著者はもとケンブリッジ・セントジョンズカレッジ聖歌隊学校長だった人らしい。「まえがき」で、著者は「この本は 'Choral Foundation' に属する少年聖歌隊員コリスターの歴史について」書いたものだと述べていて、教区教会(parish church)の子どもの聖歌隊員は'choirboys', 'choirgirls' としてはっきり区別しています。上記の「コーラル・ファウンデーション」なる用語、強いて訳せば「聖歌隊を擁する(大聖堂・修道院)組織」くらいでしょうか。
歴史ものなので、まずはじめはキリスト教会と「少年歌手」の関係からはじまり、時代を追って進んでゆきます…のっけから2世紀に書かれた一種の手引書『ディダケー』だの、ディックス師の唱える「聖餐式における4つの動作形」だの、「オクシリンコス・パピルス」だのが出てきます。後者については、穀物の勘定書きの裏に、エジプトの礼拝で使われた、現存最古の「独唱聖歌」がギリシャ記譜法で書かれているとか。すぐそのあとでこんどはケルト教会が登場。当時の聖職者は見習いの若者とともに「共同体」を形成していたのがふつうでしたが、そこに少年の歌い手がふくまれていたかどうかについてははっきりしたことはいまだにわからない。「…いずれにせよブリテン島のキリスト教会は異教徒アングロ-サクソン人侵略者の手に落ち、彼らから逃れた聖職者たちはケルト教会の支配する辺境地帯へと落ちのびた。彼らの教会はローマ教会とはほとんど別個の、ほかのキリスト教世界からも隔絶された存在となり、しだいに特異な典礼方式を発展させていった」(p.2)とケルト教会についても言及しています(中世初期はケルト式のほかにアンブロジウス式、モサラベ式など数多くの地方典礼があり、ローマ式もそんな一地方典礼に過ぎなかった)。尊者ベーダの『イングランド教会史』も何箇所か引用され、ノーサンブリア王族の娘聖エルフリードがわずか3歳で聖女ヒルダの女子修道院に「捧げられた」話とか、ベーダ自身、7歳のときにウェアマス大修道院におなじように捧げられ、そこではこんにち大雑把に「グレゴリアンチャント」と呼んでいる形式の単旋律聖歌を歌っていたと思われる…とか出てきて、内容はけっしてやさしくはないけれどもあたらしい発見がいろいろあって、この時代のアイルランド-ブリテン諸島のキリスト教会・修道院、そこで奏でられていた音楽に興味ある者としては、本筋とはまるで関係のないところで楽しめる本でもありました(p.10の「献身者」の図版について、まったくおんなじものが志子田光雄・富壽子著『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』にも掲載されています)。
修道院に捧げられた子どもはoblate、「献身者」と呼ばれ、エルフリードのように王族とか貴族のような高い身分の一族から修道院に預けられるのがふつうでした(だから当時の「献身者」制度は貧乏人の口減らし手段ではなかったし、子どもたちが受ける教育水準も高かった)。それが、時代をくだって「ベネディクトゥス会則」やクリュニーやシトーなどの改革修道院運動を受けて、こうした「献身者」の慣例は廃止され、聖務日課で修道士に混じって聖歌を捧げる子どもの姿が一時的になくなります。彼らの代役として歌うようになったのが、施し物分配所で養われている孤児たち。修道会に属さない、参事会員(canons regular)の運営する「在俗の」大聖堂でもそんな少年たちの澄んだ歌声が響いていた。とはいえ当時の記録では、たとえばエクセターとソールズベリ大聖堂では14人、セントポールでは8-10人、ヨークミンスターでは7-12人、ウェルズでは6人+リーダー格の年長者3人とわりと少人数の構成だったらしい。少年聖歌隊員の人数の変遷は時代を追って3つの一覧表としてまとめられています。また当時、ソールズベリ司教エドマンドは典礼や聖歌隊のあり方について細かい規定をさだめ、宗教改革時代までイングランドの大聖堂ではこの規定に即した典礼方式がひろく普及していました(セイラム式典礼 Sarum Use)。そして施し物分配所の学校が、英国における聖歌隊学校の前身となります。はじめは単旋律聖歌のオクターヴ上を「斉唱」するだけだった少年たちも、やがてオルガヌムなど初期ポリフォニー形式が流行すると、高音声部トレブルの歌い手、コリスターとして重宝されるようになります。
コリスターという呼び名がはじめて登場するのが13世紀後半で、ラテン語でchorista、またはqueristaと表記されていたものが英語化したとか。それ以前はただたんにpueri(子どもたち)と呼ばれていた。で、各地の修道院に幼い「献身者」が捧げられていた時代の聖歌隊員は少年も少女もいたけれど、少女のほうはヘンリー8世の修道院解散令が出されたときに聖堂内で歌うことを禁止された(20世紀後半に復活するまでは)。王室礼拝堂チャペルロイヤルのコリスターにかんする最古の記録は1303年らしい…そして王室礼拝堂の聖歌隊長は「徴用」の名のもとで、ほかの聖歌隊から才能ある少年歌手を公然と「誘拐」していた(!)という話にはちょっとびっくり。もちろん大聖堂の少年聖歌隊員だけでなくて、イートンカレッジやウィンチェスターカレッジ、オックスブリッジの付属礼拝堂少年聖歌隊員についても多くのページが割かれています。
この本、引用文もこれまた多くて、古英語…で書かれたものなどしばらく考えてもわからん綴りの単語がけっこうあったり(whartとか。図書館に行ってO.E.D. をひっくり返したらどうもthwart の意らしい)。また中世に流行った「少年司教」の話とか(pp.68-73、註にもあるけれど、少年司教の話は『ブルーワー』にも載っている)、王政復古時代の章では王室礼拝堂聖歌隊にいた少年の話が海軍大臣ピープスの有名な日記に出てくるとか(pp.129-130)、ちょうどシェイクスピアの活躍したころ、セントポールや王室礼拝堂の子たちがプロの「俳優一座」として一時期活躍していたとか(pp.113-125、ちなみに男装した娘、なんて役もあり、相手役と恋に落ちて…という筋書きの芝居に出演していた!)、とにかく興味深い史実がてんこ盛りの本です。
1400年以上にもわたる、イングランドの少年聖歌隊員たちの壮大な歴史絵巻を読んだ感想としては、当たり前のことながら彼らが所属していた教会同様、権力争いに巻きこまれ、はげしく翻弄されつづけた歴史だった、ということです。ヘンデルが活躍していた時代から19世紀、「オックスフォード運動」が盛り上がるまで、教会の典礼とその音楽に人々が無関心になると、教会音楽のレヴェルも低下、聖歌隊のレヴェルも文字どおりどん底(この時代の作曲家ホーキンスのあまりに簡素かつ凡庸な作品を、著者は皮肉交じりに「彼のハ短調マニフィカトは18世紀のミニマリスムと言えるかもしれない(p.148)」と評している)。リンカーン大聖堂は「最低の聖歌隊」と揶揄され、ウェルズ大聖堂では、少年聖歌隊員があろうことか身廊を遊び場にしてボールを蹴って遊んでいた(!)とか、ウソみたいなホントの――ある意味笑える――報告もけっこうあります(p.162-3。ちなみに1338年制定のウェルズ大聖堂の儀典法では、少年たちに境内で遊んだり石を投げることを禁じている。orz で、この当時、ウェルズの少年たちは3人一組でひとつの寝台をあてがわれ、「年少者がふたり並んで寝て、そのあいだに逆向きで年長者が眠ったので、真ん中で6本の足が絡みあっていた(笑)」p.28)。
ほかに、こんな挿話もあります…。↓
- 中世、ベネディクト会系のダラム大聖堂では修道士が召されると、その亡骸を埋葬の日の朝8時まで聖アンドリュー礼拝堂に安置し、近親者がふたり、寝ずの番をした――施し物分配所の少年歌手も二手に分かれ聖歌隊席で跪き、夜が明けるまでひたすらダヴィデの詩編歌を一晩中、歌っていた(p.59、さすがにこれは子どもならずともこわい、というか嫌な日課です。自分だったら断るかも)
- 16世紀、少年聖歌隊員たちの音楽教育として、管楽器やヴィオール、オルガンをマスターする課程が取り入れられた。とくに英国でユニークなのが、少年隊員たちによるヴィオール合奏団の活躍。これは「少年歌手一座」の発展時期と一致していた(pp.108-09)。…ということは、この前はじめて耳にした、トレブルヴィオールというのも演奏していたんかな??
- 素行の悪いオルガニスト兼少年聖歌隊長に殺されかけた主任司祭を救った少年聖歌隊員がいた(! p.100-01)ついでに礼拝の最中、殴り合いのいさかいを起こす成人聖歌隊員がいたり…。
- 祭服を着用し、きちんと行列して入堂…という習慣もじつは19世紀後半、「オックスフォード運動」による典礼改革を受けたあとから(意外とあたらしいんですね)。たとえばウィンチェスターカレッジの「クィリスター」たちは1939年まで、カソックなし、私服の上からじかにサープリスをまとっていた(p.196)
- 5月1日・メイデイの日の出にあわせてTe Deum を歌うオックスフォード・モードリンカレッジ聖歌隊の恒例行事。1840年の記録ではモードリンタワーてっぺんから下にいる若者衆にめがけてなんと生卵(!)を雨あられと投げつけた。これに怒ったモードリンカレッジ神学部長ジョン・R・ブロクサムが「サープリスを着用して塔に登り、脱帽して朝陽ののぼる東を向いて歌う」ようにさだめた(p.207、ちなみにYouTube にもつい先日のメイデイで歌うモードリンカレッジのビデオがありました)。
- 第一次大戦中の7月7日、いつものようにセントポールの子どもたちが朝の祈りで歌っていると対空砲火がはじまった。彼らの150m先に爆弾が着弾、大音響で爆発しても、子どもたちは平然と勤め上げていた(! p.250)
- 教会組織に属さない独自の少年合唱団を英国ではじめて率い、活動したもと聖職者がいる(pp.218-21、Liberaの先駆け的存在? この方は現在も元気、米寿88歳)。
つい最近の事例としては、セントポール大聖堂少年聖歌隊在籍時にオルガニストとしてもデビューコンサートを開いた神童ベン・シーンくんのこともすこし書いてあります(p.270)。それと、聖歌隊学校の運営がいかに厳しいかの実例として、あのテュークスベリー・アビイ・スクールのことまで書いてあります(「…テュークスベリーもまた例外ではない。2006年春、学校側は今学期いっぱいで閉校すると発表したが、ディーン・クローズ・スクールが編入受け入れを申し出たため、少年聖歌隊員の歌声はかろうじて将来を保証された」p.221)。
…そしてこれはしかたないけれども、ちょっと誤植が目についたかな。たとえば巻末索引の「トマス・モア」の項目(p.359)。首だけでなく、ページ番号まではねられています(…)。
またp.51の譜例および記述には問題ありと英国のVoAメンバーが申しておりました。当時の少年歌手の出せる最高音は現在のピッチではソプラノ譜のそのまた上の変ロ(B-flat5)…という説を著者アラン・モールド氏は採用していますが、p.293の註77で著者自身認めているように、「ほとんどの研究者はこのウルスタン説を受け入れていない」(なにッ?! じゃなんで本文にこの説を引いたのか??)。現在のピッチではどうも中央ハから12度上のト(G5)で、原曲の調号はフラット一個らしい(聴いたことないし譜面も見たことないからこれ以上のことはよくわからないけれど)。
そして最後に本題とは関係ないことだし蛇足でもあるけれど…Tewkesbury Abbey School を文字どおり「…大修道院付属学校」と表記してあるのをたまに見かけますが、Westminster Abbey 同様、名前だけが残ったにすぎないので(中世に栄えたイングランドの修道院はヘンリー8世の大修道院・小修道院解散令により徹底的に破壊、所領を没収され、グロスターやウィンチェスターなど一部が国教会[英国聖公会]の'New Foundation' として再編された)誤解を招く表記だと思う。ここはじっさいにはアムハーストという人が買い取った、「私立の」聖歌隊学校(independent school)なので(活動拠点としている聖堂も、もとは名前どおり大修道院付属聖堂だったものを、修道院解散令以後テュークスベリーの町の大聖堂として再興したもの)。
索引見たかぎり、Winchesterの文字がなかったので。。Winchesterのことは書いてないのかなーとか思ってましたが、やっぱりちゃんとありますよね。
GW後半からちょっと体調悪くて、、いつもにも増してあたまぼーーっとしてるので、簡単なレスですみません。m(__)m
> 索引見たかぎり、Winchesterの文字がなかったので。。Winchesterのことは書いてないのかなーとか思ってましたが、やっぱりちゃんとありますよね。
p.365 に項目がありますが…。そのうち目についたのはp.107とその註、p.203-4の聖歌隊学校についてのくだりです…当時のQuirister たちは、大聖堂の学校に通っていた子どもたちとはあんまり仲がよろしくなかったようで(苦笑)。
それから本筋とあまり関係ないところでは、王室礼拝堂聖歌隊での「いじめ」(p.178-9)や聖歌隊学校における「体罰」(p.260)についても言及があります。
先月末に引越しをしまして、やっと最近ネットを再開することができました。
大変読み応えのありそうな本ですね。私もぜひ読んでみたいですが、一体読み終わるまでにどれくらいかかるやら…(--;)あらましを教えていただいて、とても勉強になります。
記事の最後の方でピッチの話題が出ていましたが、G5は女声でもソプラノを決める分かれ目になる音ですね。現在のボーイソプラノはB-flat5はザラになっていますが(ちなみにConnorがソロで披露している最高音はA5ですが)、私が聴いたボーイソプラノの中で最も高音を出しているのは、私が聴いた限りですがLorin Weyくんの中央ハから16度上のニ(どう書き表すのでしょう?)ですね。
女声ソプラノでも出すのが難しい高音なので、聴いたときは耳を疑いました(笑)。ちなみに「Over Hill, Over Dale」です。
う〜ん・・・うらやましい!!笑
Simonさん、えー!!Lorinのってそうだったんですか。。。。Orpheus with his LuteとかHarryのと比べてみると、結構低いなと思っていて、てっきりこの子はメゾだと思っていました。。。つまりそんなに音域が広いってことなんですね? Lorinの声はそういうふうに聴くものなんですね・・・はーー素人はもうただただあんぐり・・
(また仕事焦ってきて忙しいので、ROMしておこうと思ったのですが・・・Lorinの話が出てたので、ちょっとだけ横レスでした)
おお! G5がソプラノにとっての分かれ目ですか。
そうですね、たしかにいまのBSソリストならBflat5くらいまでいけると思います。とすると、バッハ時代のハイティーンのBS歌手の実力はいったいどんなだったのだろうか…とつい想像してしまいます。かつてのアレッドのような感じだったのでしょうか。
ロリンくんの出した「中央ハから16度上のニ音」の話、はじめて聞きました…日本式だと「三点ニ音(D6)」でしょうか。とにかくすごい高音ですね。
コナーのソロアルバムでは、'A Quiet Conscience'をもっています…だから、というわけではありませんが、声楽の専門家の観点からこのディスクを取り上げてくれたらとてもありがたいです。
BACのプロデューサー大庭氏は、このディスクの収録に立ち会い、その歌声を耳にしてコナーをメインソリストとして使うことを決めた…とか聞きました。
>Lorinの声はそういうふうに聴くものなんですね・・・
いえいえ、私はやはり自分が声楽を習っていたことがあって高音に憧れているので、どうしても音の高さに耳がいってしまうだけなんです。
Lorinは声質でいうとたぶんメゾになると思います。だから低く聞こえるのかもしれません。HarryやConnorに比べるとかなり息の混ざった、特徴的な声ですよね。前にも言いましたが、ソプラノかメゾかを決めるのは出せる音域ではなく声質です。
「Over Hill, Over Dale」のD6は、私が耳で聴いた限りなので、今度ピアノで確認してみますね。
そうですねぇ…B5はバッハのアベ・マリアなんかがそうですね。アレッドやBACのアンドリューなども出しています。Connorはソロではそれほどの高音ではありませんが(私にとっては十分な高音ですが…)、合唱の中ではB5もしくはhighCを出していますね。あ、ちなみにBACのBlue BirdのエドワードのソロはhighCが出てきます。
'A Quiet Conscience'は、実はBACのソロアルバムの次に紹介しようと思っていたのですが、もっともっと聴き込まなければダメだと気付いて、後回しになっています。突出した高音はありませんが、Connorの歌唱テクニックを存分に生かしたアルバムですよね。大庭氏のエピソードは聞いたことがありますが、そうしたのもうなずける作品ですね。いつになるかはわかりませんが、必ず取り上げますので待っていてください。
ん?息の混ざったというのは・・・胸声なんですか??(すみません、技術的な説明にほとんどついていけないので、へんな質問かも)
わたしは、彼の歌い方自体に、独特の、、なんというか、一種の「こぶし」みたいなむせび泣くような色気を感じましてね・・・でもそれは、Hi HoのCDだけに特徴的で、あの時期に顕著に現れていたようです・・
>ソプラノかメゾかを決めるのは出せる音域ではなく声質です。
なるほど・・・・ 難しい・・・
「こぶし」って書きましたが、もちろんそれだとクラシックの発声じゃないですよね?でも、この子は上手いと思うんですよ・・・私、彼のソロCD3枚とも持ってますが、全部大好きです。