2011年12月31日

冬来たりなば、春遠からじ

1). 先日、地元紙に掲載された記事です。大震災に見舞われた岩手県宮古市の高台の仮設住宅に住む女性の話。国内最大級の防潮堤を軽々と乗り越えてしまった大津波に愛児と実母と曾祖母を奪われ、6月になってようやく 3 人の葬儀をすませることができた、という。最近、当時 3 歳だった愛児が夢に現れるようになった。「ママはもう大丈夫と思ったのかも」。… おなじ紙面の下のほうに目をやると、「林道の車に 1 歳児遺体 近くで母死亡」との記事が。こちらはどうも無理心中らしい … 他人だからこんなこと言えるのかもしれないのでしょうが、もうすこしなんとかならなかったのでしょうか …。

2). 先週末、「ららら ♪ クラシック 『音楽の都 ウィーン』」という番組を見たあと、こちらの番組も見ました … 。今年ほど、いわゆる「専門家」なる人びとの発言がいい意味でも悪い意味でも注目された年もなかったのではないかと思う ( ちょうどそんなとき読んだのが、ほかならぬウェンデル・ベリーが 34 年前に書いた本。ベリーはその本で、物事をあるがままにとらえようとせず、隔絶された「専門分野」という「想定」内だけで都合よくかこつける「専門バカ」のたぐいを徹底的に斬っている ) 。肝要なのは、学者も人の子、だれが人として信用できるか、に尽きると思う。で、番組に出てきた北海道大学の一匹狼然とした老教授先生や、津波堆積物が残っていそうな池の底をボーリング調査しつづけている高知大学の先生などは、まちがいなく「人として」信用できる専門家先生のように感じられる ( 大震災以前から、この先生方の発見はときおり新聞記事として掲載されていた ) 。お二方とも、「後出しジャンケンみたいだけれど、研究者としての使命に駆られて」脇目もふらずに必死に過去の大津波の痕跡を記録した地層を片っ端から調べている。「二度目は許されない」。中越沖地震のときにもおんなどようなこと書いたかもしれないが、今年ほど、「想定外」なる単語がまるで「免罪符」のごとく安易に連発された年もなかった、と思う。また、膨大な震災瓦礫の受け入れをめぐってはいろいろあるようですが、「送り火」のときもそうだったように、「がんばろう」と言いつつもいざとなったらなったで「総論賛成、各論反対」ではいっこうに復興が進まないのではないか。ここだっていざおなじように被災したら、どうするのか … 蒸し返しになるけれど、やはりこの国には「マイホーム主義」が蔓延しているように感じる。

 以前、高校の世界史や地学の未履修問題とかに触れたことがあったけれども、なんのために歴史とか地理・地質学を学ぶのか ( 養老孟司氏いわく、「生きるために学ぶ。それがほんとうにわかっていれば、いくらでも人は学ぶようになるんです」* ) 。われわれの大半は、日本はひじょうに自然災害の多い国だ、ということを忘れているのではないか? その点、伊豆半島ジオパーク構想はすばらしい。これぞまさに防災教育としても理想的。伊豆中央高校の生徒さんたちが中心となっていま、さかんに小学生や一般住民対象の「ジオ講座」とかが半島のあっちこっちで開催されていて、心強いかぎり。松崎町では、南伊豆町にかけての波勝海岸の名勝指定区域をめぐる遊覧船運行も計画している ( 以前、運行していた「波勝崎遊覧船」が復活したかたち)。そしてこれには関連法律の改正とかも前提にはなるけれど、豊富な温泉湧出量を誇る東伊豆町熱川 ( 温泉熱を利用して観光用にワニとか飼っているところ。ワニたちはこの前、年末恒例のデッキブラシによる「アカ落とし」をしてもらった ) 地区などでは、温泉熱発電の実用化に向けた実験がいよいよ本格化します。これを「ジオパーク」でひとつの物語にしないといけない。そう感じます。また歴史ということでは、たとえば西伊豆町に残されている入江と入江を結ぶ峠越えの古道を再整備しようと、なんと首都圏の学生さんたちに声をかけてボランティアとして活動してもらったという記事も見ました。… 中央高校の取り組みも、こちらのボランティア活動も、いずれもすばらしいし、頭のさがる思いです。西伊豆地区にかぎって言えば、「三角点」のある里山が荒れ放題。以前の切り抜きを見たら、「忘れられた里山を歩く」という山行録をまとめた方に取材した記事が出てきた。風力発電 … もいいけれど、こんどはこういった「忘れられた」かつての里山を再整備するときではないかと考えています ( 放置されているから、バブルのころにゴルフリゾートなんていまでは想像できない開発話がまことしやかに持ちあがったりした ) 。

3). いろいろ言いたいことはあれど、キリないからこのへんでやめておきます。今年もこの拙い、なにを書いてんだかわからないブログをお読みいただき、妄筆多謝。どうぞ平安な新年をお迎えください。ワタシは、けっきょく「積ん読」のまま、年の瀬を迎えてしまった気の毒な本たちを横目で見つつ、「生さだ」を見ながら年越しそばでも食べようかと思います。ショーペンハウアーの『読書について』くらいは読みたいが … マッキベンの Eaarth もまだ半分残ってる (最終章の 'Lightly, carefully, gracefully' ってなにが書いてあるんだろ … ) し、ブレンダン関連本も『カンブレの説教』もあるが …。

 最後に今年、地元紙掲載の記事などで見た、心に残ったことばとキャンベルおよびベリーの詩などを引用して結びたいと思います。バッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴きながら ( 蛇足ながら、お題は有名なシェリーの「西風に寄せる歌 [ Ode to the West Wind ] 」からの上田敏の名訳の引用です[ 原文は 'If winter comes, can spring be far behind?' ] ) 。


ウェンデル・ベリー

どうしてよいのか どうにもわからなくなってしまったとき
そのときこそ ほんとうの仕事がはじまるのかもしれない

進むべき道が どうにもわからなくなってしまったとき
そのときこそ ほんとうの旅がはじまるのかもしれない

途方に暮れる心 それがなければ 真剣さが足りない

せせらぎは すんなり流れないから 歌うんだ

―― 竜はひとりひとりの心のなかにいます。わたしたちは「人格」という名の竜を持っています。竜はわたしたちみんなの心の中にいて、「経験」を食べて成長します。だから、わたしたちは日増しに強くなるのです。そして、感情をコントロールして生きていくことが大切です。どうか自分の竜を大きく素晴らしく育てていってください。 ―― ブータン国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク

―― 多くの外国人が日本を離れる中、わたしの決断に驚いた人もいたが、『勇気をもらった』と言ってくれる人もいた。そうだといいなと思う。 ―― ドナルド・キーン

―― 『方丈記』にもあるように、人は、この地球に仮住まいしている身です。一個人がやっていいことはかぎられている。… 科学技術というのは、それ自体の内部に歯止めはなく、すぐに欲望と同化する怖さを持っています。―― 作家・福聚寺住職 玄侑宗久氏

―― 人生に意味などありません。あなたが意味をもたらすのです。人生の意味は、それを与えるあなたしだい。生きていること、ここに人生の意味があるのです。 ―― ジョーゼフ・キャンベル

―― お父さん、かっこいい名前をつけてくれてありがとう。… もし、一度だけでも、お父さんに会えたら、つたえたいです。「ぼくは元気です。お父さん、いつも、ありがとう。」 ―― 2010年度「ありがとうの手紙コンテスト」中部・東海地区低学年の部 最優秀賞受賞作から。

* ... 地元紙 2011 年 4 月 17 日付

posted by Curragh at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々の雑感など
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