先週の日曜朝に放映されましたこちらの番組。ここでも過日、すこしばかし触れた、「六段の調」はなんとグレゴリオ聖歌の「ニケア信経('Credo')」だった?! という衝撃的な説を発表した音楽学者の皆川達夫先生みずからご出演、とあっては見ない手はない。
箏曲の「六段」序奏部分、よく「テン、トン、シャーン … 」と表現されたりしますが、グレゴリオ聖歌の「クレド第1番」といっしょに演奏すると … むむむ偶然の一致にしてはできすぎている。たしか音楽の教科書では八橋検校作だと書いてあったような気が … でもじっさいのところ、これは作者不詳の謎だらけの作品らしい。たしかに「琴歌」がないのも、やや不自然ではありますね(当時、箏だけの独奏曲というのはあんまりない)。
皆川先生によると、「六段」成立とちょうどおなじ16世紀、イベリア半島にてはじまったとされる変奏曲の一形式「ディフェレンシアス(diferencias, 「さまざまに変化する」の意)」とよく似ているという。当方、ディフェレンシアスとくると、なんとかのひとつ覚えでつい盲目のオルガニストにして作曲家のアントニオ・デ・カベソンという連想が働くのですが、そうかあ、ディフェレンシアスかぁ、それは意表を突かれました。と、あわてて「名器の響き 鍵盤楽器の歴史的名器」というエラートから出ているアルバムを取り出して「『ラス・ヴァカス』によるディフェレンシアス(Diferencias sobre las Vacas )」を聴いてみる … カベソンのオルガン用・クラヴィコードなどの有弦鍵盤楽器用「ディフェレンシアス」では3つ・5つ・6つの変奏形式があるみたいですが、このクラヴィコードで演奏されているタブラチュア譜は6つの変奏からなってました。
「六段」と「クレド」の関係もたいへん興味深いのですが、ザビエル来日が1549年8月15日(聖母被昇天の祝日)、「天正遣欧少年使節」がローマへ派遣されたのが1582年なので、西洋音楽史では盛期ルネサンスから後期ルネサンス時代ということになる。少年使節団は帰国後、太閤秀吉の御前で、番組でも紹介されたジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」というモテットを歌ったんだそうです。デ・プレですよ! これを子どもたちが歌うというのはたいへんなもんです。もっともイエズス会士たちも加わっての演奏だったとは思うけれども … 。
皆川先生で思い出すのは「長崎オラショ(歌オラショ)」の研究。生月(いきつき)島で伝承されている「歌オラショ」は先生によると、16世紀スペインの大作曲家トマス・ルイス・デ・ヴィクトリアなどが使用した、当時イベリア半島で流布していたタイプの「グレゴリオ聖歌」が原型だと特定しています。たとえば「ぐるりよざ」は、スペインの地方聖歌のひとつO Gloriosa が原曲だという。* また手許の本にある当時の「キリシタン音楽」の記述もたいへん興味を惹かれる。1552年、すでに山口において「歌ミサ」があげられ、「カント・ドルガーノ」、「オルガンの歌」すなわち「多声音楽」が演奏され、しかも「行列聖歌」には本場同様、子どもたちによる聖歌隊が行進しながら歌っていた … というからおどろく。ちなみにザビエルが山口の守護大名宛てに献上した楽器は「クラヴィコルディオ」、クラヴィコードだったらしい。このころ宣教師たちは各地に欧州式初等神学校の「セミナリヨ」を建て、そこに通う子どもたちに音楽、いや「洋楽」をも教えていた。1581年、織田信長は完成まもない安土セミナリヨで高度な音楽教育を受けた少年たちによる「クラヴォ」とヴィオールの演奏を聴いたとある。またオルガンやヴィオール、「クラヴォ」のほかに「シャルマイ」、「フラウタ」などの管楽器も演奏された。われわれが想像する以上に豊かな西洋音楽が西日本を中心に鳴り響いていたのかもしれない … もっともほんのいっときだけだったけれども。ちなみに「シャルマイ」は日本では「夜鳴きそば(チャルメラ)」の代名詞となり、発祥の地の欧州では音程が不安定かつ音域も狭い「セルパン」同様、すたれる運命をたどり、いまやオルガンのストップ名(リード管)として残るのみ。
これら「キリシタン音楽」の例が教えてくれるのは、よその国の文化・芸術というものは、あんがい、まったく思いもつかない国や地域で、昔のままの姿で残存していたりする、ということ。皆川先生が発見した16世紀イベリア半島の地方聖歌の話だってそう。「歌オラショ」の録音テープを持参して当地の権威に聴かせたら、「これはひじょうに古いグレゴリオ聖歌だ! 信じられん!!」と驚愕されていたそうです。
…というわけで、いま個人的に関心があるのが、以前ここでも触れた「対位法」と中世アイルランドの音楽との関係。あいにく突っこんで論じた本なり論文なりはまだ見かけたことはなし。これ、西洋音楽史を勉強している若い学生さんたちのなかでだれか取り組んでくれないかしらとひそかに(?)切望しているところでもある … 対位法、またはポリフォニーって、たいてい単旋律聖歌(グレゴリオ聖歌)に2声、3声と即興的に対旋律をつけて歌い出したのがそもそものはじまりで、発祥の地はたぶん北フランスかフランドル地方で、それがルネサンス時代になると、バンショワやジョスカン・デ・プレ、ギヨーム・デュファイ、ハインリッヒ・イザークらが登場して「通模倣」形式のモテットとかが作曲され … みたいな流れがいわば定説で、どこを突っついてもアイルランドとか英国とかは出てこない。でも「百年戦争」によってジョン・ダンスタブルなんかの甘美な響きの「3度・6度」を多用するいわゆるEnglish Descant が大陸に伝わってあたらしいスタイルを生み出したりしたわけだし(そのような英国ならではの多声音楽の作品が、たとえば14世紀後半に編纂された『オールド・ホール写本』なんかに出てくる)、ギラルドゥス・カンブレンシスの『アイルランド地誌』にさりげなく出てくる多声音楽の記述は、完全に無視していいわけではないと思う。西洋音楽の源流は、意外にも「周縁」にあるのかもしれませんぞ。
* … 笠原潔『西洋音楽の歴史』 2001年、財団法人放送大学教育振興会、pp. 149 - 179。なお番組中出てきた「ヴィオラ・ダルコ(「弓で弾く弦楽器」の意)」は、ようするにヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオール)属の楽器で、たしかに「六弦」なんですが、当時のキリシタン音楽において使用されたのがいわゆる「股にはさむ」ヴィオール属なのか、それとも「肩で支える」タイプの楽器(ヴィオラ・ポンポーサみたいな弦楽器)だったかはわからないという。
2011年06月05日
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