2011年02月07日

FM放送開始の音楽! 

 この前、たまたま聴いていた小原孝さんの「弾き語り フォーユー」で、たいへん懐かしい一曲(?)が流れてました。NHK-FMを聴きはじめた中高生当時、まだ「深夜便」も放送してなかったころ、早朝の放送開始を告げるオルゴールのメロディーというのがかかってました。…いったいなんの曲だろうと思いつつも歳月は容赦なく流れまして、最近ではとんと忘れていた。いやあ、懐かしいのなんの、小原さんのピアノアレンジを聴いて思い出しましたよ。ところでこの作品、小原さんの解説によりますと熊田為宏という方が作曲したもので、曲名もそのまんま「ラジオ放送開始音楽」。音源としてかかったのは、チェレスタ独奏によるもの。でも当時聴いていたのはもっとテンポがゆっくりしていて、チェレスタというよりやはりオルゴールのような響きだったように思う。左手がメロディ、右手が16分音符進行でからみつく、といった感じ…なんですが、絶対音感もなにもない門外漢が必死に「耳コピ」しても限界がある。でもこれけっこう好きなんです…ずっとおんなじフレーズを、それこそ「無限カノン」のように好きなところで演奏を止められるところがいい(笑)。

 そういえばこんどの祝日は「今日は一日 古楽三昧」だそうで…お休みだったので「気まクラ」の本放送を聴いてましたが、こんどの金曜日がその祝日なので、再放送はないんですよね。その時間は文字どおり古楽三昧…になるので。レオナン師にペロタン師とかもかかるんでしょうね、きっと。トルバドゥールの音楽とかもかかりそうですね。「題名のない音楽会」で聴いた、セルパンとかも出てくるのかな?? 「ノートルダム楽派」なんか、朝早く聴いたら確実に二度寝しそうです(苦笑)。「気まクラ DON」ですが、ええっとたぶんあれでしよ、チェコの生んだ…の「…」ではないかな(伏字失礼)。

 きのうの「サンデー クラシックワイド」。パーヴォ・ヤルヴィ指揮、独カンマーフィルの演奏によるベートーヴェン交響曲3, 6, 7, 8, 9番!! 一度に5曲も聴くなんてなんと贅沢な。個人的に好きな7番ももちろんよかったけれども、「合唱つき」の9番もすばらしい名演だと思いました。

 いつものようにここで脱線。けさの朝刊に、大阪に昨年暮れに開店したという国内最大級の「本屋」さんについて、ここの複合ビルの設計を担当した安藤忠雄氏の寄稿文が掲載されていたんですが、「…次から次へと情報が得られるコンピューターでは、道具に引きずられて心が落ち着く暇がない。本ならば、読み進めていく途中で、立ち止まって考える時間を持てる」というくだりにはおおいに共鳴した(→関連記事)。正月に読んだ『そして、僕はOED を読んだ』にも似たようなことが書いてありました。「コンピュータでの読書は、読書から、時間の感覚も、労力がかかっているという感覚も奪ってしまう。…本がびっしりとつまった図書館や書斎に足を踏み入れた時に感じる、ほっとした感じが全く起こらないと思う」(下線強調は引用者、p.83-4)。落ち着く暇がない、というのはたとえばオンラインでWeb とシームレスにつながっている端末だと読書(新聞記事・雑誌記事の「ななめ読み」ではなくて、熟読・精読のこと)の流れを阻害する誘惑が多すぎると思う。途中で辞書を見たり、調べ物ができたりするのは一見、いいことのように思えるけれども、紙の本のようには集中できないだろうし、理解の深さという点でも紙の本のほうがまさっているようにも思う。そういえばこの前の「情熱大陸」という番組では小説家の道尾秀介氏の「書斎」が大映しにされてまして、液晶モニターに整然と書きかけの原稿が「縦書き」で表示されてはいたけれど(「一太郎」らしい…)、書き上げたあと、かならずプリントアウトして推敲するという。書斎の脇には書庫らしきものもちらりと映ってました。

 PCやスマートフォンなどの端末画面でモノを読む、書く、という行為は「検索」同様、日常的におこなってはいます。さほど違和感もなくなりました。たぶんこれはもともと日本語ワープロ専用機を使っていた、ということもあり、わりと抵抗感はなかったと思う。また前にも書いたことですが、辞書事典のたぐいは、ふつうcover to cover で「読む」ものでもないので、はじめてインターネット接続環境が自宅に整ったとき、オンライン版辞書のたぐいを懸命に探していたりした(ちなみにGoogle の検索窓も、日本語版が登場する前から使っていた)。近年では本作りの現場もPC によるDTP が当たり前になり、ほんらい紙に印刷するための道具だったはずのPC、および携帯型端末という電子媒体のままで本を読む、というのは変化のはげしい、進化のスピードも異常に速いIT 社会では理の必然だったのかもしれない。でもじっさいにそういう電子書籍版を手にとってみて、文庫本から古典まで、「すべて電子ブックリーダー、またはスマートフォンやPC で」読もう! なんて気にはさっぱりなれなかった自分がいた。電子辞書はさほど抵抗はないのに、なんで電子書籍にはいわく言いがたい抵抗を感じるのだろう、と思うのだけれども、現段階ではまだ紙とまったくおんなじ感覚では読めないし、「速さ」ゆえの「雑音(誘惑)の多さ」という理由もある。でも最大の障害は、フォーマットの不統一云々以前の問題にあると思う。音楽の場合はLP からCD へ移行がわりとすんなり(?)進んだと思うけれども、紙の本からバッテリを喰う電子書籍への全面的移行というのは、音楽CD のときみたいにはいかないと思う。紙の本なら「行間を読む」というきわめて重要なプロセスが苦もなく体験できるとは思うけれども、電子ペーパーやLED で光る液晶画面で読む電子書籍で深い読書ができるものなんだろうか? 「デジタル・ネイティヴ」ということばに象徴されるように、こういった「電子書籍」が生まれた時から存在し、それらを使いこなすあたらしい世代が中心になっていくのだろうけれども、そのときはたしてこの国の文化というのはいったいどんな姿になっているのだろうか。NYT にもこんな記事があったけれども、向こうの版元は、子ども向けの本(「ヤングアダルト」も含めて)も電子書籍版が売上げを伸ばしはじめたぞとか、子ども向け本もついに電子書籍への本格的移行がはじまったぞと喜んでいる。はたしてそれでほんとうにいいんだろうか(「ケータイ小説」のように、読者までがしゃしゃり出て物語を書く側に参加したりというのも創作の作法からは逸脱していると思う、そんなワタシは石頭で発想が古いんだろうか。すくなくとも自分の場合、そういうふうに創作された「作品」は読みたいとは思わない)。

 でも電子辞書の場合、うろ覚えの単語とかを引くのは向いてない。紙の『リーダーズ』とかなら、パラパラ適当に繰っていけばああ、これこれなんてふうに見つかったりする。また関連性のない項目も「一覧で」目に入る、というのも紙の辞書の特権。英和辞書の場合、その判型を見れば「ああ、こんだけ英単語が詰まってんだな」ということが感覚的にわかるけれども、電子版ではいったいどこまであるものやら、見当もつかない。本だってそう。電子書籍では読み進めたページ数はわかっても、全体としてこの本がどれだけの分量なのか、という感覚はたぶんつかめない(と思う)。この一覧性というのは、きわめて重要だと考える。マッキベンの本(『ディープ・エコノミー』)にもあったけれども、ラジオは反対意見も公平に流してくれる。それによって否応なしに考えさせてくれる。でもネット上の情報は性質上、きわめて個人的な嗜好にカスタマイズ可能なので、きょくたんな話、自分の見たくないもの、知る必要のない情報を遮断することができる。紙の新聞は、そんなことはない(この点はラジオとおなじ)。ぱらぱらめくるだけでじつに多種多彩な記事・情報が得られる。思いもしなかった意見や考えに出会ったりする。Web も含めてIT はあくまで道具、IT に振り回され、中毒みたいに依存しきっていいわけなんかない。と、「電子媒体」の一角で吠えても形容矛盾みたいなもんだが…。

すこし追記。元旦に連載がはじまったときから読んでいる朝刊小説の『親鸞 激動篇』。この前、こういうくだりがありました。↓

 人はいつかは一人になる。最後に一緒に歩いてくれる相手は、たぶんそれが仏というものかもしれない。
 姿も見えず、かたちもさだかではない仏というもの。
 ふと見ると、恵信の顔にどこからか光がさしてくるように感じられた。さっきまで灯火(ともしび)の影になっていた恵信の顔が、くっきりと明るくかがやいて見える。
 「どうなされました?」
 ただならぬ親鸞の表情に、恵信はおどろいてきいた。
 親鸞は無言のまま、恵信にむかって、そっと手を合わせた。

 …このくだりを読んだとき、ふいに、復活したイエスが出現したその瞬間を描いたレンブラントの「エマオのキリスト」が思い浮かんでしまった(cf. Luke, 24 : 13 - 35)。

posted by Curragh at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM
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