2010年11月07日

578本目の記事にちなんで…

 5年前の今月から開始したこのなにを書いているのかまるで要領を得ない拙ブログ、この記事をもってめでたく ( ? ) 578本目とあいなりました。なにがめでたいって? そりゃあ、大バッハのオルガンフーガ中、もっともよく知られるあの愛らしく美しい主題をもつ「小フーガ ( フーガ ト短調 ) BWV.578 」とおんなじ数字になったから(笑)。

 「小フーガ」は、おそらくバッハの全オルガン作品中もっとも愛聴されている作品なのではないかな。『バッハ事典』によれば 1703−5 年、アルンシュタット時代の成立で、基本資料は『アンドレアス・バッハ本』。つまり自筆譜は存在してなくて、筆写譜のみ。というか、これって「トッカータとフーガ BWV.565 」のころとおんなじ時期の作品なのかしら? 自分はもうすこしあとのミュールハウゼンかヴァイマール宮廷に着任したころの作品かと思っていたが( このフーガもほかの独立したオルガンフーガ同様、あきらかにイタリア音楽の「歌わせるポリフォニー」の影響が色濃い )。作曲者自身もけっこう気に入っていたようでして、後年、新楽器の鑑定およびこけら落としとかで開いたオルガン演奏会でもたびたび「小フーガ」を弾いたんだとか。この作品の最大の魅力はやはりその主題にあり。前半は歌唱的、後半は器楽的といった異なる性格のモチーフを統合するというこさえ方もいかにもバッハらしくて、後年「インヴェンション」ではそれをさらに発展させてもいる。いちおう4声で書かれてはいるものの、譜面を見てもわかるとおりめったに3声を越えることがなくて、フーガの展開も複雑さを避け、滔々と流れるような小品に仕上げている。主題の美しさを最優先して、守調応答の原則も捨てている。とにかく印象的なオルガンフーガであることはまちがいなし。ヴァルヒャの名演も好きなんですが、個人的にはジルバーマンオルガンで弾いた旧東独のオルガニスト、ロベルト・ケプラーの演奏盤がけっこう好きです ( かつて国内盤が EMI から出ていたけれども、いまはどうなんだろうか。ちなみに自分のは「ジルバーマンオルガンで聴くバッハ」みたいな企画もので、何枚かのセットになった輸入盤 )。

 というわけで、先週の「バロックの森」では「幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542」がピート・ケーの演奏盤でかかってました(水曜の朝)。こっちのト短調フーガは、おなじ調で書かれた作品番号578のフーガと区別するために別名「ト短調の大フーガ」と呼ばれることがあります。「大フーガ」の主題はオランダ古謡にもとづくもので、なんというか、ちょっとユーモラスな感じさえするフーガです(もっとも演奏はかなりたいへんなんですが)。どっちのト短調フーガもそれぞれ味わい深くて、好きですねぇ。

 先週の「バロックの森」ではたとえばブクステフーデの「前奏曲とフーガ ト短調  BuxWV.149 」とか、30代で早世したルイ・クープランの「組曲 ハ長調」というクラヴサン作品とか、興味深い作品が目白押し。ゆっくり聴けないのが口惜しいところ ( 苦笑 )。とくに「小」クープランのほうはレプリカ楽器じゃなくて、17世紀に製作されたホンモノを録音に使っているところがまた、いい! やっぱり本物の響きはちがうな ! なんというか耳にやさしく、繊細に囁きかけるようなまろやかな響きとでも言おうか。そうかと思えばカプラーで上下鍵盤の連結されたときの低音弦の響きは、なんとも重厚で心の奥底まで染み入る感じ … 。演奏者のジョアンカ・マルヴィルにも拍手 ! 

 … いまさっきの「サンデークラシックワイド/海外コンサート」ではマーラーの「3番」と「8番」が流れてました…これって前にも書いたけれども児童合唱が登場する交響曲なんですが、今回のライヴ音源ではアドルフ・フレドリク少年合唱団という、おそらくは在フィンランドの少年合唱団が「3番」を歌い、「8番」ではぜいたくなことに、ウィーン少との共演でした ( 冒頭はオルガンの朗々とした響きをともなって、いきなり「来たれ、創造主たる聖霊よ」という分厚い合唱ではじまる )。「8番」は通称「一千人の交響曲」とか呼ばれますが、これって 1910年、というからちょうど100年前の初演のとき、総勢1030人 ( ! ) で演奏したことに由来しているらしい。

 …ラジオついでにもうひとつ。せんだってNHKラジオ第 2で、「小学校における英語教育について」みたいな企画が放送されてまして、NHK-FMと切り替えながら聴いていた。素人なりに言いたいことはいろいろあれど、一点、どうしても理解に苦しむものがありました。それは「英米人の使う英語でなくてもいい」という主張。いまやアジアなど非英米圏で使用されている英語は、いわば国際的に通用する共通語のようなもので、そこでは必ずしも英米人の基準はあてはまらない。意思疎通さえできれば、「〇〇英語」みたいなものがあったっていい、というもの。「ちょっと待ったぁ(ヒゲじいふうに)!」。なんか英語とくると、一般常識がとたんに怪しくなるのがこの国の悲しいところ。そういう論法の行き着く先は、たとえば日本語のような「主語 + 目的語 + 動詞」みたいな語順でもいっこうかまわない、こっちの言い分さえ相手にわかってもらえればなんだっていいんだ、気にしない、気にしない! ということにもなるのでは。こうなるともうついてゆけない。言語学の専門家でもなんでもなく、留学経験もなくましてや外語大卒でもない門外漢の言うことなんて、はなはだ説得力がないことは百も承知であえて言わせてもらうと、それはカナヅチの人に、なんでもいいから好きな泳法で海を泳いでみなさいと言っているようなもの。そんなことしたらそのカナヅチの人はあっという間に撃沈ですよ。まずもって基本的な英語のルールについては、英米人のそれを規範とするのが当然のことなんじゃないかって思いますがね … 外国の人が日本語を学ぶ場合だってそうでしょ? あんたの好きなように、「主語 + 動詞 + 目的語」でもいいよとか、漢字なんてしちめんどくさいからぜんぶローマ字でいいよとかって言えるだろうか??? そういう英語って、「インディアン、ウソつかない」ていどのものにすぎないから、早晩行き詰まると思う。「基本」はやはり英米人の使うスタンダードではないか、と考えます。当のネイティヴスピーカーだって教育の程度によって使う英語には個人差はあるとはいえ、英米人の基準にもとづく英語なんて学ぶ必要はない、というのはなんとも傲慢な主張のように思える。ようするに、最初からスタンダードな英語ではない〇〇英語でいい、なんてのは通用しない。そういうのは見た目は横文字ながら、一「英語諸言語」というべつの言語にすぎない。ある世界でしか通用しないことばなんて、共通語でさえない。たんなる幻想だと思いますがいかが? ここらでいま一度、外国語をふくめてことばを学ぶってどういうことなのかをよーく考えるべきなのでは? 小学生には異文化理解の大切さと、自国の文化を外国の人に伝える大切さを教えるべきでは ?? 文化から切り離された、ある目的のためだけの「人工言語」なんてありえないですよ。あーム、あーム … ( とチップス先生ふうに終わる )。

 … ちなみに今月 4日はメンデルスゾーンの命日 ( 1847 年 )で、今日はダーウィンの影に隠れがちなアルフレッド・ラッセル・ウォレスの命日 ( 1913年 ) でもありました。そしてもうひとつ、こちらのニュースもたいへん気になるところではある … 。いよいよ公共図書館もかさばる CD音源よさらば、ようこそクラウド ライブラリー! てなことになるのかな。配信による「音源貸し出し」もたしかに便利だしいいけれども、欲ばりな音楽好きとしてはアルバムだって聴きたいですもの。

付記。大家側のブログ管理ソフトの更新により、この拙ブログも晴れて(?) モバイル対応になったようです。iPhone 用の表示設定とかが新設されまして、おそらくグリーンベースの見やすい記事表示になったかと思われます ( 当方のアンドロイド端末でも確認済み ) 。

posted by Curragh at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM
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