2010年04月04日

ジャスコニウス(Navigatio, chap.10 ff.)

 今日は2010年の復活祭(くどいけれども復活祭は移動祝祭日。中世のクリュニー系修道会とかでは受難週間のあいだ控えられていた「アレルヤ唱」がいっせいに歌われたりした)。ということで、ひさしぶりに原点回帰してみようかと思いました(笑)。

 ラテン語版『航海』の10章以降、たびたび登場する「大魚ジャスコニウス」はこの航海譚全体の構成にとって、きわめて重要な舞台装置でもあります。古アイルランドゲール語のiasc(=fish)からの造語だと言われていますが、以前ここでも紹介したこちらの木版画とかでは「うろこ」の生えた大魚、ということになっている。ブレンダン一行は「洗足木曜日」に「羊の島」に上陸し、そこに住む――というか、彼らの到着を待っていた――「給仕」役の若い人(たぶん同郷人で島の隠修士)から歓待を受け、聖土曜日、ふたたび船出してとなりの「石だらけで草も生えていない島」に向かう。修道院長だけ残して修道士らは上陸し、復活祭の朝が開けるまで、徹夜の祈りをささげる。夜が明けて、歌ミサをあげながら修道士たちが塩漬けにするための生肉と、「羊の島」から持ってきた魚を運び出した。火を起こし、鍋をかけた。薪をさらにくべ、鍋がぐつぐつ煮え立ったそのせつな、いきなり足許の「島」がぐらりぐらりと「波打ち」はじめた。たちまちパニックに陥った修道士たちはカラフにひとり残っている修道院長に助けを求めながらあわてふためき逃げもどった。「島」は、修道士たちが起こした火と鍋を乗せたまま、海原の彼方へと去っていった。「わが子よ、恐れるでない。われわれがいたのは島ではなく、魚だ。あの魚こそ海洋に泳ぐすべての生き物の王者で、尾と頭を合わせようといつも試みているが、胴の長さゆえにそれができずにいる。名前は、ジャスコニウスという」。

 『航海』全編をとおしてこの挿話はたいへんおもしろく、また聖ブレンダンを象徴する場面として、この「大魚ジャスコニウスと聖ブレンダン」という組み合わせの木版画や絵が多く残されてもいるし、またブレンダンのアトリビュート(聖人を表象する事物)としてもこの「大魚(クジラ)」が採用されていたりもする。「うろこ」は生えているけれど、描写からしてもやはり「クジラ」以外には考えにくいから、ほぼジャスコニウス=クジラと見做していいように思います。

 また研究者のなかには、『航海』と『聖ブレンダン伝』双方に共通して登場し、またその後スピンオフとでも言うべき『聖マロ伝(マロはブレンダンの弟子のひとりで、のちの「サンマロ」の名前の由来となったブルターニュの聖人)』にも登場するこの「ジャスコニウス」の挿話を、「もっとも古くから流布している聖ブレンダンにまつわる伝説」の生き残りではないか、と考える人もいる(オルランディやマクマフーナなど)。ちなみにこの「クジラに乗った聖ブレンダン」という伝承は11世紀にはいろいろな記録に現れていて、たとえば1090年ごろに書かれた『聖ダヴィド伝』にも、バレというアイルランド人修道院長がウェールズからの帰路、大海原のただなかで聖ブレンダンに会った話を伝えている。それによると聖ブレンダンが海の怪物の背の上にいておどろくべき暮らしをしていたといい、そのブレンダンがこれからウェールズの聖ダヴィドに会いに行く、と言ったとか。

 ひるがえって『航海』に出てくるジャスコニウスの話は、『ブレンダン伝』とは細部が食いちがっています(『ブレンダン伝』と『航海』の相関関係についてはこちらの拙稿参照)。『航海』では「羊の島」にいた給仕の予言したごとく、聖土曜日の夕方から復活祭の「正午(六時課のお勤めにあたる)」にかけて「大魚(もしくはクジラ)」の上にいたことになっています。『ブレンダン伝』のほうは、聖土曜日の夜から復活祭明けの月曜日の朝まで、まるまる二日二晩、滞在したと書いています。『聖マロ伝』もこの点については『航海』ではなく、『ブレンダン伝』を下敷きにしたと思われ、聖マロ一行もほぼおなじ時間をこの「大魚」の上で過ごしています。また『航海』においては、「なんでそのまま『羊の島』にとどまって復活祭をお祝いしないのか?」という疑問も湧いてきます(わざわざジャスコニウスに上陸しに行く)。

 この件も仔細に検討すると、どうも「いまは失われたがかつて存在していた聖ブレンダン伝説の原型」みたいなものがあったのではないか、と推定する研究者がすくなからずいます。彼らによれば、その流れを汲んでいるのが『ブレンダン伝』や『マロ伝』で、『航海』の作者はこの「クジラの背に乗った聖ブレンダン伝説」をうまく取り入れたのではないか、という(マクマフーナ)。

 『ブレンダン伝』に登場する「大魚」は5年(『リズモアの書』所収のゲール語写本では7年)の航海のあいだ、復活祭の時期になるとかならずブレンダンの舟の至近に出現して、その場所(というか海域)はばらばら。たいする『航海』のほうは、かならず「羊の島」と「鳥の楽園島」の中間水域にとどまり、まるでブレンダン一行の舟を待ち受けているかのようです。どちらの設定が、語りとしておもしろく、また効果的なのか。そう考えるとどうも『航海』の作者がすでに流布していた「クジラに乗った聖ブレンダンの伝説」を自身の舞台装置の一部として取り入れたのではないか。たしかにそう考えたほうが自然ではあります(ストライボシュ)。もっともほんとのところは『航海』の作者さんをつかまえて訊くしかないでしょうけれども。

 また直前の「羊の島」では聖ブレンダン一行が自分たちの食べる分と、それとはべつに「穢れのない子羊」を一頭つかまえて「主の復活」を祝って捧げる、という場面が出てきます(chs.9, 15)。ここがどうもよくわからない。文脈からすると、「主の受難と復活を記念するための」なんらかの供犠(過ぎ越しの祭のような)をおこなったものと思われますが、ブレンダンが生きていた時代のアイルランド教会でこの手の「供犠」がおこなわれていたのかどうか、については資料がなくて、いまだにわからずにいる。もっとも17章の「三組の聖歌隊の島」でも同様に「穢れのない子羊を捧げ」とあり、じっさいに行われた儀式を描写したというよりむしろ本来の意味での「ミサ聖祭(とくに「聖体拝領」)」を読者に想起させようというひろい意味でのメタファーとしてこう書いたのかもしれない(本家サイトにも書いたことだがいまや英訳版の定番であるオメイラ教授訳本では、なぜか'pisces'がfleshと訳されている)。

 また、15章でブレンダン一行がふたたび大魚ジャスコニウスに一年ぶりに上陸したとき、一行は「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」を歌いながら下船した、とあります。現在の西方教会で、この旧約外典の当該箇所の朗読なり読誦なりが聖土曜日に行われるのかどうか、については寡聞にして知りませんが、すくなくとも正教会では聖土曜日に歌われるようです(ローマカトリックでは主日[日曜日]に歌われるらしい)。ひょっとしたら東方教会色が濃いといわれている中世アイルランド教会の性格が、こういうところにひょこっと顔を出しているのかもしれない(なお「アザルヤの祈りと〜」は英国聖公会系やルター派でも「賛美せよ(Benedicite)」というカンティクルとして歌われたりする)。

 また『航海』では究極的な出典としてPhysiologusがあり、リヴァイアサンとしてのジャスコニウスは、ヨナを呑みこんだ「大魚」とおんなじだと言える。つまり「イエスの黄泉下り」を先取りしている(とキリスト教学者は解釈している)ヨナの物語のように、『航海』においてもジャスコニウスが象徴しているものは「黄泉下り」と「復活による救済」、ということになる。なのでどうしても教会暦における「主の復活」と関連づけなくてはいけない。現存する『航海』写本の原作者は、そう考えてわざわざ大魚ジャスコニウスを重要な舞台装置として固定し、かつリヴァイアサン的性格も取り去って、「聖ブレンダン一行の助け(27章ではジャスコニウスみずからブレンダン一行と舟を乗っけて「鳥の楽園島」へと向かう)」となる役回りに仕立てあげたのではないか、と思う(ジャスコニウスが「輪っか」になろうと四苦八苦していた、というのはたとえば21章に出てくる、正体不明の海の怪物の大群もおんなじように輪っかになって「透き通った海」の海底にたたずんでいた、という個所の変奏でもある→関連拙記事)。

 …そういえば今日は「花祭り」でもありましたね…(これは当方の早トチリで、潅仏会は8日でした。まことに汗顔の至り)。

この記事へのコメント
なんだか夢のあるお話ですね〜!
久しぶりにご本家のお話を拝読!

こうしてつっこんで、でも楽しくお調べになれるのって、すごいことだし、羨ましいです!
Posted by ken at 2010年04月04日 23:46
Kenさん
過大なるおことば、恐縮です。m(_ _)m

ちょっと急いで書き上げてしまったので、拙速というか、誤解をあたえかねない個所がいくつかありましたので、いま訂正追記をしているところです…(汗)。もしお時間がおありなら、いま一度、拙記事のお目通しをおねがいします…。
Posted by Curragh at 2010年04月05日 00:03
とりあえず2007年記事まで遡って再拝読させて頂きました。
(^^;

楽しい!

折しも、ひょっこりひょうたん島の井上ひさし氏の逝去の報に接しながら拝読しましたので・・・妙にダブってしまいましたが・・・

聖土曜日の習慣については、ちょっと調べただけではやっぱり分かりませんでした。とうぜんたくさんお調べになってお見つけになられていないのですから、私のようににわか探ししても分かるわけがないですね。反省。
Posted by ken at 2010年04月11日 10:26
Kenさん

過去記事にまでお目通しいただき、恐縮です。m(_ _)m

↑、「過分なる」と書くべきところ、うっかりしておりました。m(_ _)m

井上氏の訃報にはおどろきました。折しも「ラジオ深夜便」では立松和平氏の出演分の再放送を聞いたばかりだったもので…「心に残る一冊」という話でした。ときとして一冊の書物がその人の人生を決定づけるようなことがあります…自分の場合はなんだろなーなどと考えたり…キャンベルの本もマッキベンの本もいいし、『山月記』なんかも好きでしたね。『星の王子さま』かな、『クリスマス・キャロル』かな…いや英語の初学者だったときにNHKラジオ第二の講座を通して原語で読み通した、『チップス先生さようなら』かな…でもよかれ悪しかれ(?)自分にとってのライフワークになった、『聖ブレンダンの航海』になるかもしれませんね(いま、中野振一郎さんの「ゴルトベルク」を聴いてます)! 
Posted by Curragh at 2010年04月11日 23:48
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/36869409
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック