いておくことにします。「 … ある翻訳書が百万部売れたからといって、翻訳の質が高いとは限らない。ベストセラーになったのだから、その翻訳書が読者の支持を集めたとはいえるが、翻訳が読者の支持を集めたかどうかはわからない」。「 … しっかりした翻訳批評があれば、翻訳の質が高い本が売れて、翻訳の質が低い本は売れなくなるようになるかもしれない。翻訳書の売れ行きと翻訳の質はほとんど無関係だといえるような現状は健全だとはいえない。これでは悪訳が良訳を駆逐することになりかねない。翻訳の質を社会全体が認めるようになることが大切である」。どっかの脳科学者先生に聞かせてやりたいことばですな。あんな代物を翻訳と呼べるんなら、翻訳なんて必要ない。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

追記:終章で、いわゆる「翻訳不可能論」について触れ、また翻訳にはなんらかの「欠陥」があったりする場合もあるが、「翻訳は不可能ではないし、欠陥だらけでもない」と書いている。ただし、どうしても翻訳できない場合というのはあります。たとえば「『松江』という字はどう書くの?」、「松の木の松に、さんずいにアイウエオのエと書きます」なんてのはぜったいにむり。どうしても必要でない場合はこういう原文は省略するほかない。そういえば川端文学の名英訳者、故サイデンステッカー氏みずから、「川端は翻訳不可能」だと言っていた。また、こちらのページに、本書未収録の「後書きに代えて」が掲載されてます。

posted by Curragh at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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