2011年07月24日

やっぱりわれら Epigonen ? 

 けさ、NHK-FM の「古楽の楽しみ」をいつものように寝ながら聴いて (けさはオケヘムの「レクイエム」だった) 、そのあとラジオ第1 の「音楽の泉」を聴きまして、またFM にもどって「名演奏ライブラリー」でシュヴァルツコプフのソプラノを聴いて、… そのあと何気なくTV をつけたら「地上アナログ波放送停止まだあと◯分」とかいう表示が。ああそうか、今日のお昼に地上波アナログ放送は停止するんだったと思い出した。

 NHK だけでなく、民放各局も「アナログ放送停止・デジタル放送完全移行」ということでなにやらお祭りめいた番組を組んで放映してましたが … またしてもマイルス・デイヴィスじゃないけど、So What? っていうのが正直なところ。

 以前、地元紙の読者投稿欄にて、某通信事業者社長の唱える「光の道」について、たいへん鋭い指摘が載ってました。光の道そのものに中身はない、問題なのは光の道というインフラにどんな中身、いま流行りのことばで書けばどんなコンテンツを流すかなんじゃないのか、という趣旨のものでした。今回の「地上波放送完全デジタル化」もそう。だって中身はアナログ放送のときとまったくおんなじでしょ? たしかに「電子番組表」とか「データ放送」は便利だ。でもアナログのときと変わらない放送内容を補完しているにすぎない。もっともGoogle TV とか、Apple TV みたいなことにでもなれば、それはそれでおもしろい流れになってくるとは思うが … うちのTV 受像機にも「アクトビラ」という機能はついているけれども、どうせネット回線につなぐんなら YouTube のほうがまだましかと … 家電量販店にてじっさいにアクトビラというものを見たことがありますが、… なんか使い勝手が悪そう。

 地上波アナログ放送が終わる、というのはたんに一つの電波帯に空きができるだけの話で、なにも目新しいことがはじまるわけでもなんでもない。そのじつ「アナログ」から「デジタル」へと一本化することで、われわれ視聴者から情報獲得手段をひとつ減らしたにすぎない。個人的にはNHK-FM はとりあえず残ったから、それだけはよかったけれども。

 … で、そういった茶番じみた「特番」では「近未来のTV」みたいなものも紹介されてましたが、え? メガネなしでも楽しめる3D 画面? 登場人物の背格好を自由にいじれる?? それのどこが革新的なの??? そんなことよりアナログ波より依然として「遅い」デジタル放送の問題はなにも解決されてないじゃないですか。

 いままで生きてきたなかでまさしく革新的だとはじめて思えたのは、やはり World Wide Web 、インターネットの登場だった。たしかに日本のハイテク技術はすぐれている。モノづくりの水準はいまだに世界一だと思う。でも自由で豊かな発想力という点にかけては残念ながら欧米にはおよばないと思っている。いつのまにか、欧米発の「発明」が事実上の世界標準になっている ―― PC だってそうだし、iPhone 以後のスマートフォンだってそう。「アシモ」とか、日本のロボット技術も目を見張るものがある。でも原発事故が発生したとき、まっさきに現場へ投入されたのは米国の産業ロボットだった。そのときはほんとうに意外で、まさかそういう用途のロボットの用意がないとは思ってもみなかった。NEC 製のロボットだったか、丸っこくてかわいい子守り用みたいなロボットも必要だとは思うが、いくら原発を持っている電力会社側がそんなもん必要ないとつっぱねても、万が一の時のためのロボットの用意がなかったことはこの国のモノづくりにおける発想の限界が露呈しているようにも思える。ようするに平和ボケなんじゃないかということです。最悪の事態の想定さえしていない。よく「安全神話の崩壊」みたいな言い方を聞きますが、なんのことはない、考えてこなかっただけのこと。発想力ないしは独創性については、この前この番組に出ていた MIT の先生が指摘していたようなことが当てはまると思う。土台となるハードウェア技術はピカ一だけれども、その上に乗る応用、アプリケーションの段階でつまづいていると思うし、さらにその上にくる「ヴィジョン」とくると、それすらもあるのかと疑問に感じてしまう。自分もいまや人並みに (?) スマートフォン(初代 HTC Desire) をもってるけれども、そもそも「ガラケー (英語で言えば、feature phones) 」さえもってなかった。「おサイフ」、「ワンセグ」、「赤外線通信」 … あれば便利な機能かもしれないけれど、PC みたいに好みのアプリを入れて自由にカスタマイズできるスマートフォンのほうが断然好き。語学関係を強化した仕様にしているので、電話と Web 閲覧機能つきの電子辞書みたいなおもむきになりつつある。

 平和ボケだといっても、なにも戦争を正当化するわけではない (「正義のための戦争」なんてない) 。ふたつの世界大戦にはさまれたひじょうに暗い時期にシュヴァイツァーが書いた『文化の頽廃と再建』という著作を図書館から借りてきていま読んでるんですが、批判的に読まなければいけない点はべつにしても、90 年近く前に書かれた警告が、いまだに有効だということを再確認しています。「文化は没落しかけている」ではじまるこの論考は、1899 年というからいまから112年前、ベルリンのとある会合の席でだれかが発した、「なんたることだ! われらはみな Epigonen にすぎんじゃないか!」という叫びにおおいに衝撃を受けた若きシュヴァイツァーが、1923 年にようやくひとつの結論として発表したもの。この論考につづく第二部が、有名な「生命への畏敬」を主張した『文化と倫理』(同年出版) 。

「物質的な自由と精神的な自由とは、きんみつに結びついている。文化は自由な人びとを前提としているのであって、自由な人びとだけが文化を考え実現することができる。近代人にあっては、自由も思考能力も低下してしまっている」

「 … 不自由の次に過労がある。三、四世代以来、非常に多くの人びとがもはや働く人としてだけ生きていて、人間としては生きていない。 … 近代人は、どんな社会圏にあっても、通例多忙すぎる結果、その精神面が萎縮してきている。間接的には、すでに子供のときに、その被害をうける。両親がはげしい勤労生活にかまけて、ちゃんと子供の面倒をみてやれないために、子供の精神的発達にとってかけがえのないものが欠けてしまうのである。あとになると、自分自身が多忙の身になるので、だんだん外面的ななぐさみを要求してくる。自分自身に思いをひそめたり、真剣になって人間や書物ととりくんだりして余暇を過ごすためには、精神の集中が必要であって、これが近代人には容易でないのである。全然なにもしないでいること、自分自身から目をそらすこと、忘れること、これが近代人にとっては生理的な欲求である。近代人は考えない人としてふるまおうとする。教養をもとめず、娯楽をもとめる。しかも、あまり頭をつかわずにすむような娯楽をもとめる」

「精神の集中していない、または集中する能力のない、こうした多くの人びとの心理状態は、逆に、教養のためをはかり、それとともに文化のためをはかるべき機関に影響をおよぼす。劇場は娯楽場や見世物小屋のために押しのけられ、まともな書物は雑本のために駆逐される。雑誌や新聞は、だんだん事態に順応して、すべての記事をごくわかりやすい形でしか読者に提供しなくなってくる。 … 」

 シュヴァイツァー博士が90 年の生涯を閉じたのは1965 年のこと。あの当時はいまよりはるかに核戦争の危機が叫ばれていた時代だった。当時の英米文学作品なんかを読めば、そういう時代背景をつよく感じさせるものが多い。博士がいまの世界、または日本を見たら、どう思うのだろうかとつい考えてしまう、今日このごろ。あ、それともうひとつだけ。某家電量販店の折込チラシにてガイガーカウンター (GM計数管) が5万円くらいで売っているのを知ったけれども、あれは基本的に「空間線量」を計測する機器ではないし、素人にはたぶんむり。放射線関係の機器は、身近な「X 線」もふくめて、取り扱いは意外とむつかしいのです。空間線量を計測したければ、ウン十万円もする「シンチレーションカウンター」を使わなければ、正確な数字は出ません。いずれにせよはやく原発事故が収束することを願う (Amazon でもロシア製だの、多数の「線量計」が売られているのを知って、唖然とした。「正しい測定法」については、こちらの漫画が参考になる) 。第五福竜丸事件のときもマイクみたいなGM 計数管をビニールで覆って被爆したマグロとか測っていた写真を見たことがありますが、いまもやり方じたいは当時とあまり変わりないんですね。

posted by Curragh at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから
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