2011年08月07日

66 年目の原爆忌に思うこと

 今日7 日は、ノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダール乗船のバルサ材の筏「コン・ティキ号」がペルー出航後102 日目にしてポリネシアのラロイア環礁に乗り上げ、実験航海を終えた日 (→お孫さんによるおなじバルサ筏「タンガロア」号の航海については関連拙記事) 。

 若きヘイエルダールがコン・ティキ号による漂流実験をおこなったのは 1947 年。広島・長崎に人類初の原子爆弾が投下されてまだ 2 年しか経っていなかったころのこと。そしてほどなくして南太平洋一帯では数多くの「大気圏内核実験」が繰り返され、それにともなう大量の fallout が世界中に降り注ぐことになる(「部分的核実験禁止条約」が発効したのはケネディ大統領のとき、1963 年10 月)。

 きのう 6 日は 66 回目の広島原爆忌で、平和記念式典のもようを TV とラジオで視聴していたんですが、今年はあろうことか唯一の被爆国のわが国で深刻な原発事故まで発生してしまった。きっかけを作ったのは戦争ではなくて巨大地震と巨大津波という千年に一回の自然現象だったとはいえ、「地震の巣」、「活断層の巣」の直上で日々、稼働する原発がいったん暴走するといったいどういうことになるのか、ということを嫌というほど思い知らされた。加えて、いわゆる「原子力村」というものや、安全保安院や委員会の言っていることがいかにいいかげんなものかということもよくわかった。広島市長はけっきょく、「平和宣言」では原発問題についてあまり踏みこんだ発言は盛りこまなかったけれども、「核と人類は共存できない」という故森瀧市郎氏のことばの引用に、被爆地の思いをこめたのだと思う。

 いまだに収束の見えない福島の事故ですが、地元紙にはこれに関連した連載記事で、かつて浜岡原発で働いていたという元作業員の方の話が取り上げられていた。市長と市民の討論会で、この元作業員の方はこう発言したという。「原子炉建屋内部には毛細血管のように配管が複雑に張り巡らされていて、とても地震動に耐えられるとは思えない」。またべつのコラムでは、 40 年ほど前に浜岡原発設置の事前調査として周辺の砂丘を調べた方が、「昨年、久しぶりの現地を見て、当時を想像できない規模の砂丘侵食に驚かされた」と率直に書いている。2007 年の中越沖地震のときに柏崎刈羽原発で火災が発生したとき、チェルノブイリ事故以来 radiation というものに敏感になった欧米メディアがいっせいに報じたことはいまだ記憶に生々しいけれども、そのときも人為ミスがあったり手ちがいがあったりで混乱があった。けっきょく「本番」ではそのときの教訓は生かされなかった。聞き飽きた感のある「想定外」ということばだけがひとり歩きしていた。

 浜岡をはじめ、多くの原発が停止状態になっているとはいえ、54基もある原子炉によって電気が作られつづけ、いままでそれを利用していたのも事実。いますべてが停止したらそれこそ予想のつかない大停電を引き起こすかもしれない。とはいえやはりことここに至っては、やはり「核と人類は共存できない」と言わざるをえない。地元紙の「論壇」という識者論説委員によるコラムでは、たとえばいままで培ってきた高い原発開発技術をチャラにするというのは愚かだ、むしろこの事故をバネにさらに安全性を高めた原発技術を世界に売りこむ必要がある、みたいな主張をする人がいる。どんなに原発の安全性能を高めたところで、些細な「人為ミス」だけでもあらぬ方向へと暴走するおそれがあるかぎり、このような楽観論を容認するわけにはいかない。半減期が半永久的なプルトニウムによって広範囲が汚染されたらいったいどこのだれに責任が取れるのか。今回の事故だって、とてもじゃないけど当事者の東電だけで賠償ができるものじゃない。万が一、また大地震が(ついこの前も、波勝崎沖駿河湾を震源とするM 6.1 の突発地震が起きているし)国そのものが倒れかねない。

 社会学者の大澤真幸氏が地元紙に寄稿していたように、原発というのは自然環境の循環から突出した、持続不可能な「資本主義」そのもの、もっと言えば、効率原理主義を体現した存在だと思う。でも今回のような大事故を起こせばその経済的・人的・物質的損害は計り知れず、「効率のよい」発電システムだとはとうてい思えない。よく言われる発電コストの安さなんてのもまやかしだろう。原子力関係の専門家先生なんぞにお伺いたてなくても、市井の人のほうが事の本質をずばり突いていたりする。地元紙読者の声欄で先日も富士市の主婦の方が「原発は割安か 明快に説明を」と題する投稿でおなじ疑問を述べ、「原発立地自治体に対する補助金、もんじゅの研究開発費用、その他電気料金としてではなく、税金から支出している原発関係の費用は、今まで一体どれくらいになるのでしょうか。国民から見れば名目が異なるだけで、家計から原発に支払っていることには全く変わりがありません」と書いてますよ。

 またやはり地元紙に掲載されたレスター・ブラウン博士のコメントでもしごく当然なことが指摘されている。「原発事故はいつ起こるか予測できず、一度発生すると、大量の電力が一度に失われる。これが今回の教訓だ。だが、分散型の再生可能エネルギーにはその心配もない」。

 「日本政府は原子力の研究開発には年間 23 億ドルの投資をしているのに風力には同 1 千万ドル、地熱の研究開発ヘの投資はほとんどゼロだ。原子力のための資金を再生可能エネルギーに回せば、多くのことができる」ともブラウン博士はつづけている。でも残念ながらいまは過去に培ってきた原発技術はどうするのかという発想から逃れられない学者や技術者も少なくないし、マッキベンの本(Deep Economy)の読後感にも書いたように「分散型発電」のほうがじつは効率がよくてリスクも少ないとする発想もいまだに浸透していない。いっぽうで過剰なまでの放射能アレルギーが吹き荒れ、放射性物質不検出だというのに津波で流された「高田松原」の松から作った薪が急遽、京都の五山送り火で使用できない事態になっている。震災と津波被害だけだったら ―― これだけでもとんでもないことだが ―― 文字どおり「がんばろう!」と一致団結できたかもしれないが、たった一箇所の原発事故によって残念ながら国民の意識はバラバラに引き裂かれていると感じる。この期におよんでもなお、原発に依存しつづけるのがよいというのだろうか? ちなみに「脱原発依存」を最初に言い出したのは、わが静岡県の知事であります、念のため。

posted by Curragh at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近のニュースから
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