2011年09月26日

彼岸の明けに旅立ったマータイさん

 お彼岸明けの今日26日、ノーベル平和賞を受けたケニアの環境保護活動家ワンガリ・マータイさんが逝去されたとの報を聞いておどろいています。くわしくはわかりませんが、癌で入院していたらしい。享年71歳。まだまだ「向こう岸」へ旅立たれるお歳ではないですよね … 。「もったいない」というすばらしい日本語を世界規模で普及させてくれた大恩人でもある。返す返すも残念だ。

 お彼岸ということで、台風のために延び延びになっていた墓参にようやく行ってきまして、祖母、父、親戚の伯母、曽祖父などまとめて参ってきて、日ごろの無精を詫びたしだい ( 台風による倒木とかも見かけた ) 。もっともこれは墓参りに行った本人の気持ちの問題かもしれないが … 。そしてお世話になっていますお寺さんに布施を渡して、代わりに『円覚 秋ひがん号』という小冊子をもらう ( ここのお寺は円覚寺派の禅寺なので、「般若心経」なのです ) 。ぱっと表紙を開くと、円覚寺管長さん直筆の書が掲載されてまして、「今日好風」とある。? と思って管長さんによる同名記事を読みますと、こうありました。


 巻頭の色紙は「今日好風」 こんにちこうふうと読みます。難しい言葉ではありません。「今日はよい風だ」という意味です。中国の唐の時代に趙州 ( じょうしゅう ) 和尚という方がいらっしゃいました。我々の宗祖臨済禅師と時を同じくして活躍された禅僧です。その方の語録を読んでいて見つけた語です。
 … 趙州和尚にある僧が、「迷いと悟りその二つにとらわれないとは、どういう心境ですか」と問うと、趙州和尚はサラリと「今日好風、今日はよい風だね」と答えました。何ともさわやかな答えです。


 「この迷いの此岸から悟りの彼岸へと向けて努力しましょうという期間が本来のお彼岸の意味です」とも書いてありました。またべつの住職の方が書かれた記事では、日本における「お彼岸」行事のそもそものはじまりが崇道天皇の霊を鎮めるためだったということもはじめて知った。

 比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの Myths to live by にも、またつい最近手に入れた A Joseph Campbell Companion ― Reflections on the Art of Living という語録ハンドブックみたいな本にも「彼岸」について出てきます。日本人のくせにこういう仏教関係の話にはとんと疎いので、円覚寺派管長さんの記事とか、キャンベルの文章からはいろいろと教えられることが多い。キャンベルは「彼岸」イコール Nirvana 、涅槃つまり悟りの地とし、その「向こう岸」へ渡る「舟」に乗船するには「この世 ( 此岸 ) 」でのありとあらゆる所有物いっさいを捨てるという条件があり、また二度ともどれない片道切符の船旅になぞらえている。しかもこの舟にはたったひとりしか乗船できない。これはいわゆる初期の仏教教団の教え「上座部 ( 小乗 ) 仏教 ( Hīnayāna ) 」のことで、言ってみれば選ばれし少数の人の乗る舟。たいしていまここ、この「涙の谷」にほかならないこの場所こそ、ありとあらゆるものがじつはひとつの存在にほかならない場所、つまり Nirvana だという「覚醒」が衆生にとって救いになるという発想がチベット経由で日本へ伝わったのが「大乗仏教 ( Mahāyāna ) 」の教えだという。で、キャンベルはそのすぐあとでこうつづけています。

This whole broad earth is the ferryboat, already floating at dock in infinite space.

 皮相な意味ではなく、深い意味において徹底的に楽観主義者らしいキャンベル教授は、そのあとでこんなふうにも書いている。いついかなるときもいかなる場所であっても悲しみと苦しみに満ちたこの世界ではあるが、苦しみから逃れる場もまた存在する。それが Nirvana だ。Nirvana はこの世界そのもの。欲望や怖れを抱くことなく、すべてありのまま、事事無礙でこの世界を受け入れること。Nirvana はここなのだ! 、と。* 「今日好風、今日はよい風だね」ということばを見たとき、この「 Nirvana はいまここにある」を思い出していた。古今東西の文献を渉猟してきた比較神話学者キャンベルは、趙州老師のこの至言を知っていたのだろうかとふと思った。

 「彼岸」ついでにこの前見た教育 TV の「こころの時代」では、駒澤大学名誉教授の田上太秀さんが懇切丁寧に「涅槃経」とか読み解きながら、「彼岸」へいたるには「八正道」を修めなければならないとかしゃべってました。こちらもおおいに参考になった、なにぶん無知なもので。

 円覚寺管長さんの文章では、昨年の『円覚 うらぼん号』の記事がおもしろかった。管長老大師の実家は、なんとあんこ屋で、「おはぎ」にからめて書かれてあって微笑ましかった。それを読んではじめて知ったのが、「波羅蜜」という「般若心経」にも出てくる謎めいたことば。なんのことはない、サンスクリット語の Pāramitā のそのまんま音写で、「到彼岸」のための修行 ( 六波羅蜜とか ) のことだった。

 … 墓参のあと、二年ぶりに大田子海岸に行きまして、沖に浮かぶ田子島に沈む秋の夕陽の写真を撮ってました。おこないがよかったのか ( ? ) 、雲が多かったわりにはいい感じに駿河湾の海原を焦がしながら沈む夕陽を拝むことができました。まさに「西方浄土」の光景。ラテン語版『聖ブレンダンの航海』に出てくる「聖人たちの約束の地」も、文脈からすなおに判断するとドネゴール州のスリーヴリーグという大断崖の海岸からさほど離れていない西の海の沖にある。古アイルランド語の síd ( シード ) はいわゆる「妖精の国」という意味あいの「異界」で「霊魂の安らぐ地」とはべつものらしいけれども、ブルターニュ半島フィニステール沖の西の海には伝説の町「イス」が現れるという伝承もあって、なんだかこちらも「西方浄土」と似ています。

 … マータイさんの霊安らかにと祈りつつ。

* ... Myths to live by , p. 141 - 146.

posted by Curragh at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | おくやみ
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