2011年04月24日

復活祭に寄す

 中世の修道院では、復活の主日早朝に十字架とホスチア(聖体)を安置所から会堂へと運びこむための典礼式があり、おそらく成人修道士に混じって見習い兼聖歌隊員でもある少年たちもまた'Surrexit Dominus de sepulchro, Alleluia, ...' とか歌いながら行列をなして聖具を運んでいたのかもしれないなあ、とか思いつつ、けさはラジオ第1で皆川達夫先生の「音楽の泉」を聴いてました。そういえば先週の土曜日の回(こっちはNHK-FM)では、なんと、あの「六段の調」のルーツがグレゴリオ聖歌の「わたしは一なる神を信じる('Credo in unum deum' 、「ニケア信経」)」にあるのではないか、というお説をはじめて聞いてびっくりした。あいにくこの日は親類の法事で、あたふたと着替えながら聴いていたので、くわしくはよくわからないが…とにかく耳に入ってきた「六段」はたしかにグレゴリオ聖歌の「クレド」によく似ている。「六段」はじつは隠れキリシタンの音楽だった?! のかもしれない。

 でも今年のこの時期ほど、精神的にかなりこたえたことはなかったと思う。じわじわ効いてくるボディーブローじゃないけれど … 個人的にはあの巨大地震によって、とうとう「パンドラの箱」が開いてしまった、地殻にかかる歪みの均衡状態が完全に変わってしまった、と思っているので、小心者の自分はいつ「想定外の事態」に見舞われるのかと内心かなりおびえている。いや、そういう人が大半なのかもしれない。そういえば須山に猛獣を放し飼いしているところがあるけれども、言い方ははなはだ悪いながら、故立松和平さんの著作にあった言い方を借りれば、あの野生動物たちはみな「死刑宣告」されているようなものだ。もし猛獣たちが文字どおりrun wild 、なんてことになったら…それこそぞッとする(ちなみに立松さんのこのことばはサンシャイン水族館で飼われていた海獣や魚類について述べたもの)。最近、余震のほうはすこしは落ち着いてきたような気もしますが、突発的な大きな地震(誘発地震)にはひきつづき厳重な警戒が必要です。とはいえ一日24時間ずっと張り詰めているなんてことはできっこないから、けっきょく音楽へと逃避するエピキュリアンな生活へともどってしまう。

 法事から帰宅した夜、例の「白熱」教授が今回の震災について、またいつもの調子で議論参加者をリードしていたのでつい見てました。…議論を聞きながら、ふとcompassion という単語が頭に浮かんだ。おなじことの二番煎じで申し訳ないが、このことばは「ともに苦しむ」というラテン語が原義。「わたしたちも被災した方の気持ちに寄り添うことができる」、「いや、そんなことはありえない」とか、そんなやりとりが交わされていた。いまはインターネットで瞬時にして地球の反対側の人間どうしがたがいに安否確認できたりする、ある意味たいへん恵まれた時代。こうした議論を地球の裏側にいる人を相手にして同時に行えるというのはたしかにすごいことだ。でも同時に、われわれはまたあまりに複雑すぎて暴走してしまった原発という厄介者も抱えこんでいる。「トイレのないマンション」とは昔からよく言われることながら、けだし至言で、これほど的を射た言い方を知らない。現場ではいまも決死の思いで放射性物質の飛散・流出を食い止めようとおおぜいの名もなき人々が立ち向かっている。いっぽうで、当の電力会社のトップたちや「計画的避難区域」とかをやおら発表した官房長官や首相のあのおざなりな態度、木で鼻を括ったような、なんの人間的感情も伴わないあのボー読みはいったいなんなのかと怒りがこみあげてくる。

 とはいえ、いままで危ない原発でこさえた電力を使ってきたのはこのわたしたちであることも事実。もっとも東海地震震源直上の浜岡原発にかぎっていえば、いますぐ「冷温停止」すべき。中電は「12m 以上の高さの防潮堤を建設する」から大丈夫、とか言っているそうですが、いみじくも矢作恒雄氏が先日の地元紙コラムにて指摘していたように、「『(浜岡原発防波堤の高さを12m 以上とする根拠を)住民が安心する高さ』と平然と言う人々に処理を任せれば、必ず『人災』を繰り返す」。正論だと思いました。それと原発というのはけっしてコストは安上がりではない。膨大な量の核廃棄物(使用済み核燃料など)の後処理だけでも膨大な金額がかかる。前にも書いたかもしれないけれど、40年くらい前から研究が進められている地熱発電をどうしてもっと普及させないのか。アイルランドやスコットランドの実例を引いたことがあったけれども、波力・潮力発電ももっと推進していいと思う。また送電網をもっとこまかな地区別に再編すれば「大停電」に陥ることもないとは思うが … この件についてはここでも取り上げた、マッキベンの本に実例が報告されている(邦訳:『ディープ・エコノミー』)。

 このことに関してさっそく県知事が「6号機増設は認めない」と発言したら、なんと地元の一部首長さんとか有力者が「それはいかがなものか」と苦言を呈しているとか、日曜版に載ってまして、この期に及んでこの人たちは気はたしかか、と疑った。心配されている三連動型が起きたら、また「想定外」って言って逃げるんですかね? 万が一、浜岡原発で放射性物質が撒き散らされるようなことが起きれば、西風に乗ってみんな西伊豆に飛んで来る(そして首都圏にも。富士山宝永噴火を記録した、『折たく柴の記』を読むべし)。福島県民を悲しませている風評被害の二の舞、三の舞です。伊豆半島にはもうだれも来なくなる。いまだって、観光客がぱったりでどこも深刻な状態に陥っています。げんに、週末で一本道の国道(136号)があんなにすいているとは、ありえない話ではある。もっとありえないのは、静岡県産の「新茶」まで風評被害が出ていること。とくに北米輸出向けのお茶の出荷ができなくなっているという事実には正直、おどろきました … 市場に出回っているのは、摂取しても安全だと思うんですがね。

 サンデル教授もいいとは思うけれども、いままで自分のものの考え方に決定的に影響をおよぼしたのはやはり比較神話学者のジョーゼフ・キャンベルだろう。先月26日の誕生日には同財団のFB ページから著書からの抜粋が送信されてきたけれども、こういうときだからこそ、キャンベルの思想に触れるのはあながち無駄でもないと思う(もちろん、バッハの音楽もね。こういうときこそ、バッハのオルガンコラールは深く深く心に染み渡って響く。「ゴルトベルク」もいいと思う)。ずっと放置してきた Myths to live by も、まじめに完読しようと心に誓ったのであった(苦笑)。というわけで、対談集『神話の力』から、心に響く数節を引いて終わります。

… 私たちは死を理解できません。死を静かに受容することを学ぶだけです。

… 神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前にあるとよく言われますが、うまい表現だと思います。究極のものは言葉にはできない、だから一歩手前なんです。

… 芝生のことを考えてください。…芝が、「頼むからよく考えてくれ。あんたがこうしょっちゅう刈り取られたとしたら、どうなると思う」と言ったとしても不思議ではない。でも、芝はそんなことを言わずに、ひたすら伸びつづけようとする。ここに私は中心のエネルギーを感じます。… 根源はいったん生命体として存在したからには、なにが起ころうがかまいません。肝心なのは、与えること、成ることです。そしてそれがあなたの内にある<成りて成る生命> であり、神話のすべてはその大事さをあなたに告げようとしているのです。

… 私は生に目的があるとは信じません。生とは自己増殖と生存持続の強い欲求を持った多くのプロトプラズムにほかなりません。… しかし、あらゆる生命体はある潜在能力を持っており、生の使命はその潜在能力を生きることだ、とは言えるかもしれません。

posted by Curragh at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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