… 「積ん読」の本を読み進めることが正月三が日定番の行事みたいになりつつありますが、ひさしぶりにブレンダン関連本を見ているうちに、ふと本家サイトでもほんのすこしだけ触れた『カンブレの説教』というものが妙に気になってしまって、手っ取り早くこちらの記事を見ました。以下、備忘録ていどにメモしておきます。
ラテン語版『聖ブレンダンの航海』 17 章で、ブレンダン一行は「聖歌隊の島」に上陸します。島の聖歌隊は少年、青年、老年組と三つのグループに分かれていて、少年組は白、青年組は青、老年組は赤の服をそれぞれまとっていた、とあります( → 関連拙記事 ) 。
白、青、赤 … 子ども隊が白、若者隊が青、というのはすんなりわかる。純真無垢とか若さとか。で、老年組の赤は、拙記事にも書いたように高位聖職者というか教会の位階を示唆する色、という印象をまず受けます。でも『航海』邦訳者の太古先生が指摘するように、『カンブレの説教』に出てくるおなじ白、青、赤の三色の喩えもからんでいる … かもしれない。
『カンブレの説教』は古アイルランドゲール語で書かれた最古の説教文書と言われているもので、成立年代は 7 − 8 世紀ごろ。カンブレというのはフランスのカンブレ市のことで、8 世紀、カール大帝の時代に当地の司教に仕えていた写字生によって筆写された写本が原典らしい。リンク先記事 ( 出典や引用元の記述もしっかりしているので、信頼性は高いと思う ) によると教父文書や聖書の引用はラテン語、注解はアイルランド語で書かれてあるらしい。ただし一部の単語にはファダなどの長母音記号がなく、おなじ母音を連続して綴るなどの特徴があるとか。内容は、「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従え」というマタイ伝など聖書からの引用句を提示したあとで注釈、つまり「説教」を述べる、という構造になってますが、不完全なかたちで終わってます。最後に、アイルランド修道院文学関連本でときおり引用される「三つの殉教」についての説教が出てきます。
「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました ( 『新共同訳』より ) 」という使徒パウロのことばを引き、つぎのように説きます。
神のために愛するものすべてを捨てるのが、「白い殉教 ( bán martre ) 」。
深い悔い改めのうちにおのれの欲望 ―― 「Eテレ」で再放送していた故梅棹忠夫氏ふうに言うと、「業 ( ごう ) 」―― を捨てるのが「青い殉教 ( glas martre ) 」。
使徒たちにならって、キリストのためにみずからの肉体の破滅をもいとわず十字架を負うことが「赤い殉教 ( derc martre ) 」。
ブレンダン一行が見た「島の聖歌隊」や「隠者パウルス」などは「白い殉教」に当たり、もとは当時のアイルランドの慣習法による刑罰のひとつ「氏族からの追放」がキリスト教的に昇華したものと言われています。ちなみに中世のアイルランドでは、追放刑は死刑につぐ重罰だったという。これのもっとも有名な例は、アルスターの王族出身の聖コルンバでしょう。コルンバは「カタハ」と呼ばれる詩編をめぐる血なまぐさい闘いの責任を取り、かつあらたな布教地を求めて故国を捨て、12 人の弟子とともにカラフに乗りこみスコットランドへ向けて船出したと伝えられています。
本家サイトでははじめ「緑の殉教」としていたのですが、この 'glas' という単語、緑とも青ともとれるようで、手許の本を見たら「緑」派と「青」派で分かれてたりする ( 苦笑 ) 。ほかの用例では「顔色の悪さ」を示す「青白さ」という意味で使われていたりする … ということもこのたびはじめて知ったので、両方併記に改めました。
前にも書いたけれども、英語の 'compassion' というのは「ともに苦しみを分かちあうこと」がもともとの意味。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロのことばにたいし、「他者とともに苦しむ者はだれでも、その心に十字架を負っている」と『カンブレの説教』は説いていて、相通ずるものを感じる。
… そういえば今週末、こちらの番組でイングランド北東部の港町ウィットビーが登場する、とのことで楽しみ。以前ここでも書いたけれども、ウィットビーはいわゆる「復活祭論争」の地としても知られているから、そんな話なんかも出てくるかも。
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