2006年03月28日

3月26日は

 比較神話学の大先生であるジョーゼフ・キャンベル氏の誕生日だということを、こちらで知りました。春分の日のバッハや翌日のリュリの命日(指揮棒で自分の足を突いて、それが原因で亡くなった話は音楽史上のこぼれ話として有名。ちなみに当時の指揮は重たい棒で床をドンドン突いて拍子を取っていた)にばかり気を取られていたもので…。

 ほんとは個人的にコメント送信したかったのですが、どういうわけか? できなくて、しかたないから代わりにここでガス抜き書かせてもらいます。

 昨年、とうとうシリーズ完結したStar Warsシリーズ。ジョージ・ルーカス監督がこの壮大な宇宙神話創生にあたり参考にしたのが、ジョーゼフ・キャンベルの一連の著作だというのはファンのあいだではつとに有名な話。というか、本人の弁では『千の顔をもつ英雄』だったか、それを読んでいたく感銘を受けて、「押しかけ弟子」にしてもらったとか。というわけで、Star Wars シリーズにはキャンベル神話学の影響がそこここに見られます。そもそもテーマじたいが「父と子の葛藤」、「英雄の冒険と帰還」といった古今東西の神話によく見られるモチーフなので、物語のもつ普遍性も大ヒットした要因だろうと思います…かくいう自分も1978年の初公開以来、とうとうシリーズすべてを映画館で見てしまった(エピソード3では先行上映にも行ってしまった…ある意味シスの手に落ちた?)…。

 十何年か前、NHK教育で放映したキャンベルとビル・モイヤーズの対談番組を見たときの衝撃は忘れられません。キャンベル先生の独善的なところのいっさいない、魅力的なストーリーテリングに文字どおり魅了されてしまいました。当時、自分でもつかみどころのなかった「宗教」や「神」の概念が、じつにわかりやすく、さまざまな神話を通して語られ、「そうか、こういうことだったのか」と、それこそ目からうろこが落ちる思いがしたものです。「神は、存在するとも、しないとも言えない」はけだし至言だと思います。考えてみればたしかにそうなんですが…なかなか気づかないものです。至高存在である神は、それゆえ世界各地でさまざまな「仮面」をかぶって、ときにトリックスターとして人々を幻惑したりします。古代ギリシャの神々のようにじつに人間くさい神のいる一方、古代インド神話のヴィシュヌやシヴァなど、あきらかに怪物じみた存在の神もいますし。この対談で印象に深く刻まれたことばはいくつかありますが、とりわけ印象的だったのは、「長年世界各地の神話を研究してきて驚かされるのは、それぞれがいかによく似ているかだ」ということばです。またこのときはじめて、アメリカ先住民の神話や長老の話がいかに普遍的で、すばらしいものかということも教えてもらいました(Liberaのアルバムに収められている Do not stand at my grave は、女流詩人メアリ・エリザベス・フライ作ということになっているらしいけれど、これとよく似た伝承が米国先住民にも伝わっていて、個人的にはそこから拝借したようにも思う)。

 キャンベル先生自身はローマカトリックの信徒だったのですが、晩年、関心の中心は仏教や東洋神話に移っていたようです。とはいえミサの聖体拝領に見られる象徴性には深い共感を寄せつづけていました。フランスに留学していたころ、シャルトル大聖堂に熱心に通い、それを見ていた堂守にそそり立つ鐘楼へと案内されて、いっしょに時を告げる鐘を突かせてもらったという楽しい思い出話も聞きました。キャンベル先生のすばらしいところは、表面的な姿かたちにこだわると本質を見失うということを伝えている点です。「十字架のイメージも邪魔だ」とさえ言い切り、目に見える事柄ばかりにとらわれるなと戒めています。『星の王子さま』の名言を引くまでもなく、ほんとうに大切なものは「目には見えない」のです。

 また組織宗教というものはいつの時代でもそうだろうと思いますが、個人の内なる神秘体験を異端視する傾向があります。…中世には火刑なんてことにもなったりで…いわゆる New Age の火付け役になった、シャーリー・マクレーンの著作にも似たようなことが書いてありました。「本来 religion ということばは『再び結びつける』という意味なのに、現代の宗教は人々をひとつにするのではなくて、バラバラに引き裂いている」。

 中世アイルランドではどうだったか。教皇を頂点とする中央集権的なシステムとはまったくちがうことからしても、個人的には「ローマカトリックよりはまだまし」だったろうとは思う…そのかわり修道規則に抵触したときは厳罰が科せられた。これは当時のアイルランドの社会制度と密接にかかわっている部分でもありました。

 キャンベル先生は癌かなにかの病気の手術後、経過が芳しくなくて亡くなられたらしい。いま生きていたら102歳。あのようなスケールの大きな学者は当分現れないのではないか。キャンベル先生は真の意味での教養人でした。著書を読むと、学識の深さと考察の鋭さにあらためて驚かされるとともに、いかにも欧米人らしいユーモアというか、茶目っ気すら感じられる。Decentでとてもカッコいいのです。インチキなカルト教団もどきに騙されている本邦の宗教学者なんかとは雲泥の差がある(むしろ比較の対象外か)。

 キャンベル氏の代表的な著書は邦訳が出てますが、個人的にキャンベル神話学入門としておすすめなのが、角川書店から出ている『生きるよすがとしての神話』と、TV対談を収めた『神話の力』です。まがいものが横行する昨今、真の意味での良書だと思います(こちらの本は知らなかった。こっちもおもしろそうですね)。

 ダース・ヴェイダーとの身長差…キャンベル先生自身スポーツマンで、すらりと長身のハンサムな紳士だったので、すくなくともアナキンを破滅させたダース・シディアス(銀河帝国皇帝)ほど見劣りしないと思います…たぶん。

posted by Curragh at 05:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
この記事へのコメント
あまりのスパムコメントの多さに地道に拒否設定をしていたら、運営会社が「英数字のみ」のコメント、TBはすべて拒否設定という荒技を始めました。個別というよりも、一定のアドレスを狙っていたようですね。御迷惑をおかけしています。
「宗教」「神」というと『引かれてしまう』日本にあっては、欧米のようにその分野の知識を持つ人の割合が低いのでしょうか。キャンベル氏や聖フランチェスコのような存在すら、みんな「宗教」というくくりで一緒にされてしまいます。
清清しさと謙虚さにおいて、上述の二人には同じ空気感を感じます。
まだ就学前の自分に「神」の存在を教えてくれた外国人宣教師も、そんな人だったからかもしれません。
Posted by 邸主 at 2006年03月28日 23:16
 邸主さま :

 そうだったんですか。じつは自分も最近、スパムトラックバックの多さに辟易してまして…blogは次世代規格のWeb2.0の代表みたいな言われ方をして、じっさいにはじめてみるとたしかに将来性は感じるものの、スパマーにとってもかっこうの餌食なんですね。もうすこしなんとかならないかと思います。

 同時多発テロ事件以後、なにか「宗教」というのが禁忌語みたいな扱いを受けているのはとても遺憾です。地下鉄サリン事件が発生したとき、Time Essayに、「カルトに入信してしまう人への共感・理解もなく、ただカルト非難に終始していてはいずれおなじことが起こる」趣旨のことが書かれていました。偏見と無理解・無関心がこのようないびつな形で「逆襲」してくるということでしょう。「わたしたちにとって最大の敵は貧困ではなくて無関心」とのマザー・テレサの発言も思い出されます。イスラムを冒涜したとすさまじい抗議が相次いだ風刺画騒動も、イスラム圏に生きる人々の心情をまったく考えず、欧米の価値観のみで判断したために起こったもので、ある意味当然の帰結です。とはいえアフガニスタンでの騒動(改宗者は死刑)も、やっぱりおかしい。自分の記憶が正しければ、キャンベル先生は現代の組織宗教の限界を指摘し、現代は人々をひとつに結びつける神話のない時代と定義した上で、「未来の神話は宇宙を舞台にしたものでなければならない」旨のことをおっしゃっていたと思います。先生の著作は――とくに若い人に――もっともっと広く読んでもらいたいですね。
Posted by Curragh at 2006年03月31日 00:57
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