まず、いま話題の「小学校における外国語活動」について。「お上――こういう言い方は好かんが――」のあまりに場当たり的で現場と乖離した、矛盾だらけのデタラメな無理難題を押しつけられ、過度な期待を寄せる(?)保護者からも突き上げを喰らっている現場の先生方はもう過労死寸前だ、なんとかせねば、という部分はしごくまっとうでよくわかります。人も予算もつけず、すべての責任を現場の教員になすりつけようとしている。げんに最初の章で報告されているように、「小学校高学年からの外国語活動(じっさいには「英語」中心)」事実上の前倒しがはじまっているいま、現場の先生方の混乱はこちらの想像以上に酷いと思いました(ついでに国内でしか通用しない「英検」とTOEICやTOEFLとを同列に扱っているという点では、俎上に載せられている某科研の報告もおかしいといえばおかしい。英語力の国際基準となる試験は、やはり「ケンブリッジ英検」とかIELTSのほうではないかな。→TOEICの問題点についてはこちらを参照)。以下、個人的に共感できる点と? な点を列挙しておきます。
もっともだと思う箇所:
まずは、しっかりとした言語学・英語教育学教育を実践しなくてはなりません。…並行して、これまで学生が身につけた英語の知識を意識化し、再整理を行います。必要に応じて、英語史(これは英語史のための英語史というよりも、現代英語理解のための英語史)にも触れる。(p.30)
いまこそ、英語教育に携わる人々が声を上げ、原理ある英語教育への転換を図らなくてはなりません。そして、大学英語教育関係者がそのリーダーシップを果たすべきときが来ていると言えます。(編者のO先生、p.33)
「英語ができるというだけで英語が教えられるということではありませんから、…(O先生へ相談を寄せた関東在住の方、p.60。これはもっともで、外国の人に日本語を教えるという場面を考えてみればいい。日本語がただできるだけではとうていむりな話。教授法を身につけなくてはならないし、才覚だって要求される)」
外国語教育とは、母国語以外の手段を使っても、何とかコミュニケーションができる市民を育てることを重要な任務とします。そのコミュニケーションとは、言語や文化の共有の度合いが低いものですから、うまくゆかなかったりすることも多いでしょう。それでも粘り強く、言語を通じてコミュニケーションを維持し、言語以外の力――特に暴力や軍事力――でむやみに物事を解決しようとしない市民を育てることは、戦争の世紀であった20世紀を越えた私たちが十二分に理解しておくべきことでしょう。(Y先生、p.112-3)
英語教育と二者択一的にあれかこれかで議論するのはお門違いというものです。いま政策立案者にとって必要とされるのは、学校教育において日本語も英語も、そして他の言語も視野に入れつつ考える、より広い言語教育政策的視野ではないでしょうか。(F先生、p.165)
我々は、自分たち自身が極めてモノリンガルな体質をもった国に生まれ生活しているため、言語をめぐっての思考も自然と単一的になってしまいがちです。(同、p.188)
「英語で何ができればいいのか」を考えず、単なる英語力だけを志向してきたところに、日本の英語教育の行き詰まりがあります。(M先生、p.161。これはp.240以降のS先生の言う「内容のない英語授業」と通底する。ここ30数年、なんだかんだいわれつつも、公立学校における「教室英語」ほど現実世界の英語とかけ離れ、中身がないのは異常といえば異常)
「外国にも方言はあるし、『英語』を一つ取り上げてもアメリカ英語やイギリス英語、オーストラリア英語があるので、それらを理解する上で、日本の方言の存在を知っておくのは便利だと思います」
「ふだん何気なく使っている日本語を学ぶことにより、ことばのしくみや本質のようなものが少し分かってくると、外国語にも少し興味を抱くようになります。そして、外国語のしくみや本質に気づくと日本語との違いに気づき、そしてそれが他国との文化の違いの発見にもつながると思います」
「外国のことばの場合、日本語とは違ったきまりがあったり、ふだん使い慣れていない分理解するのも難しくなると思うけれど、日本語の文と外国語の文を比較しながらなど工夫すれば分かりやすくなると思います(いずれもS先生の公開授業に参加した高校生のすばらしい意見、p.230-1>。これは英国発の「ことばへの気づき」にもとづいた実践報告なんですが、小学校の外国語活動は、このような異なる言語との衝突によって母国語への理解を深めたほうが、回り道に見えてけっきょくのところ多国語の習得もしやすくなるのではないか思う。いまはケータイとかで文章入力するのが当たり前だから、たとえば「誤変換」例を児童生徒たちにどんどん出してもらう、というのも日本語のもつ奥深さへの「気づき」になるのではないか)」
知らない言語でも言語知識や経験を駆使して推測できること、他の言語や文化に対して寛容になることなとが求められているといえよう。(CEFRについて。F先生、p.292)
? な箇所:
…いままでの「外発的開化」による近代化をやめにして、江戸時代のようなマイペースの「内発的開化」に切り替えることが必要です。江戸時代にはすでに日本は日本独特の近代文明を築いております。そこからまず学び直すことが再出発の第一歩ではないかと思います。(T先生、p.132。「マジっすか?!」と思わず突っこみたくなるのをグッと押さえて…。ええっと、江戸時代のころがよかったとは、たわけた主張だ。首都の江戸はともかく、重税を課されていた地方の疲弊といったらいまの比じゃないような気がするが…坂本龍馬がいま引っ張りだこですが、あの当時の日本は、「変わるべくして変わった」、つまり徳川幕府体制内部から崩れていった側面だっておおいにあると思うぞ。このほか、この先生の論考の「方向性」そのものが理解に苦しむ。F先生の書いた、「『英語よりもまず日本語』というメッセージは、小学校英語反対論のなかにも時折見かける論調です。これは時にナショナリスティックな色彩を帯び、思わぬ方向へ議論を引っ張っていくのですが、そのことによって問題のありかを見誤らせる危険がある(p.165)」という主張とみごとに衝突する)
言語教育の重要性を唱える人がたくさんいて、さまざまな議論が巻き起こる。ところが、それぞれの人が考えている言語教育の内容が異なっているかもしれない。これでは議論になりません。いや、議論にならなくても言語教育が向上すればいいのかもしれません。(S先生、p.193) いったいなにを言いたいのかがまるでつかめず、それこそ雲つかむみたいに。意見が異なっているから議論するんじゃないの、と門外漢は思うが。おんなじ意見の人どうしだったら、たんなる「なかよし会」だ。ちなみにこの先生、論考の最後に、「この図式に関しては、当然反論もあるでしょうが、反論は大歓迎です。その反論によって言語教育に関する考察がより深められていくことになるからです」と書いていたりするから読者のこっちが椅子から落ちそうになる(苦笑)。
またE先生は小学校での外国語活動必修化のきっかけともなった文科省の「戦略構想」について、「『戦略構想』は経団連の提言そのまま」と言っているのにたいし、上述のS先生とはべつのS先生による「言語リテラシー教育の政策とイデオロギー」では、「導入の決め手となったのは、全国PTA連合会のアンケート調査です。8割の親が小学校の英語教育導入に賛成しており、これで決定的になったという経緯があります(p.243)」と書いている。
そして巻末に収録された、「仮想『小学校英語覆面座談会』」なるものも、なんでこの論考集に収録しなくてはならなかったのかがまるでわからない。はっきり言って、文科省官僚だった人の手遊びにすぎない。そもそも現場で苦労している先生にとっても、こんなの読んだところであまり参考にはならないと思うし。
ついでにS先生の書かれた、「リテラシーは『読み書き能力(識字能力)』なのか?」という項目について。先生によると、literateから派生したliteracyという名詞はもとは教育用語で、1850年代に出版されたマサチューセッツ州の教育ジャーナルではじめて使用され、それをハーバード大学のライブラリーで見つけたと報告しています。へぇ、そうなの、と思っていつも行ってる図書館のO.E.D. でliteracyの見出しを見たら、'1883 New Eng. Jrnl. Educ. XVII. 54 Massachusetts is the first state in the Union in literacy in its native population.' という引用文が載ってました。すくなくとも19世紀末にはliteracyという語が一般に使用されはじめていたということになるみたいです。
じつはこの本の寄稿者には「3か月トピック英会話」の斉藤兆史先生もおられるのですが、たまたま「10-12月期」のテキストをそれとは知らずに買っていた。で、今月はジョイスのDubliners も取り上げられていて、なにげなく先生の書かれた章末のコラムを見たら、日本で英語を教えているというあるアイルランド人教師による新聞投稿記事を紹介してました。そのアイルランド人は、日本語が「第2のアイルランド語」になりはしないかと主張していたんだそうです。先生は手放しの英語推進論にたいして異議を唱え、またイヴリン・ウォーのBrideshead Revisited のコラムで、「宣命(せんみょうと読む)」を研究しているオックスフォードの学生を引きあいに出して、「イギリスの大学の日本語学科で『宣命』を研究するとは、日本に置き換えれば、さしずめ英語・英文学科で『ベオウルフ』など古英語で書かれた文献を研究することになりますが、そんなものを研究しているから日本人の英語は駄目なのだとの批判の声が聞こえてきそうです」と書いている。この本での論考にも通じるものを感じます。でも大学ってそもそもそういうものを研究する場であるはずなんですがね…そんなことを言う人たちには先生の言うように「学理」をもって理論武装して対抗すればいいわけで…英国でもいま、教育予算関連はたいへんですよね。この前、学生デモが暴徒化したとか報じられてましたし。いきなり大学授業料が3倍(!!)に跳ね上がったらたまったもんじゃない。そりゃ抗議もしますよね(この国のいまの若い人は、いい意味でも悪い意味でもしごくおとなしいですね…)。でも「そんなことをしているから…」というのは、いささか自虐的な響きがあるような気が…する。だれもそんなこと言ってないと思う(自分の感覚では)。ついでに欧州におけるロマンス語の大家という大先生が学生だったとき、担当教官からなんの前触れもなく、ブノワ編のアングロ-ノルマン語版『聖ブレンダンの航海』の一節を口頭試問でその場で訳すようにと言われたことがあるとか、そんな文章も思い出した。
ここで本の感想から脱線して拙論を言いますと、公立小学校における「外国語活動」はF先生の紹介していたような「ことばの気づき」でよいと思う。他言語とのソフトな「衝突」で、母国語との構造のちがいを意識させる。それからでも本格的な英語教授は遅くはない。アタマから'Would you like 〜?' なんてやるから、かえって「英語嫌い」を量産してしまうと感じます。具体的な英語の決まりごと(文法事項)および語彙については、基本的にはこちらの先生の意見に賛成ですが、ただやたらに関連性もなく丸暗記、棒読みしていては宝の持ち腐れ。「真っ赤な夕陽が海原を焦がしながら沈む」と言ったとき、日本語では豊かなイメージが湧きますよね? ところがこと英語となると、じつに学習態度がそっけない。教えるほうも字面の約束事ばかりで、これでは生徒だってつまらないし、結果的に英語という科目がただ苦痛なだけの暗記詰めこみ教科と堕してしまう。そしてこの本を読んで不思議だなあと思うのは、だれひとりとして「大学受験の英語」をどうするかという議論をしていない。国内でしか通用しない「英検」もどうかといつも思う。極論すると、旧態依然とした受験英語をなんとかしないかぎり、日本の英語教育はいつまでたっても昔のままだ。いくら学校英語だけでは話せるようにはならないといっても、そもそも基礎力さえ怪しい生徒がつぎつぎと大学に入学してくる時代(前にも触れたことですが、「筆記体」が読めない学生がいるとか…)。英語教育の土台からひっくり返すくらいの気概があってもいいようなものですが、現場の先生方にはとうていそんな余裕はなし。けっきょくあれですね、文科省官僚とか受験産業とか、利害の絡んでくる人たちにとっては英語教育行政はこのまんまでいいんでしょうな。そういえば某月刊誌に「英語より論語を!」なんてとんでもない暴論が掲載されていたけれども、こういう発想は「江戸時代信仰」にも通じるところがある。だれだってその気になればWikileaks の極秘文書をダウンロードできる時代です。事実上の世界共通語である(音楽で言えば楽譜と似た役目をしている)英語を避けて通ることなんてできっこない、ということぐらいは自分のような門外漢にも自明なこと。なんだか問題をすり替えているんじゃないですかね。
以前、韓国における英語熱についてNHKのTVで見たということを書いたことがありますが、英語で言いたいことを言えるようにするというのはやっぱり重要だと思う。もっとも高校英語はすべて英語で教えろ、というのはどう転んでも乱暴かつナンセンスな発想ですが、「英語らしい発想」を身につけさせる端緒をひらく必要はあると思う。もちろんそのためには大量のインプット、受信が必要なんですが、いままでの教室英語ではこの「英語らしい発想」というものが残念ながらあんまり身につかない。これを身につけるためには、「ことばへの気づき」みたいなメソッドも必要になるかと思う。英語の発想は日本語とはまるでちがう。これを意識しないから、「顔が立たない」と言うつもりで'My face doesn't stand.'なんてまるでわけのわからない「英語もどき」をでっちあげたりする人が出てきたりする(ほんとに昔、そういうふうに発言した政治家がいたんです。この場合は'lose face'という言い方を使えば通じる)。べつに完璧な英語の使い手を目指せなんて言ってない。お手本にすべきはなんとかピジンとかクレオールみたいな「非標準英語」ではなくて、英米人も基準とするような英語を手本にして教えるべき、と言いたいのです(ダイナミックに躍動する生きた言語としての英語を知りたい向きには、『英語系諸言語』が参考になる)。
というわけでけっきょく最大の元凶は、大学受験用の英語というものが存在しているからだと思います。…ってこんなことはもうだいぶ前から言われつづけていることなんですけれどもね。
いまひとつは、TOEICがらみでリンクしたおなじブログに、当の斎藤先生が、「明治以来の訳読方式は悪くない」旨の発言をされていたとかという記事がありました。朝日新聞のその記事は見てないからなんとも言えないが、すくなくとも「会話」か「読解」かという二項対立の図式がおかしい。ことばの習得って耳で聞いて覚えて、覚えた言い回しをしゃべって、それから「書きことば」を学習して読めるようになり、自分でも文章を綴れるようになるという過程を踏んでいるはず。たがいに不可分に結びついているおのおのの言語能力をなんでこう、「アジのたたき」よろしくブツ切りにして考えるのか。手許に約30年前に書かれた翻訳学習者向けの本があるんですが、「英会話の重要性」と題して、こんなふうに書かれています。
日本人で日本語の読み書きはできるが、日本語を話したり聞いたりするのは難しいという人はいない。読み書きが本当にできるというのは、必ず話したり聞いたりという会話ができることを基盤にしている。したがって英語の読解力が本物であるためには、どうしても英語の音、つまり英会話の能力があることが大前提であり、音声を無視して、英語の文章の真の理解や鑑賞はあり得ない。英文を読んでいて、音やリズムのうねりや、原著者の息遣いまでが耳に響いてくるようでないとその文章が本当に分かったとは言えない。微妙なニュアンス、原著者の力点の起伏まで正しく読み取れて初めて読めたと言える。
…とにかく小中高校における英語は、「揺るぎない土台を造ってやること」でいいと思う。これは買い物ごっこのような皮相な会話力でもないし、「これは仮主語のitで、ここは強意構文で…」みたいな字面だけをなぞった英文解釈術でもない。大学の先生や現場の先生方に丸投げするのではない、もっと建設的な議論を幅広い層に訴えるときが来ていると思います。自分は中学に入って、例の'This is a pen.'からはじめて学習した口ですが、会話偏重と言われるいまの教科書ってどうなってんのかな?? だいいち「これはペンです」なんて会話、しますかいったい??? 'She is a teacher.'とかもおなじ。これは人間のしゃべることばにさえなってない。こんな例文ばかりに付き合わされていれば、いきおい生徒の英語にたいするattitudeだって血の通わない、「冷たい」ものになってしまうのは必然です。保護者も生徒も、現場の先生ばかりを責めるのはおかしい。その気になればNHKの語学教材はじめ、これだけ豊富にテキストやらリーダーやら音声教材がそろっている国なんてないでしょ? それにいまはWeb だってあるんだし。え? パソコンもってないって?? ケータイくらいもってるんでしょ? ゲームサイトで遊んでばかりいないで、それを有効に使うという手もあると思うぞ(そういえばワタシはスマートフォンしか持ってないから、きのうの「ケータイで挑戦! ニュースで英会話年末スペシャル」には参戦できんかった…。orz orz ちなみにクイズは2問、まちがえた)。「内向き」と評されるいまの学生気質だっておおいに問題ありです。辞書を引くのがめんどう?? 電子辞書は速いよ! ハングリー精神というものは、やっぱりあるていどはあったほうがいい。あれもこれもと身のまわりに溢れかえっているから、かえって無気力に陥るのだと思う。
評価:


↓は、おまけです。息抜きにでもどうぞ(今日20日は、英国の小説家ジェイムズ・ヒルトンの亡くなった日(1954年)で、スペインの作曲家ソレールの亡くなった日(1783年)でもありました。チェンバロ作品の「ファンダンゴ」って、偽作の疑いがあるらしい)。