まずは有名な『ウルガタ版聖書』を編纂した聖ヒエロニムスの話からはじまっています。なんでも当時、流通していた聖書の各文書というのはひどい「悪訳」しかなかったらしい。そんなとき、教皇ダマススに白羽の矢を立てられたのが、各国語に通暁していたヒエロニムス。ヒエロニムスはさっそく改訳に取りかかると、「賞賛すべき迅速さで」聖書全文書をはじめて俗ラテン語に完訳した(405年ごろ)。訳し終えたはいいが、かんじんのヒエロニムス版聖書は当初、まるで不評だったというからちょっとびっくり。いつの時代も、人口にひろく膾炙した著作ないし「古典」の翻訳なんてそんなもんかなぁ、と思ったりもしたけれど…(『旧約』に収録されている全39文書は古ヘブライ語・アラム語で、『新約』全27文書はギリシャ語で書かれています。また『七十人訳聖書('Septuaginta')』というのは『新約』正典成立以前にギリシャ語訳された『旧約』のこと。『新約』全27正典が成立するのは4世紀になってからです、念のため)。
597年に聖アウグスティヌスがブリテン島に上陸したとき、すでにキリスト教を信仰するケルト系住民がアイルランドおよびウェールズに存在していたこともきちんと言及している点(pp.13-4)も個人的には好印象ですが、それはさておき、『ウルガタ版』に匹敵するほどの影響をおよぼした英訳聖書の元祖として、1328年ごろヨークシャー北部の地主の子として生まれたジョン・ウィクリフからはじめています。ウィクリフの生きた時代は、その後全ヨーロッパを巻きこむことになる「宗教改革」の芽生えが出はじめたころで、たとえば「西方教会大分裂」とか、「アナーニの屈辱」とか、世界史でおなじみの事件が立てつづけに起こります。また教皇以下、ヒエラルキーの最下層の聖職者、ひいては清貧を旨としているはずの托鉢修道士までもが霊的に堕落していった時代でもありました。有名な「贖宥状」というのもすでに大量に出回ったりしている。中世盛期のローマ教皇というのはいわばキングメーカーで、各国の王侯貴族の「さらに上に」自分が神の代理人として君臨していた。これが十字軍遠征の失敗、飢饉やペストの流行などが重なって、教皇の神通力も効かなくなってくる。それを象徴するのがときの教皇を文字どおり半殺しにしたアナーニ事件(1303年)で、このときを境に王と教皇の立場が逆転する。こういうローマ教会の堕落ぶり、ていたらくぶりにいたく憤慨していたひとりが、自身聖職者でもあったウィクリフ。オックスフォードの秀才で、神学博士号も受けていたウィクリフはなによりも学究肌の人だったようで、当然の成り行きとして、教会制度じたいを疑いはじめるようなる。聖書英訳は、ウィクリフ自身のひとつの回答でもあった――教会制度も「使徒継承」を主張する教皇も、根本である聖書にはそんなことなにも書かれてはいないではないか。こうして「聖書の権威」を声高に主張し、既存教会を激しく非難しはじめた(この時代は聖職者でさえも聖書をまともに読んだ者はおどろくほど少なかった、ということも言及している)。そして考えた。もし「畑で鋤を曳かせている少年」にも聖書が読めたら、どんなにかすばらしいだろうか、と。教会財政逼迫のツケを各国政府に要求する教皇の態度はまさに内政干渉以外の何者でもなかった。そのころ台頭しはじめていた毛織物職人とか、中産階級市民のあいだからも「ラテン語のわからない自分たちも聖書が読みたい」という要求が高まっていた。こうした背景から、ウィクリフ版英訳聖書が生まれたといいます(ただし著者によれば、ウィクリフ自身は現存する英訳版には直接関与していないらしい。もっともウィクリフが英語で書いた説教や書簡には随所にみずから英訳した聖書の文言が散りばめられているけれども)。
でもまだウィクリフのころは時代の雰囲気も余裕があったかもしれない。『欽定訳』成立にも多大の影響をおよぼしたとされるウィリアム・ティンダルの場合は、もっと苛烈な人生を送る運命になってしまったから。のちの人が言うところの「ピューリタン」的発想をもつ人々が公然と活動し、それらを取り締まる異端審問もいよいよ激しくなってきたからです。ヨーロッパ共通語は依然としてラテン語だったけれども、たとえばチョーサーやガウアーなどが出てきて、英語はすでに「ものを考えたり綴ったりできる」ほど成熟していた。教会腐敗がひどくなるにつれ、「いちばんの拠り所は聖書であり、皆が自由に読めるようにすべきだ」とする活動がますます活発になる。ちょうどそんなとき、グーテンベルクが葡萄の圧搾機にヒントを得て製作した活版印刷機が登場した。絶好のチャンス到来、というわけです(チェコの宗教改革者ヤン・フスも、じつはウィクリフ思想の影響を大きく受けていた。これがのちにルターの運動へとつながる)。
当然のごとくティンダルはお尋ね者になる。大陸に逃れ、飢えや寒さに耐えながらこつこつと聖書を英訳していったけれども、とうとう姑息な裏切り者の密告により捕まってしまい、火焙りにされる(1536年)。文字どおり聖書英訳に一生を捧げた人だったわけです。こうして生み出された英訳聖書起源のフレーズはそれまでの英語を豊かにし、またいまだ現役でもある。たとえば'King of Kings'、'a man of strength'のような「名詞 - of - 名詞」のかたちとか。そしてティンダルの英訳聖書は、何度も焚書処分にされたにもかかわらず、大量のティンダル版英語聖書が密輸されてイングランド中に流通したという(英国での印刷術の祖カクストンについても触れていますが、「卵」を意味する方言のうち、ケント方言のeyrenではなくノーサンバーランド方言のeggysを使ったとかいう話はおもしろかった。大陸で流布していた『黄金伝説』中の「聖ブランドン伝(The lyfe of Saynt Brandon)」を英訳して出版したのもこの人で、カクストン自身も翻訳家だった)。
周知のとおり英国の場合、宗教改革は下からではなく、ときの国王の離婚問題が発端となってはじまった、きわめて政治的なものでした。当時のイングランドではすでにティンダル版聖書が公然と出回っていたし、教皇から破門されたことに乗じて英国王みずから教会の長であると宣言したことで、ようやく「公認の」英訳聖書が晴れて登場する準備がととのいます(ティンダルにとっては皮肉なことに)。でも著者の言っているとおり、はじめはローマ教皇の既存権力に反旗を翻すための道具として利用された英訳事業も、ルター以後、大陸が戦乱時代に突入すると、こんどは台頭してきたピューリタニズム思想に染まった市民と議会勢力によって国王弾劾の根拠として利用される。こういう過程も細かく書かれていて、いろいろと考えさせられる。きょくたんな原理主義はけっきょく、たんなる破壊と虚無と、無政府状態を作り出すことしかしなかったんだ、と。何度も書いてきたことながら、「清教徒革命」とそれにつづく混乱の時代に、大聖堂のイエス像や聖母像、聖遺物にオルガンに聖歌隊席まで徹底的に破壊された(p. 121の「むき出しになって荒廃した聖歌隊席」というのはたぶんシェイクスピアの引用)。
エリザベス女王時代に、イングランド国教会はようやく地歩を確保したけれども、この時代の特徴としてたとえピューリタニズムに走る「国教会の聖職者」でも断罪しなかった。こういういい意味での「中庸の精神」はいつの時代にも通じるものがあると思う。そしてこの、ある意味つかのまの平安な時代に、ティンダル以後つぎつぎと刊行された『マシュー版聖書』、『ジュネーヴ聖書』、『ドゥエー聖書』、『大聖書』、『主教聖書』に代わる、より完璧な英訳聖書を国家事業として刊行することが可能になった(発案者はオックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジ学寮長だったジョン・レイノルズだが、まったくおんなじことをスコットランドにいたときにジェイムズ一世自身も考えていたという)。ここからがまさにこの本の白眉で、『欽定訳』に従事した聖職者・言語学者の錚々たる面々がつぎつぎと紹介されています。この章だけでもひじょうにおもしろく、興味をそそられます。彼らはゼロから改訳作業にかかったのではなくて、それまで出回っていた、ルター版『独訳聖書』や各国語版聖書、『ウルガタ』から初期教会の教父著作にいたるまで、多言語にわたる資料をかき集めて徹底的に校合して英訳を進めたといいます。彼らの具体的な翻訳方針は巻末付録のとおりなのですが、かんたんに言えば「よい部分はそのまま生かし、改めるべき箇所のみ訂正する」というもの。翻訳班は6つに分かれ、それぞれが「旧約外典」や「使徒言行録」などを担当、各班が担当箇所を訳了するとこんどはほかの班に回覧され、すべての班がすべての翻訳原稿に目を通し、検討しあったという(これだけでもけっこうたいへん…異なる解釈も可能な箇所とかは欄外に注訳もつけた)。その後ようやく全体が脱稿すると、こんどは選ばれた翻訳委員からなる「全体委員会」によって校閲されたと言います。
こうして翻訳作業がはじまってから7年後、1611年にようやく国王から「教会に常備することを」承認されたうえで『欽定訳聖書』が出版されることになります(全文はこちら)。で、せっかくの苦労の産物なのに、かつてのヒエロニムスのときと同様、急進的なピューリタンから酷評されたりした。でもやがて世間の賞賛を得、その後1885年に「改訂版」が出るまで、英語圏での『欽定訳』の地位は不動のものとなります。
個人的におもしろいな、と思った箇所をすこし。『欽定訳』が出る前の「国教会聖堂に常備が許可された」英訳聖書は『大聖書』と呼ばれる大判本でした。で、ちょうどそのころ、ひとりのオックスフォードの学生が個人で『マシュー版』と呼ばれる英訳聖書を「改訳」したというものを上梓していますが、あいにくこっちはあんまり人気がなかったらしい。このリチャード・タヴァナーという人、聖歌隊員でもあって、あるとき禁書を隠し持っていたかどで投獄された。でも「美声」の持ち主だったらしく、「あのように素晴らしい声が地下牢のじめじめした空気によって損なわれるのはしのびない」として釈放されたんだとか。ここでも「芸は身を助く」ですな。
またオックスフォード大学の翻訳班のひとり、マイルズ・スミスによる「翻訳者から読者へ」という序文も感動的で、教えられるところが多い気がする。
「翻訳とは、次のようなことだ。光を入れるために窓を開くこと。その実を食べることができるよう、貝の殻を壊すこと。最も神聖なる場所を覗き込むことができるよう、幕を脇へどけること。水を手に入れることができるよう、井戸の蓋を動かすこと(pp.206-7)」
聖書はいまでこそあまり読まれない本の代表みたいな印象ですが、当時はほんとうに子どもから年寄りまで、みんな貪るように愛読していた、ということはまちがいないらしい。のちに処刑されるチャールズ一世とカンタベリー大主教ウィリアム・ロードは、だれもがなんの制限もなく聖書を読めるようになったがために、さかんに不満を口にするようになったと思いこんでいた。英訳聖書が一般市民の「啓蒙」に一役買っていたのは疑いないと思う。でも最後の章で著者がこう書いているのも、もっともなことだと強く感じる。
「…『中世の教会の代りに』聖書を用い、誤りのない制度の代りに誤りのないテクストを取り入れ、伝統の代りに印刷された聖書を使用した。『ピューリタンの聖像破壊主義者自身が、狂信的聖書崇拝者になってしまった』。そして自分たちは『自己解釈した』聖書テクストに署名したと思ったのだ。しかし、聖書は教義ではなく、物語であった。掟や非難を含んでいた箇所もあったが、すべての人にとって多様な捉え方ができた。人は聖書テクストのどの部分にも支持を見出せる。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』でアントニオが述べたように、『悪魔』が望むなら『その目的のためには聖書を引き合いに出す』こともできるほどである(pp.239-40、下線強調は引用者)」。
なんでもそうですが、極端に走るとほんロクなことがない――とくに政治に宗教がからむと。関係ないけれども、となりのアイルランドも英国植民地にされてしまったゆえに、ときの宗主国政体によって翻弄され、そのために流されなくてもいい血が流されるといった悲劇が前世紀になるまで繰り返されてきた。またこの本は議会制民主主義の長い歴史をもつ英国での激動の時代を描いているので、読んでいるうちに、「本物の」議会制民主主義がいまだ根づいていないこの国のことを考えたりしてしまった。
ちなみに『欽定訳』はぜんぶで8千語の語彙からなり、過去の英訳聖書から引き継ぎ、結果的に英語を豊かにした表現にはつぎのようなものがあるという。'flowing with milk and honey', 'the salt of the earth', 'the spirit is willing but the flesh is weak'(「心は燃えても、肉体は弱い[新共同訳による]」、ティンダル版から)、'tender mercies', 'loving-kindness', 'a perfect Babel', 'the eleventh hour', 'to cast pearls before swine'(「豚に真珠を投げるなかれ」、カヴァーデイル版から)、'vanity of vanities', 'except a man be born again'(「ジュネーヴ版」から)、'the voice of one crying in the wilderness', 'well-stricken in age', 'three score and ten'(寿命70年、『主教聖書』から)
最後に翻訳について。二名の翻訳者に監修者、というトロイカ体制で邦訳を進めたようで、原本で384ページもある労作がこうして日本語で読めることは深く感謝しなくてはいけない、とは思う(原本のページ数は英国Amazonのデータによる)。思うけれども、たとえばおんなじ人の名前がコロコロ変わったり(ボワ? ボイズ??)、伸びたり縮んだり(ランスロット? ランスロート??)、あるいは「ウェストミンスター第一班」とすべきところが「オックスフォード第一班」になっていたり(p.184)…こういう不統一ないし誤りを訂正するのが監修者の仕事。なので「監修者あとがき」に、「翻訳原稿全体を原著に照らし、監修作業を行った」とあるのは、いささか眉唾だと思わざるをえない。ちらほら目につく誤植の方は、校正者の責任なのかもしれませんけれども。
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