2010年05月16日

遅れてきた三人(Navigatio Chs.7,17,24)

 ラテン語版『航海』には、「遅れてやってきた三人(または「三人の余所者」)」というモチーフが出てきます。

 このモチーフの最古の例というのが、690-700年ごろにアイオナ修道院長アダムナン Adomnán によって書かれたとされる『聖コルンバ伝』中の、修道士コルマックの話らしい(コルマックの挿話については、以前ここでも「カツオノエボシ」との関連で書いたことがありましたっけ)。「絶海の砂漠」を求めたコルマックの航海はむなしくも三回とも失敗に終わり、それにもめげずにふたたび航海に乗り出そうとするコルマックにたいし、聖コルンバは「修道院長の許可を得ていない者」とともに船出しては目的はかなえられないと警告しています。これに呼応するかのように、『メルドゥーンの航海』でも同様に「望ましくない者」が「禁忌(geis)を破って」メルドゥーンの舟に乗船したために嵐に遭遇、父親の仇の住む「殺人者の島」を通り越してしまいます(→拙記事)。同様なエピソードは『聖ブレンダン伝』にも登場し、またアイルランドゲール語で書かれた『コラの息子たちの航海』や、『ブランの航海』にも出てきます(ただし、いずれも数が途中で変わったり不完全な記述のまま終わったりしている)。そして「望ましからざる者」の数が「ふたり」もしくは「三人」に増えています。

 そこで問題になるのは、「この中でどれがどれを下敷きにしているのか」なんですが、この件もまたいまだに意見の一致を見ていません。もっとも個人的には「航海に連れて行ってはならない者」という発想が、究極的にはどこから来たのかについてもよくわからないのであるが…。

 『メルドゥーンの航海』の場合、メルドゥーンから航海について意見を求められたドルイドが、メルドゥーンにたいして舟はこう造れとか、乗船者の数は17人だとかいろいろ「お告げ」をします。時化で目的地を通過してしまったとき、メルドゥーンは遅れてやってきた三人の乳兄弟をしかります。「こうなったのは、きみたちのせいだ!」。ようするに、ドルイドが課した「禁忌」を守れなかったゆえの結果、ということ。この「三人の余所者」挿話のうち、「乗りこんだ人数」と「航海から生きて帰れなかった者」の数の一致という点において、また「破ってはならない掟」という点においても、いちばん整合性がとれているのはこの『メルドゥーンの航海』であり、ストライボシュや故ヴァルター・ハウフなどの研究者は、この挿話にかぎれば、『航海』も『コラの息子たちの航海』も下敷きにしているのは『メルドゥーン』ではないか、と推測しています。

 この「三人の余所者」ですが、『聖ブレンダン伝』では「船大工、鍛冶屋、道化師」であり、『航海』では「遅れてやってきた三人の修道士」です。前者では、二度目の航海に出発してまもなく、まず最初に道化師が化け物のような大ネズミの大群に食われてしまいます。島をあとにすると、こんどは鍛冶屋が病死。「船大工」は? 最後までどっかに消えたままです。『コラの息子たちの…』では『ブレンダン伝』と『メルドゥーン』双方から借用したと思われるような「折衷型」で、やはり「船大工」と「道化師」、「若い従僕」が出てきますが、従僕のほうは航海をともにまっとうして、ブリテン島に渡ってそこで亡くなっているので、「望ましからざる余所者」として数に入れてよいものか、疑問です。

 『航海』では「だれもいない館」の島で「馬勒を盗もうとした修道士」が死に、つづいて「三組の聖歌隊の島」でひとりを残し、そして「炎の山」の島、つまり地獄の口がぱっくり開いている島で残る最後のひとりが悪魔に連れ去られてしまう、という筋立てになっています。『メルドゥーン』と大きく異なる点は、「禁忌」という点がぼやけていること、数の整合性がかならずしも取れていないということです。「三人の修道士」はだれかから航海の足かせになるとか言われているわけでもなく、また航海の妨げとなるような役回りでもないからです。ブレンダン修道院長は、「この兄弟は正しい行いをしたので、神はそれにふさわしい場所を用意されている。ただしおまえたちにはむごい仕打ちが待っているだろう」と予告します。でも最初に命を落とす修道士は、地獄に落ちたわけではなく、修道士に「馬勒(ネックレスという説もあり)」を盗ませた張本人、つまり7年のあいだその修道士を住処としていた「真っ黒の少年」が修道士の胸元から飛び出し、修道士の魂はブレンダン院長のとりなしのもと、「光り輝く天使たちに受け取られた」とあります――どう転んでもこれは「むごい仕打ち」とは言えません。わからないのは聖ブレンダンの科白の、'Iste frater bonum opus operatus est...Vobis autem preparabit teterrimum iudicium(セルマー校訂版)'の下線部。「おまえたち」というのが、そのじつたったひとりしか指していないのかもしれない。『ブレンダン伝』にしても航海から生きて帰れない人数はふたりなのか、三人なのか判然としないところからして、『航海』も、ことによったら『メルドゥーン』も、「三人の余所者」の原形はじつは「ふたりの余所者」だった可能性がある(ストライボシュ)。つまり『航海』の原型となった物語でも、ひょっとしたら「ふたりの余所者」というかたちだったのかもしれません。

 前に書いた「三組の聖歌隊の島」は『メルドゥーン』に出てくる「笑いの島(ch.31)」のキリスト教的アレンジともとれるし、修道士はその島から生きて故国へもどることはなかったという点も似ているといえば似ている。また「だれもいない館の島」は、そのまま「監視猫の島(ch.11)」の話とも重なり合う。アイルランド神話によく見られるような「禁忌」という意味合いはだいぶ薄れてはいるものの、アイルランドゲール語で書かれた『航海譚 immrama』やラテン語で書かれた『航海』に、「三人の余所者」というかたちで不完全ながらも残った、ということだけは言えるかもしれない。

 …今年の「聖ブレンダンの祝日」は折よく日曜日でしたね。Beannachtaí na Féile Brénainn! このあとは「音楽の捧げもの」でも聴こうかな…。

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