2010年10月24日

大家さん、なんとかして(泣)!

 本題に入る前に…

大家(さくらインターネット)さん、ブログソフトウェアの更新…だかなんだかでまる一日、機能停止…していたのはいいけど、ガラリと一新されたブログ作成画面はまだいいとして、Firefox 3.6では記事を書こうにも書けません(↓参照)!!! 投稿はいつもFirefoxからなので、IE8でのみ投稿フォームが正しく表示される…というのでは困るんですわ。なんでって? IE8はたしかに使い勝手はそこそこよしとしても、どういうわけかなんも反応しなくなって、タスクマネージャからkillしなくてはならない場面がたびたび発生します。当方、長々と管を巻く書き方しかできないので(苦笑)、はっきりいってIE8は信用できない。Firefoxは万一、落ちてもタブが確実に復元できる。IE8が落ちたときはアテにならないから、タブの復元はしない。なのでFirefoxから記事が書けないというのは、当方に記事を書くなと言っているようなもの。そろそろヤドカリよろしく、お引っ越しの時期ですかね(この記事はメール投稿で書いてます)…。

1). まずはこれ。ついこの前(?)、絵本についてちょこっと書いたばかりですが、「電子書籍」先進国・米国ではなんと乳幼児の「絵本離れ」が進行中だという!! 経済危機で相対的に本の売り上げが落ちた、という事情もあるものの、絵本の販売不振にいちばん影響をあたえたのは2002年に施行されたUS Public Law 107-110(No Child Left Behind Act)'、通称「落ちこぼれ防止法」なる法律らしい。全国一律規格のテストが全米の小・中学校に課されるようになり、教師の質の向上、という点では一定の効果はあげているみたいですが、反面この試験の成績の芳しくない学校は閉校(!)させられたりと、いろいろ問題になっているようです。というわけで、となりのジョーンズさんちの子どもが気になるごくごくふつうの親御さんたちは、就学年齢前のわが子に向かって、絵ばっかの薄っぺらい本をいつまでも見てるんじゃありません、さっさと「文字ばっかの」ご本を読みなさい! となり、そのとばっちりを喰らったかっこうで書店での絵本の売り上げは年々、右肩下がりだという記事です。Scholastic社でも過去3年、ハードカバー絵本の刊行点数を5 - 10%ほど減らしているとか、Simon & Schuster社でも数年前は子ども向けに刊行された本の35%を占めていた絵本が、いまは20%台に落ちているとか。

 絵本、とくると、日本ではどちらかというと情操教育という側面が強いという印象をもってますが、海の向こうではロングセラーのDr. Seuss シリーズとかは、どちらかというと「セサミストリート」的ことばの教育という側面が強い、という気がします。絵本イコールことばを幼児に教えこませる道具、という偏重した見方が強いと、いきおい絵本のもつほんとうの価値云々には目もくれず、本人はまだ読みたくもない活字の本を親がせかせるという悪循環が起こっているのではないかとも思う(記事後半にそんな話が出てくる)。絵本界では名の売れたロングセラー作家でさえ、この状況を憂慮しているという。で、本屋さんもなんとか絵本の売り上げを伸ばそうと必死です(
Borders もB & Nと同様、米国の大手本屋チェーン。下線強調は引用者)。

Borders, noticing the sluggish sales, has tried to encourage publishers to lower the list prices, which can be as high as $18. Mary Amicucci, the vice president of children’s books for Barnes & Noble, said sales began a slow, steady decline about a year ago. Since then, the stores have rearranged display space so that some picture books are enticingly paired with toys and games.

 でも三島市の姉妹都市・加州パサディナ市の本屋さんのバイヤー氏に言わせれば、絵本には活字本にはない魅力があるという。

“Some of the vocabulary in a picture book is much more challenging than in a chapter book,” said Kris Vreeland, a book buyer for Vroman’s bookstore in Pasadena, Calif., where sales of picture books have been down. “The words themselves, and the concepts, can be very sophisticated in a picture book.”

 自分から進んで読みたいのならともかく、むりやり活字本を読まされてもまた居心地のよい絵本のほうがいいという子どもたちの反応は、しごく当然のこと。絵本に拘泥するわけではないし、統一テストの成績が…と心配される親御さんの気持ちもわからなくもないが、「これが読みたい!」という子どもの意思をなにより尊重し、またそういう機会を作ってやることが大切なんじゃないかと、しがない門外漢はこの記事読んでつくづく思うのでした。幼児期の読書体験って、あなどってはいかんです。将来まっとうな大人になるのかどうか…は、案外、この短いひとときの読書体験にかかっていたりする。

2). つぎは絵本、ではなく活字の物語についての含蓄の深いコラムを。「翻訳」というプロセスは、ただたんに自作小説が外国の読者にも読んでもらえるようにするための言語変換作業にとどまらず、じつは当の小説そのものを創作している作者自身もまた「翻訳者」であり、かつ最終的にその作品を手に取る読者もまた「翻訳」という一連の営為に参加しているのだ、ということを述べたもの。この記事書いた人は『めぐりあう時間たち』の作者、マイケル・カニンガム氏(すいません、まだ読んでなくて)。

 長年、自作の翻訳者との共同作業を通じて感じたこと、また自身が物書きとして自立していく過程で「小説を書くとはどういうことか」について感じたことなども綴ったこのコラム、翻訳というものをすこしでも経験したことのある人ならば、全文を読まれて「なるほどねぇ」と頷かれる向きも多いのではないかと思います。

 小説家の視点から書かれているので、やや卓抜な比喩(?)をもちいて「小説の書き方」指南とも受け取れる箇所もあって興味がそそられます。たとえば書き出しについて。メルヴィルの名作『白鯨』の冒頭部の科白、'Call me Ishmael.' を引き合いに出し、いまやりかけのことすべてを中断させて「これを読め!」というだけの権威というか力が必要。とはいえたとえば'Idiot, read this.' なんてのは「力」はあるがこんなんで読み手は惹きつけられない。力だけではなく耳に心地よい「音楽」ないし「響き」がないとダメだ。イタリア語訳『白鯨』の冒頭部も引いて、翻訳者はただ字面の意味のみ移せばこと足れりとするのではなくて、作者が読者を引きずりこむ「響きのよさ」をも自国語で再現するように、と求めている(とはいえ…印欧語族どうしならともかく、日本語で同等の効果を狙うのはしんどいところ。ちなみに講談社文庫版では「イシュメール、これをおれの名としておこう」になっている。たしかに読み手を引きこむ「力」は感じられますね)。

 翻訳というのは、じつは書き手の心のなかですでにはじまっている。カニンガム氏いわく、書き手は心のうちにある「地球上の人間について知っているかぎりのすべて」をなんとかことばの建築として表現しようと頭をかきむしって最善を尽くすが、格闘の末にできあがった原稿はとうてい心のなかにあるこの上なくすばらしいイメージの等価物たりえないもの。心のなかにある「炎の大聖堂」とは、似て非なるものだ。こうしてできあがった作品じたいが作者の心的イメージの「翻訳」であり、それを文字どおり他言語へ置換する翻訳者は、「翻訳の翻訳」をおこなっているのだ――自分の目の前の「原文」一字一句と格闘しながら。

The translator, then, is simply moving the book another step along the
translation continuum. The translator is translating a translation.

 この過程の最終段階に読者がいる。ほかの芸術分野――映画とか舞台とか絵画とか歌とか――は、みんなが見る/聴くのはおんなじ対象物の作品にほかならないけれども、紙の上に文字のみで表現された文学はちがう。文学は、ふたりとしてまったく同一の作品を読むということはない。読み手が受け取るイメージはそれぞれにまるで異なる。ぼくのなかにあるドン・キホーテやアンナ・カレーニナ、ハックルベリー・フィンのイメージは、ほかの読み手のイメージとまったくおなじ、なんてことはけっしてない。『罪と罰』にしろ、自分が読んで受けた印象とミステリ好きの女性読者が読んで受ける印象は、同一の作品を読んだとは思えないほどの差がある。文学というのはそういう性質の芸術だ。読者もこの一連の「翻訳」に最後に参加し、やはり作者の味わったのと似たような挫折感も味わったりする。けれどもこの一連のプロセスにあるのは絶望ではなく次作にたいする期待感ないしは高揚感。当の小説を書いているほうも、それが慰めになる。つぎはもっとよくなる、もっと大胆に、もっと普遍的に人間の営みに迫った作品が書けるという消えることのない確信。こういう完璧さを求める芸術の旅路は言わば「聖杯」探求よろしく、けっしてかなえられることのない高望みにすぎないかもしれないが、人間というのはそれゆえ物語の書き手になり、翻訳者になり、読み手になり、そしてまた物語の「主題」ともなるのだ…以上、自分のなけなしのアタマで感じたカニンガムさんの主張を書き出してみました(translationという語は、たとえばこの前のBBC Radio3の Choral Evensong 放送リストに'From Lincoln Cathedral on the Feast of the Translation of St Hugh of Lincoln.' なんて書いてありましたが、こちらは「聖遺物の移動」という意味。translateもtransfer とおなじラテン語から派生した語だから、本来の用法と言えるかも)。

 翻訳という観点では、

Here, then, is the full process of translation. At one point we have a writer in a room, struggling to approximate the impossible vision that hovers over his head. He finishes it, with misgivings. Some time later we have a translator struggling to approximate the vision, not to mention the particulars of language and voice, of the text that lies before him. He does the best he can, but is never satisfied. And then, finally, we have the reader. The reader is the least tortured of this trio, but the reader too may very well feel that he is missing something in the book, that through sheer ineptitude he is failing to be a proper vessel for the book's overarching vision.

という下線部がまったくもってそのとおり。どんな名訳だって欠点はある。『聖ブレンダンの航海』について言えば、セルマー校訂版ラテン語原本およびアランソン写本版を素人なりに検討していたとき、Webの海に転がっているものから英訳の決定版と定評のあるジョン・オメイラ本まで入手できるかぎりの英訳を徹底的に突きあわせたことがあり、思えば自分にとっての翻訳学校だったような気がします。オメイラ訳にも「訳抜け(?)」もしくは誤訳(?)という箇所はあったし、ここはこっちの人の訳のほうがいいかなとかいろいろな発見があり、いろいろと勉強になりました。よく言われることですが、翻訳というのはおんなじ原本でも100人いれば100通りの訳ができあがるもの。だから翻訳はおもしろい。だから翻訳はこわいし、むつかしい。でもここでひるんでいては、先には進まず。とりあえず「一歩」を踏み出すことって大事ですよね。翻訳にかぎらず、何事もそうですよね。まずはやってみることです。なにか書きたいことがあって、いつもモヤモヤしている…そんな人は、とにかく書きだしてみることです。「リトル・チャロ」に出てきた表現も借りれば、There's no looking back ; just go for it!! 

 ところで電子書籍ないし電子出版というのは、まさにそんな人にとっては理想的な手段かもしれない。せんだって見た「クローズアップ現代」でもそんな話が取り上げられていて、たとえばシアトル在住のNASAやMS社などに勤めていたというボイド・モリソンなる書き手の例が出てきました。この人、小説家になることが長年の夢だったようで、処女作の The Ark を出版社に売りこんだものの、いつも返事はツレないものばかり。たどりついたのがAmazonのKindle版電子出版。これでなんとジャスティン・ビーバーよろしく大ブレイク ! ちなみにこの人は博士号ももち、特許も取り、俳優としても活躍しているというからすげー才人と見た。作品名にもなっている Ark は、聖櫃のほうじゃなくて、箱船のほうらしい。さっそく興味を惹かれたワタシは次作の Rogue Wave の紹介文とか見たのですが、大津波ものらしい…災害ものなら『再びの砂地獄』とかは読んでみたいと思うけれども、東海地震の震源の駿河湾にまともに向きあって暮らしているこちとらとしてはどうかなあ…ま、読んでみなければ、わかりませんけれどもね。いずれにしても大家さん、はやくFirefoxでも投稿できるように表示のバグを直してくださいませ!

unmanageable.PNG



ちょっと追記:いま、「3か月トピック英会話」では「聴く読むわかる! 英文学の名作名場面」と題するすこぶるおもしろい、かつためになる番組を放映しています! この前はじめて見て、もっと早く見ていればよかったと後悔した。自分が見たのはディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の'Please, Sir, I want some more.' という科白の回。孤児院でひもじい思いをしてぶっ倒れそうなオリヴァー少年。貧弱な食事に耐えかねた仲間に突き出され、ふくよかな院長先生に向かって、「もっとおくれよ!」となかば自暴自棄になって要求している場面なんですが、このオリヴァーの科白がそんなに有名だとは寡聞にして知らなかった。なにかの機会があったら使ってみようかしら。おそらく言われた相手はムッとくるでしょうけれども(性格の悪い人)。

posted by Curragh at 16:27| Comment(3) | TrackBack(0) | Articles from NYTimes
この記事へのコメント
Firefox 3.6での不具合お気の毒です。
さくらインターネットは、わたしも契約していますので試してみました。メンテナンス直後も問題ありませんでしたが、今も何の問題もありません。特定のサーバーのみの不具合か、ユーザー個々の環境の問題か、さくらからのアナウンスは今のところないようですね。ちなみに、試行したのは手近にある、Win XP(SP3)とFirefox 3.6.11、Win Vista(x64)とFirefox 3.6.11で試行。また、Win 7(x86)とOpera 10.62でも問題なし。他のブラウザとの組み合わせは試していません。
Posted by aeternitas at 2010年10月24日 21:50
aeternitas さん

お気遣い、ありがとうございます。m(_ _)m

> ちなみに、試行したのは手近にある、Win XP(SP3)とFirefox 3.6.11、Win Vista(x64)とFirefox 3.6.11で試行。

自分もWinXP SP3 & Firefox 3.6.11の組み合わせなんですが…やっぱりかんじんかなめの作成フォーム部分が「縦一行」表示になってしまいます…??? divタグでくくってある部分の回り込み関連が正常に機能してないのかも。

…ひょっとしたら、フォントに「メイリオ」を指定してあるせいかも、と思いましたが…フォーム部分はギザギザのあるふつうのゴシック体表示なので、フォント関連はとくに関係ないかな…とも思ったり。不思議なのは、IE8ではレイアウトも崩れずばっちりなのです。おんなじ「メイリオ」指定なのに…。??? しかたないからなにかほかのもの(テキストエディタ)に下書きして、それをコピペして投稿、あとは微修正をIE8で、というふうにしようかと思います。いままでなんともなかったのに、なんだか悲しいです…といっても最近では更新頻度はかなり落ちてきてはいますが。と、いまBBC Radio3のライヴ放送(Choral Evensong)を聴きながら書いております。
Posted by Curragh at 2010年10月25日 00:46
追記です。いましがたDesireにて確認したところ、なんとスマートフォンのちっさい画面にもかかわらず、しっかり投稿フォームが正常に表示されました。orz orz いくらなんでもこれ経由で長文の記事はムリです…。バッテリの減りも早いですし。
Posted by Curragh at 2010年10月25日 01:23
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