2012年01月30日

『知はいかにして「再発明」されたか』

 お題の本は以前、地元紙書評欄を見て興味をそそられた旨、たしかここで書いたような気がしますが、いまごろになってようやく読んでみました ( マッキベンの本とショーペンハウアーの『読書について』と並行して ) 。

 この本、ひとことで言えば広い意味でのメディア論ともとれますし、もっと大げさに西洋文明を側面から支え、かつインターネットという名のグローバリズムに乗って全世界的に伝播した「西洋における知識の蓄積と保存」がいかにしてなされてきたか、を「知識を伝達する装置」としての制度の変遷ととらえて論じた本です。

 この本はオレゴン大学で歴史を教える夫婦 ( ? ) らしい教授先生二名による共著。古代ギリシャ文明の知的伝統の保存と学者獲得の手段として設置されたアレクサンドリア大図書館を「西欧最初の知の制度」として位置づけ、以降「修道院」、「大学」、「文字の共和国」、「専門分野」、そして「実験室」へと「西洋における知識の保存装置」は変遷していった、と論じています。

 個人的にはもちろん「アレクサンドリア大図書館」と「修道院」について、どんなことが書いてあるんだろとの興味があって読んだんですが、おおなるほど、と思ういっぽう、やや違和感も … 。民主主義とか言論の自由とかを引くまでもなく、西洋における知識の伝達という話は、なにも西洋のみで完結する話ではなくて、極東の島国に住むわれわれにもおおいに関わりのある話ですし、アレクサンドリア大図書館建設を思いついたデメトリウスから尊者ベーダ、アベラールにベルナール、イエズス会士キルヒャー ( 音楽好きにとっては『音楽汎論』[1650] の著者として ) にフンボルトにヴァネヴァー・ブッシュまで、「知の制度」に関わった人たちの物語という「読み物」としてはたしかにおもしろいし、「『情報時代』がこのまま進めば、知は光ファイバーを通して行き交う電子パルスのようにはかないものになりかねない、という危惧 ( p.8 ) 」が現実のものとなっている現在、先人たちから受け継いだ知的遺産をこれからどう保全し、伝えていけばよいのか、その有益なヒントを得るためにはやはりこれまでの歴史を顧みるにかぎる、そういう視点からものされた本だと言っていいと思う。

 とはいえ個人的にはどうもしっくりこない点のほうが多くて、後半に行けば行くほどその感が強くなってしまった。ひとつには三流ジャーナリストみたいな妙に軽い語り口にもあるかもしれない ( 訳し方にもあるとは思うが)。この手の「一般教養」ものでは、よくあることだがジョークのひとつも挟んで、みたいなはっきりいってどうでもいい雑学やネタを適宜混ぜて読み手を退屈させないサービスをする場合が多い。でもそれも質と量の問題でして、この本の場合はややフェミニズム的要素も混ざっているためなのか、ちょっと下ねた系がくどい感じ ( 苦笑 ) がする。また「いまの制度がけっして最良のものではなく、たまたま歴史の偶然でこうなってしまっただけのこと」というのはたしかにそのとおりですね、と言うほかないが、比較として引き合いに出される中国とかイスラム文化圏での例とか、いつも章末に申し訳ていどにしかでてこない。たとえば西ローマ滅亡の混乱期、「知識の保存装置」として活躍したのがちょうどおなじころ西ヨーロッパ各地に設立されていった「修道院」だったが、インドのナーランダ僧院では「その文化はひじょうに口承的で、文字に頼ることはなかった ( p.90 ) 」ため、最盛期には 1 万人の修道僧で賑わった僧院もムスリム襲撃後の 12 世紀に幕を閉じ、ナーランダ僧院に留学していた玄奘三蔵によって後世に伝えられた以外は朽ち果てるのみだった、みたいにありますが、このへんもうすこし突っこんで比較検証したほうがよかったように感じる。記述があっちこっちに飛んで、そのたびにどうも「消化不良」になるという、そんな感じ。そういえばかつて、ハロルド・イニスだったかが書いたメディア論について、「引用が奇怪なモザイクといった感じ」と酷評していた人がいた。たしか『印刷革命』という本の著者先生だったと思うが … 。

 というわけでこの本の場合、ボンクラなワタシの頭では本文 292 ページをすべて読み通すよりも、きょくたんな話、「はじめに」と「結論」だけでよかったかも、というのが偽らざる読後感でした。とはいえ中世の「大学」と、ルネサンス期の「文字の共和国」あたりは知らないことが多かったので、ひじょうに興味を惹かれた、とだけは言っておきましょう。でもいまひとつつよく感じたのは、たとえば書き言葉のない、口承のみを頼みにしてきたような文明文化の遺産はナーランダ僧院のごとく失われる場合がふつうだったので、われわれに残された「知識」よりも失われてしまった知識、いや「叡智」のほうがはるかに多いということ。この本は西洋の知の伝達ということに焦点をあてて書かれているからしかたないとはいえ、それよりはるか以前、古代ギリシャ・ローマ以前の「知識」はどうなんだというとなにも書かれていない。おなじく口承文化だったケルト人やゲルマン系諸部族など、ヨーロッパにはラテン系以外の「知の歴史」があったはずなのに、現存しているのはほんのすこし、それもキリスト教修道士が当時の書きことば、おもに当時の共通語だったラテン語で残しているのみ。けっきょく、こういう歴史ものを書くときは著者自身「専門分野」や「実験室」の章で書いているとおり、論じるものを選択してから書くということになり、選択の過程でどうしても恣意的にならざるを得ない。「無色中立、客観的な歴史」というふうに論じることは不可能。あと読んでいて気づいたことは、山岡先生の著作とも重なるけれども、やはり「知識の保存と伝達」の主要な原動力のひとつがやはり「翻訳」という営為だったこと。アレクサンドリア大図書館では有名な「セプトゥアギンタ」の話とか、あらたなアレクサンドリアとなったバグダッドでは、ムスリムの学者たちがさまざまな出自の文書をつぎつぎとアラビア語に翻訳して後世に伝えたとかって話を読みますと、なんかこみ上げるものがありますね。こういう無名の翻訳者たちだって、「知の制度」を維持した重要な立役者ですよ。

 というわけで、突っこみ不足・書き散らした感はあるものの、「西洋における知の変遷」という捉え方をした本というのはありそうであんまりないと思うので、この手の著作 ( いや労作 ? ) は邦訳されてしかるべきだし、われわれ読者はありがたく読ませていただきたい、と思う。思うけれども、読んでいてどうにもひっかかる箇所が … ひとつには「シャルマーニュ」、「陰謀術」といった誤字だか誤植だかが多いこと、「フレデリック大王」と表記したかと思えば「フリードリッヒ大王」に、アベラールの仇敵「クレルヴォーのベルナルドゥス」がいつの間にか「ベルナール」になったり、アレクサンドリアの悪名高い司教キュリロスが「キュウリロス」になったり、「プロシア」が「プロイセン」になったりとまるで落ち着かず ( 苦笑 ) 、アレクサンドリア大図書館と併設されていたと伝えれるムーサを祀った「ムーセイオン」をなんだかよくわからんが英語読み「ミュージアム」としたり ( こういうのは原則現地語読みにすべきだし、原文だってしっかり famous Museum と大文字で書いている ) … また「なんとまあ」だの、「パックリ」だの「せっせと」だの、軽い調子 ( ? ) の原文がさらにノリの軽い日本語になっている点も気になるといえば気になる。とくに「図書館命 ( p.20 ) 」って、なんなのこれ ? と思って手っ取り早く原文を「なか見検索」してみたら …

― Organizing and managing a library is, after all, a monumentally tedious task, in need of a deep-seated prior commitment to justify its utility. ( p.5 )

どうも下線部を強調したかったみたいです。そこまでしなくてもよかったような … 気もしますがね。それと、「文字の共和国」で出くわした、「譜面のあるダンス ( p.167 ) 」っていったいなんだろ ??? まるでイメージできず orz それと「図書館」の章、「 … すべての巻物を差し出せと命じた。没収して写本を行い、その本は手元に返すから、と ( p.32 ) 」。常識的には、これ「原本」じゃないですかね ? 残念ながらここは「立ち読み」できなかったから、わからないですけれど ( 持ち主にはなかば強引に取り上げた原典ではなく、写本を突っ返す場合も多々あったらしい ) 。

 もうひとつ目についたのがこちら。↓

― 原爆の父 J. ロバート・オッペンハイマーは、皮肉にもトリニティー [ 三位一体の神 ] と呼ばれている場所の上で史上初のキノコ雲が広がるのを目にすると、バガヴァッド・ギーター … を引いて、「わたしは死、すなわちこの世界の破壊者となった」と述べたという。 ( p.268 )

― "I am become death, the destroyer of worlds" : thus spoke J. Robert Oppenheimer, father of the bomb, quoting from the Bhagavad Gita ... after witnessing the first mushroom cloud explode over a site named, aptly enough, Trinity.

ええっと、トリニティというのはもともとの地名ではなく、オッペンハイマー自身がこの核実験をそう名づけたものと了解しています。下線部はどう転んでも「皮肉にも」にはならないですよね ?? 「いみじくも」くらいか。

 … 固有名詞表記の不統一とか、あるいは上記のこととかは気にしない気にしない … でもつぎのくだりは、つい目クジラが立ってしまった ( 苦笑 ) 。

― オクスフォード ( ママ ) 大学キングズ・カレッジ ( p.306 )

評価:るんるんるんるん

posted by Curragh at 22:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
この記事へのコメント
ご無沙汰恐縮です。m(_ _)m

ミクシとFBとツイッタで遊んでばかりで真面目にやっておりませんでしたが、そのうちにあちらこちらからいろいろ(ただばたらきの)お仕事を頂戴して缶詰になることが増え、お遊び時間もだいぶ制限されてくさっております(失笑)。

興味深い記事を拝読させて頂き、御嬰を申し上げたくコメントお入れしました。
時間をどれくらいおかけになったのか分からないとはいえ、訳語が不統一だったり不適切だったり偏向していたり、という書籍は、このところ増えてきているのではないだろうか、と感じることがあります。トリニティは実験の名称に用いたものであって地名ではない、とは、仰る通りです。
Posted by ken at 2012年02月26日 10:47
おお Ken さん ! こちらこそご無沙汰しております。m(_ _)m

本の中身というより翻訳の話になってしまいましたが、たしかに同様のことは自分も感じているところです … でもたとえば「サン・サーンス」にするか、「サン-サーンス」にするかについては、自分自身もいまいち迷ったりするのでなんともやっかいな問題ではありますが、複数名の訳者による共訳ならまだしも、個人訳の場合は統一してほしいですよね。でもありもしないカレッジ (学寮) 名を見たときには、さすがにカチンときました ( 笑 ) 。

ところで「お仕事を頂戴して缶詰」とは、なにかお書きになっているですか ?? 
Posted by Curragh at 2012年02月26日 15:27
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