いま、「今日は一日クラシック三昧/フランスのハーモニー編」を聴いています。というか、「映画音楽三昧(DJのひとりが「入水自殺」を「にゅうすい」と読んでましたが、「じゅすい」のほうがふつうでは?? …)」、「合唱コンクール三昧」からずっとかけっぱなし…とくに後者では、あの暁星小学校聖歌隊の歌う「ほほう!」が印象的。団員すべてが少年の声、というのはあきらかにちがいがわかる(そうでない場合ももちろんあるけど)。けさの「バロックの森」、D.マンロウ指揮ロンドン古楽コンソートの録音からいくつか流してました。
そしていま、巨匠ミシェル・コルボ指揮、フォーレの「レクイエム」を聴きながら書いています…こちらは「1893年版」と言われる版を使ったもので、管弦楽は小編成のみ。よく演奏されるのは1901年出版のフルオーケストラ版なので、こちらのほうが作曲者の意図に近いとされています。管弦楽が小編成ゆえ、コーラスの美しさが強調されていて、自分もこちらのほうが好きです('Pie Jesu' とかはやっぱりボーイソプラノで聴いてみたかったが)。
1). 銀座・松屋ではさきごろ「再発見」された、『星の王子さま』の原画をふくむ展覧会をやっているみたいで…この前、『受胎告知』を拝みに行ったついでに銀座に立ち寄ったときにはまだ開催されてなくて、けっきょく見に行けずじまい。各地を巡回するようですが、あいにく静岡には来ないようです。orz
2). 最近、ちょっとひっかかったこと二題。まず『受胎告知』を見に行った日の夜。NHK総合では懐かしきカーペンターズの番組をやってました。カレンさんの歌声はひさしぶりに聴くなぁ〜と思いつつ、ライヴの貴重な映像なども楽しむことができて個人的には大満足。そのとき目にとまったのが名曲Yesterday Once More を歌っている場面。ぼんやり字幕を見ていたら、急にあることを思い出しました。
'...Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they'd gone
But they're back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well...'
下線部分、手許の国内盤(ポリドール)の訳ではこうなってます。
「…そんな幸せなひとときは
それほど昔のことじゃないのに
あの歌はどこへ? とどんなに心配したことか」
10年以上前だったか、西森マリーさんがここの部分はそういう意味ではない旨、語学関係の雑誌に書いてあったのを見たことがあります。で、西森さんのほうが正しい。'And not so long ago...'のかかり方がちがう。正しくはそのつぎの部分にかかってます(だから過去-大過去になっている)。その肝心な部分、NHKの字幕ではどうなっていたか、半分眠りながら見ていたためにまるで憶えてません…。orz
3). 図書館から借りてきた『イギリスの修道院』という本(→本家サイトの「参考文献」ページにアップしました)。姉妹版の『イギリスの大聖堂』とあわせてたいへんおもしろく、勉強になる本ですが、「復活祭論争」の舞台になったウィットビー大修道院の章で、「…修道院長ヒルダの名声が高まるにつれ、イングランド北部から南下してきたケルト系のキリスト教会の勢力と、南から進出してきたローマ教会系の勢力がその支配圏をめぐって争い、キリスト教会分断の危険性さえ生じた(p.97)」という箇所が気になるといえば気になった。なんか、ケルト教会がスコットランドから南下してきた…みたいな印象を強く受けます。たしかにコルンバのアイオナやエイダンのリンディスファーンはケルト教会にとってブリテン諸島における布教拠点ではあったけれども…たとえばウェールズのクランカルヴァンにはブレンダンゆかりの聖カドク設立の修道院共同体があるし、聖マロ(仏ブルターニュ半島サンマロはこの聖人から)もここでブレンダンに教育されたという伝承があります。またコルンバの先生であるフィニアンもやはりウェールズで、ダヴィッドやギルダスといった人の修道院にいましたし。こうしたイングランドのケルト教会にはすでに伝統があり、314年開催のアルル宗教会議にも3人の司教を派遣していました(うちひとりはヨーク司教)。アングロ-サクソンやジュート族などの侵入で西へ西へと追いやられたブリトン人(アイルランドとおなじケルト系)のキリスト教会とカンタベリーを拠点とするローマカトリック教会は、はじめはたがいに協力しあってアングロ-サクソンの布教活動にあたっていたものの、大陸ではコルンバヌスとガリア教会の衝突があり、また復活祭の日付けを統一する必要性が高まるなどしてしだいに軋轢が高まった。復活祭の日付け問題を中心に論争が繰り広げられたあげく、けっきょくケルト教会がローマ側に「譲歩」したのがウィットビーでの宗教会議でした。アイオナ側が最終的に譲歩するのはもっとあとのことで、論争終結までに100年もかかりました。最後まで頑強に抵抗していたのがアイオナ共同体だったから、たしかに「北のケルト系教会 vs. 南のローマ教会」と言えなくはないけれど…以上、一読者の感想でした。ついでにウィットビー修道院長聖ヒルダは女性です(ノーサンブリア王族出身で、エイダンに乞われてハートルプールに修道院を設立。のちウィットビーにも修道院共同体を創設した。祝日11月17日)。
4). 『芸術新潮』4月号。「イギリス古寺巡礼」という特集記事が気に入ったので買いました。こういう特集でも組んでくれないと見られないような珍しい教会とかも図版でふんだんに紹介されていて、眺めているだけでもすこぶる楽しい。聖カスバートで有名なダラム大聖堂(と少年聖歌隊の写真)も載っています(p.16のあまりに「現代風な」ロマネスク時代の犬とウサギの彫刻には笑ってしまいました)。ページを繰っているうちに、イングランドの歴史について概説したページ(p.34)の記述が目にとまった。「…いまから5, 6000年前、あのストーンヘンジを築いたのも彼ら(=ケルト人)です」。ええっとケルト人が現在のソールズベリ平原にやって来たとき、すでにストーンヘンジはありました(笑)。イングランドの巨石建造物はケルトの産物ではなくて、もっと古い新石器時代から青銅器時代にかけてで、イベリア人のものだと言われています。『リーダーズ』巻末の英米史年表でもそう書いてありますが。それともうひとつ気になったのが、「…当時の西欧はゲルマン民族の移住により、キリスト教を忘れた異教の地となったのですが、イギリスも例外ではありませんでした」。たしかにそれまでのケルト系教会は南西部へ後退はしたものの、当時のイングランドはペラギウス派などの異端も横行していた。そこで教皇ケレスティヌス1世はなんとかしてこの異端をつぶしてローマカトリック化しようとした。そのとき派遣されたのがかの聖パトリックではないか、と言われています。ついでにローマを占領した西ゴート族アラリック王は、異端アレイオス(アリウス)派のキリスト教徒で、すでにアレイオス派のゲルマン人は多かった。なので当時の西欧世界は異教の地…というより異端の地だったと言ったほうがいいかも…西ローマに侵入したゲルマン系異民族で非キリスト教徒(異端アレイオス派もふくむ)だったのは、のちのフランク王国を築くフランク族のみだったらしい(→こちらの西洋キリスト教史サイトの解説も参照。簡潔にまとまってます)。西ローマ帝国は皮肉なことに、異端とはいえクリスチャンの異民族に滅ぼされたかっこうになります。もっとも8世紀、聖ボニファティウスが伝道するまで、フリジア以東の欧州北部はあいからわず異教徒の世界でしたが。
…コルボ氏の「レクイエム」は終始ゆったりとしたテンポで進行していました…'Pie Jesu' も一言一句、聴く者の耳に刻みこむような感じで歌われていました。音楽評論家の吉村渓氏の話ではじめて知ったのですが、フォーレは、「聴く者の心を動かすのに大きな音は必要ではない」と言ったとか。おお、けだし至言ではないか! 本日のコルボ氏の演奏はまさにそのことばどおりでした。手許に30年以上も前のコルボ氏による「名盤(アラン・クレマンというボーイソプラノを起用した盤)」があるので、のちほど本日の公演と比較するために聴いてみようかと思ってます。
2007年05月04日
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