2011年09月04日

Web 翻訳だって (絶句)

 昨晩、ものは試しと「名曲リサイタル」を「らじる★らじる」で聴取してみました。 … 思っていたよりなかなか使い勝手もいいし、なにしろあのホワイトノイズがないのがいい。もっともFlash ファイルに埋めこんだ mp3 かなんかの「圧縮音源」のはずだから、じっさいには FM 波のほうが音質としてはいいのかもしれない。でも人間の耳にはその差はほとんどゼロに近い (? 、音質がややフラットな気がするのは気のせいか) 。いずれにせよ難聴取地域にお住まいの方にとって、これは天恵といえるかもしれない。げんに巷の評判はすこぶるいいみたいです。 BBC Radio Online の iPlayer に慣れている人間としては、やっと NHK-FM も … という感覚のほうがつよいのですが、来月からはなんとスマートフォンでも聴けるみたいなので、これは楽しみ。さすがのBBC Radio もスマートフォンでは聴取できないですし。しかしなんだかな、つい数年前、 2011年 には NHK-FM は廃止するだのトンデモ暴論が飛び出してきたものですが、その 2011 年にわれわれ聴取者に選択肢が増えたとは、なんとも皮肉な展開ではあります。ちなみにワタシは、「らじる」をノートブックの音質の悪いスピーカではなく、USB 接続の FM トランスミッタで足許のラジカセに飛ばして聴いております(BBC Radio3 の Choral Evensong もそうやって聴取している)。

 いまひとつ巷で話題になっている (?) のは、こちらの邦訳本。この本のことをはじめて知ったのは、立ち読みした先週号の『週刊アスキー』の記事でした。

 一読者として勝手なことを言わせていただきますと、大気には酸素も窒素も含まれているがごとく、昔から翻訳には誤訳がつきもの。人間の仕事なので、完全無欠な翻訳というのはそうめったにありません (とくに一般教養書や人文科学系は。まれに文学系でも「これは?」という邦訳本はあります) 。一文まるまる訳抜けしたり、black とあるのにいつのまにか brown に化けていたり。固有名詞の表記だって裏をとるのはたいへんですし。でもこの本の場合はそういう次元の「欠陥翻訳」でさえない。なんでそんなに急くのか? なんで上下巻同時でなければならないのか?? 

 版権の期限が … なんて弁解してますが、「修正版」を出すくらいなら多少時間がかかってもはじめからまともな訳本を出せばいいだけの話。でもほんらいならばこんな本、絶版回収でケリをつけるべきもの。版元の「詫び状」は、ことばこそ平身低頭ながら、あっさり「修正版」と交換しますなんて、よくもまあぬけぬけと。読者をコケにしている。それだったらほかのもっとマシな、この手の翻訳書に明るい版元から刊行してもらったほうがいいんじゃないかと。たいていこの手の翻訳本って、ウン千円もして高いですし (おまけにこの「下巻」って 500 ページ近い大著) 。

 それにしても … 山岡先生の訃報を聞いたばかりだというのに、よもやこんなわけのわからん「悲喜劇」が起きていようとは、それこそ「想定外」でした。

 いったいどこのだれが Web 翻訳という「機械翻訳 (いや、「クラウド」翻訳かしら? ) 」に放りこんだ「文字の羅列」にすぎない「訳文」を印刷に回そうなんて血迷ったこと思いついたかについては問わない。ただ今回の事例は、ますます手抜きがまかり通る世の中になりつつあるのではないかという危惧の念をいっそう強めたのであった。たとえば昨今、名のある全国紙の社説やコラムがしばしば剽窃されたとか剽窃してしまいましたとかって報道されてますよね。また大震災発生直前、はからずもここで「なにかがおかしい」と京大カンペ事件のこととかも書きました。たしかに昔も「絶版回収」の憂き目にあった不運な、ほんとに不運としか言いようのない翻訳書は何冊かありました。でも思うに、健全な批判精神で「欠陥翻訳」を指弾できる、たとえば急逝された山岡先生みたいな「おっかない波平さん」みたいなご意見番が睨みを効かせなくなっているのをいいことに、いやただたんに怖いもの知らずなのか、その両方かは知りませんが、この手のあまりに非常識かつ度を超えた「やっつけ仕事」、「手抜き仕事」には、人さまの書いた文章の盗用やケータイを悪用したカンニング行為とかと通底する mentality を感じますね。われわれ読者の「蒙を啓く」のが社会的使命のはずの出版社、ひろい括りでは新聞社などの報道機関も含まれるけれども、そういう仕事に携わる人からしてこのざまでは … 。

 いまひとつ思うのは、監訳者はいったいなにをしていたのか、ということ。そんなに時間がないのなら、引き受けなければいいのに。文芸ものはともかく、この手の「ノンフィクション」読み物というのはえてして翻訳専業の人ではなくて、その本が扱っている分野のいわゆる専門家が翻訳するケースが多い。できがよければ万々歳ですが、よろしくない場合がけっこうあったりする。先日書いた記事でも触れたけれども、たとえば大学のエライ先生がゼミの院生とかに下訳を依頼するケース。改訳版が出る以前のエーリッヒ・フロムの『愛するということ』なんかがそう。'He saw a film.' が「フィルムを見つめた (???) 」になっていたとか (もちろん映画を見たということ)。

 でも今回のケースは明らかにちがう。だって翻訳という作業そのものを投げちゃってるんだし。よくそれで麗々しく名前出せますねと問いたい。そもそもこの邦訳チームには、原著者にたいする敬意というか原本にたいする思い入れとか愛とか、なにもなかったんだろうか? 口じゃ「本書の原書は名著です」なんて言っておきながら、その原本および原著者を裏切ったのが、ほかならぬ自分たちだということに思いを致さなかったんでしょうか?? 

 かつて「翻訳は男子一生の仕事」と豪語されていた高名な仏文学の翻訳家先生がいました。申し訳ないけど、このアインシュタイン本を担当された訳者ならびに編集者チームにいくらその金言を言って聞かせたところで、なんとかの耳に … で終わってしまうかもしれない。

 ちなみに Web 上の機械翻訳ですが、ドラえもんの「ほんやくコンニャク」ならいざ知らず、概して使いものにはならない。訳し漏れはさすがにゼロだけど、こんなんだったらはじめから自分でこさえたほうが楽だとか思ったり。仏文 → 英文という変換は、意外と使えるけれども、英日とか日英となるともうとたんに怪しくなる。試しにある Web 翻訳を使ったら、Dr Zahi Hawass が「ザヒ 家 博士」となっていて、倒れた (笑) 。

 … いま、届いたばかりのウェンデル・ベリーの古典的エッセイ集 The Unsettling of America を読みはじめたところなんですが、貪欲かつ「省力化・効率化」一辺倒な商業主義が農と食、ひいては米国社会そのものを破壊しかねないと 30 年以上も前に警告した表題作には、こんな一節がありました。

We have taken the irreplaceable energies and materials of the world and turned them into jimcrack "labor - saving devices."

貴重な資源から製本した書籍をまたぞろ金かけて回収するくらいなら、一発で消せる電子書籍版のほうがよかったかもね。デジタルデータの利点でもあり欠点でもあるのは、まさにこの「消去しやすさ」にあるのだから。

 … 今日 4日は、シュヴァイツァー博士の 46 回目の命日でありました。

posted by Curragh at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学関連
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