2011年11月20日

The Unsettling of America

 自分がはじめてウェンデル・ベリー( Wendell Berry )という名の書き手を知ったのは、もうかれこれ 20 年くらい前だったか … 当時、ある語学雑誌に翻訳課題が掲載されていて、それがこの The Unsettling of America の一節だった ( 手許にあるのは 1996 年刊行の第 3 版 ) 。その後ほどなくしてまだ若い書き手だったビル・マッキベンの処女作『自然の終焉』邦訳本を読み、そこで何度かベリーのことばが引用されていたのを見て、この人はたとえば昔のソローやエマソンのようなかなり有名な書き手なんだろうなと思っていた。それ以来、漠然とではあるけれど、この本を読んでみたいと思っていた。

 で、長らく Amazon のカートに放りこんでおいたこの本をようやく ( ? ) 発注する気になり、夏の終わりに届きました。さっそく目を通してみたら、これがもう ―― いろんな意味で ―― おどろきの連続。

 くだんの課題箇所は典型的な「環境問題」を扱っているような印象を受けていたので、てっきりそういう本だと思ってました。でも中身はそういうせまい範疇をはるかに飛び越え、この有限の地球という惑星にすむわれわれ人間の存在そのものをこれでもかと問う、ある意味たいへん過激にして、ひじょうに深い深い洞察と思索に満ち満ちたものすごいエッセイでした。すくなくとも自分の理解し得たかぎりでは。

 著者はケンタッキー州の農家の生まれで、いっとき大学で英文学を教えていたそうなんですが、現在は先祖代々受け継いできた自営農場で農業を営みつつ、地方の農業者の見地に立って環境問題関連の講演などの活動もこなしている方。この本はいくつかのエッセイをつなぎあわせたような構造で、表題作 'The Unsettling of America' 以下、1970 年代の米国における食と農の問題、地域社会の問題 ( 農村地帯の過疎化および都市の過密化にともなう社会秩序の崩壊 ) 、露天掘りなど乱開発による環境破壊、米国の農政問題などを「一農場主」として見つめ、考察し、また怒りをもって告発・非難するという、裏カバーの新聞書評にもあったようにじつに「雄弁な」本なのです。

 個人経営農場主としてのベリーの考え方は、とにかくすべてはみなつながりあっている、ということ。日本語で言うところの「共生」ですね。当たり前といえば当たり前なんですが、われわれも含めて欧米の影響を受けた国およびその社会では、その当たり前のことさえないがしろにされ、とても持続可能ではない社会・経済構造をあいも変わらずつづけていると警告する。そしていま ( この本の初版は 1977 年刊行 ) 米国で主流の食糧生産方式は、自然も土地もそこに生きる人も共同体をもすべてを破壊し、社会の撹乱 ( unsettling ) がいっそう深刻化しかねない、ということ。原本 200 ページ以上にもわたってベリーが繰り返し主張するのは、どんな理由であれすべての生き物が共生する大地とそこに生きる人、とくに「強欲に満ちたアグリビジネス」の前に絶滅寸前まで追いつめられた「先祖代々、自然と折り合いつけて耕しつづけてきた家族経営農家」を守れ、ということに集約される。

 「すべてはみなつながりあっている」という発想、ここでもすこしそんなこと書いたかもしれないけれど、自分も昔からそういうふうに物事を捉えてきたほうなので、これにはたいへん共感をおぼえる。でもたとえば「炯眼な農民 ( マッキベン ) 」ベリーの考察が共同体のなかにおける「結婚」とはいかにあるべきか、というややきわどいトピックや、アグリビジネスに代表される「大地と個人農場主を搾取・簒奪する」手合いを一様に ―― 医者やアグリビジネスに加担する大学農学部の先生もみんなひっくるめて ―― 「専門家 ( いわゆる「専門バカ」のたぐい ) 」として排除するようにも受け取れる書き方には、やや抵抗もありました。数篇のすぐれたエッセイをつなぎあわせた体裁ながら、米国の歴史は外からやってきた、土地とはまるでつながりのない部外者である人間が、土地に根ざして生きてきた人びとと彼らの属する共同体を潰して追い立て、ということの繰り返しで、いまや自営農家が搾取側である強欲むき出しのアグリビジネスによって社会的・経済的に追い立てられ、ひいてはこのゆがんだ経済構造が消費者も含めた国民を、社会そのものを「撹乱している」という主張で貫かれています。

 ちなみにここで言う米国の大規模アグリビジネスというのは、以前ここでマッキベンの前作『ディープ・エコノミー ( 邦訳本ではなくて、原本のほう)』を紹介したおりにも書いたように、現代版農奴制度みたいな悲惨なもの … らしい ( ベリーは彼らの農法を土地の特性も考えずに収益優先の完全なコントロールを目指す点が「全体主義者」だとして何度も批判している ) 。この方面の背景知識がはなはだ薄いためにあまり口幅ったいことはいえないが、われわれ日本人がイメージするような「機械化の進んだ、画一的な大規模経営農場」というのは、どうも 40 年ほど前に農務省長官だったアール・ラウアー・バッツの提唱した「食糧は武器」という方針にもとづく農政の大々的転換に端を発しているらしい。なにしろこの本ではことあるごとにこのバッツ長官が攻撃されている … たしかに著者のような立場の自営農家にとっては百害あって一利なしの政策の言いだしっぺなので、槍玉にあげられるのはいたしかたないところではある。

 でもこの本のすばらしい点は、そういう表層的な政治もので終わっていない点にある。とくにふるさとのケンタッキーの丘陵を開墾した田園地帯を描写したくだりとか、著者とおなじく生涯現役、社会保障とも無縁でただひたすら大地を耕し最期をまっとうした一老農場主の記述などは、さながら一篇の散文詩のような印象を受けた。「農はすべての基本、人間の労働の基本、すべてはたがいに結びついている」という視点から縦横無尽に語られる内容は示唆に富み、まったくもって蒙を啓かれる思いがする。以下、印象に残った箇所を拙試訳で列挙してみると … 。

自然のみ、もしくは人間だけでは人間の糧を生産できない。自然と人間とが文化的に結婚して、はじめてそれが可能となる。
( p.9 )

土地は、いかなる理由、それも一見よさそうな理由であっても、けっして破壊してはならない。 ( p.10 )

アイオワ州では土壌流出によって、1 ブッシェル分のトウモロコシを育てるのにいまや 2 倍の費用がかかると推定されている。
( p.11 )

われわれはエネルギーの使い方を知らない。また、『なんのために』使うのかも知らない。そしてわれわれは自分を抑えることもできない。われわれの時代を特徴づけるのは、人間と同様、化石燃料エネルギーの悪用と使い捨てだ。( p.13 )

( さまざまな「専門家」任せの ) いまの米国民ほど、おそらく世界の歴史上、もっとも不幸な一般市民はいないだろう。金を払う以外、自力ではなにひとつ調達できない。その持ち金も、その時々の歴史上または他人の力しだいで、風船のように膨らんだり、消えたりする。( p.20 )

( バラバラになった共同体は ) いまや無秩序に拡大する都市の郊外地区や舗装道路が圃場を破壊するがごとく、見境なく水平方向へ広がっている。( p.21 )

責任ある消費者になれば、すなわち批判的な消費者となり、あまり品質の良くないものは買わなくなるだろう。そして控えめな消費者ともなる。そういう消費者は、自分に必要なものは何かがわかっており、不要なものは買わなくなる。( p.24 )

こんにちの典型的な自然保護派というのは、自分が楽しむ風景だけを保護すべく闘う。自身の健康を直接、脅かす存在に対しても闘う。また大規模かつ劇的な環境破壊が自分の注意を惹きつけるようになると、やおら反対を唱える。だが、自分自身の暮らし、習慣、娯楽、欲求が自然界にもたらす影響については、いまだたいして気にも留めない。ようするに、利用の問題に対処してこなかったのだ。そんな環境保護派には、複雑にして精妙なるこの世界との関係はどうあるべきかという定義など持っていないのだ。( p.28 )

いかなる畑に対しても、畑のいかなる部分に対しても同一の配慮でしか耕さないというのは、もはや農業ではない。それは工業だ。( p.31, これはたとえば、この時期恒例の新酒のおいしいボジョレ地区でも似たような問題がある。当地では起伏に富んだ丘陵が破壊され、大型機械が導入されたりしている。仏語でテロワールと呼ばれるその土地ならではの性格を破壊するこういうやり方も、ベリーに言わせればもはや農業ではなく暴力的な工業だ、ということになる )

( アグリビジネスの喧伝を鵜呑みにしている一般市民は )「全米の総労働力の 96% が食糧生産から解放されている」――なんのためにその労働力は「解放」されたのだろうか、その結果、他のいかなる職種からも「解放」されてしまったのか、については問うこともしない。( p.32 )

われわれは、かつてどんな社会も成し得なかったほど、よく考えもせずに食べている。食べること、すなわち大地から生きる糧を得るということを、よく考えもせずに繰り返しているのだ。( p.38 )

( 「大規模農場主になれ、さもなくば去れ」という農業政策の ) 唯一のちがいはそのやり口だ。共産主義国では軍隊を使った。この国では、「自由市場」という名の経済原理を使った。そこではもっとも自由な者のみがもっとも豊かになれる。( p.41 )

わたしが言いたいのは、食べ物は文化の産物だ、ということだ。テクノロジーのみで産み出せるはずはないのである。(p.43)

かなり以前から、エコロジストたちが記述してきたのは、『ひとつのことではすまない』という原理だ。つまり自然界では、なんであれひとつのことに影響を与えるということは、最終的にはすべてに影響をおよぼす、ということだ。もろもろの森羅万象は他のすべてと関係があり、他のすべてと依存しあっている。( p.46 )

人びとは、企業がこれを食べるようにと決めたものを食べる。自分たちの生命源を産む土地から遠く切り離された彼らは、企業側の容認する範囲内でのみその土地とのつながりを持つ。彼らはいわば純粋に消費するだけの機械になりさがってしまっている。言い換えれば、食品生産業者の奴隷である。( p.74 )

( 農業者とはまるで異質のアグリビジネス権益者にとって ) 食糧はエネルギーや原材料と同様のただの「資源」でしかなく、彼らの言う農業テクノロジーは他のテクノロジーと変わりがない。穀類、燃料、鉱石について、彼らの発する問いはみなおなじだ ―― コストは ? どれくらい効率的か ?  ( p.76 )

( アグリビジネスの描く「未来の農場」は、すべてが機械に支配され、機械に依存する、いわばキリストが荒野で受けたという悪魔の誘惑に近い構造 ) 目新しい点は、悪の外見だ。際限のない道徳規範へ依存する、際限のないテクノロジー。際限のない道徳規範というのは、規範がなにもないにひとしい。( p.79 )

問題は資源の供給にあるのではなく、利用のしかたにある。エネルギー危機はテクノロジーの危機ではない。道徳規範の危機である。いまやわれわれは使い切れないほどのエネルギーを持てあましている。… 問題は、いかにエネルギー消費に歯止めをかけるか、ということなのだ。( p.94 )

都市の有機廃棄物、つまり生ごみも、もとをたどれば農場から収穫したものなので、これをもとの農地へと返す仕組みがもし可能になれば、それによって大地の健康と、個々の農場とまでは言わなくても、農業の自立性がともにおおいに高められることになるだろう。( p.183 )

農場にとって究極の健康とは、ダウ・ジョーンズ工業株平均の変動や政治の気まぐれの影響を受けずに、食糧を生産する力にある。( p.184 )

こうした急峻な丘陵地帯の農場では、そこに住まいを構えず、ひたすら生産性、収益性を最優先にした大規模農場ほど、健康的な農業と乖離したものはない。… たとえば家族経営農場主は、関心があるから圃場を歩いて回る。対して工業的農場主もしくは経営者は、必要に迫られて歩くにすぎない。(p.187 - 188)

農業における真の物差しとは、農業機械の洗練度や収益の大きさ、生産能力を示す統計数字にあるのではない。その耕作地がいかに良好な健康状態にあるかという一点にある。( p.188 )

農耕馬に穀物飼料を投入すれば、倫理的に問題視される。ところが内燃機関でおなじ穀物が燃焼され、電力、機械、自動車業界の利益になる場合は、その飢餓問題はどこかへと消え去る。また農場で馬を使用することに抗議するような手合いも、競馬や見世物のレース、その他くだらない目的で馬を使うことに対しては文句をつけない。( p.203 )

たとえば都市生活者の場合、徒歩で、または自転車を利用して職場に向かえば、当人にとっての交通問題のもっともかんたんな解決法を見つけたことになる。この選択によって、大気汚染や天然資源の浪費、渋滞整理に費やされる公金支出も同時に減らすことができるし、当人にとっては節約にもなり、そして健康にもよい。( p.219 )

現行の危険なほどに画一的農法ではない、技術面、品種面で提供しうる最大限の多様性を、その土地の要請に適合するかたちで推進すべきである。( p.221 )

本書は、明らかに憂慮の念から書いたものだ。われわれの土地を、共同体を、そして文化をも破壊するイデオロギーに支配されているとの思いから書いた ―― その状況は、いまも変わりがない。 … 土地と共同体の健康状態こそが、経済活動上の欠くべからざる基準たりえるかもしれない。だとすれば、いわば夕方には刈り取られる草のような限りある期間しか与えられていないわれわれ人間が、ただ自己の利益のために、破壊行為を果てしなくつづけることをどうして正当化できようか ? ( p.229, 234. 「第 3 版 あとがき」より )

 この本には 'The Use of Energy' と題された章があり、時節柄なにかと意識せざるをえないエネルギーにまつわる考察まで書いていたことにもおどろきを感じた。もっともあの当時は当時で石油危機の真っ只中だったから、それがひとつの執筆動機になったかもしれないが … でもあの当時、企業活動にともなういわゆる公害問題について論じた本はごまんとあるけれど、ベリーのように、環境問題もつまるところはひとりひとりの「使い方」にかかっているという根源的なところまで掘り下げて追求した書き手って、そうはいなかったはず。いまは当たり前の感のある資源リサイクルについても大量消費大国の米国において、30 年以上も前にその有用性を指摘している点、また「食品トレーサビリティ」についてもすでに問題点を指摘した点なども、やはり大地に根ざした農民ならではの視点かと思う。まちがいなく炯眼の持ち主、真の意味での visionary だと思う。ちなみにこの本の裏カバーには、『亀の島』の詩人ゲイリー・スナイダーも賛辞の言葉を寄せています ( ついこの前、スナイダー氏ご本人が静岡市に来ていたらしい! ) 。

 … とにかくこの本、1970年代に書かれたとはいえ、著者も言うごとく、その内容は古くなるどころか、ますます切実さを増しているというのは、なんとも悲しいことではある ( ただしこのような内容ゆえ、その道の「専門家」やアグリビジネスおよび推進側の政治家たちは、事実上ベリーの「正しい」主張を黙殺してきた ) 。食糧危機にしても、ここ十数年の温暖化にともなう気候変動によって、なんと 2030 年ごろには世界的に危機的状況を呈する … というなんとも恐ろしい予測まであります ( マッキベンの新著 Eaarth より)。

 今回、この感想を書くにあたって、『ウェンデル・ベリーの環境思想 ―― 農的生活のすすめ』というすばらしい邦訳本も参照しました。収録されているエッセイのうち、「身体と大地」はじつはこの本の第 7 章の抄訳。このほか、原文で読んでいていまいち不明な箇所について、この邦訳から得られたものが大きかったことも付記しておきます。ベリーの著作はほかにも邦訳されているものがあるようですが、個人的にはこちらの選集が、ウェンデル・ベリーの深い思想を理解するには最適な一冊かと思うので、ここでも推薦しておきます。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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