2012年02月26日

『時を超える神話』&『生きるよすがとしての神話』

 読みかけの本があるにもかかわらず、ついキャンベル本を読みたくなってしまった今日このごろ ( 笑 ) 。でも先日、マッキベンの本( Eaarth ) はめでたく読了したので、そちらはいずれまたのちほどということで ( いつになるかは未定 ) 。

 ジョーゼフ・キャンベル … については、この拙ブログ上でもそれこそ何度も取り上げてきた名前だから、あらためてどうこう言うつもりもないですが、昨年読んだ Myths to live by とあわせてすでに飛田茂雄先生の名訳による邦訳が出ているし、未読の『時を超える神話』とともに図書館から借りて読んでました。読んでいるうちに、以前原本を持っている人からコピーして放置状態だった The Masks of God の第三巻 'Occidental Mythology' のアイルランド関連のことが書かれたページとかも読みたくなり、今後も折をみて読み進めていこうかなと考えてます。

 『時を超える神話』は、死後公刊されたビル・モイヤーズとの対談『神話の力』と同様、キャンベル最晩年の講演から収録したもので、訳者の飛田先生によると、同名のビデオシリーズ ( シカゴにある Joseph Campbell Foundation から出ているらしい [ 訂正:カリフォルニア州ケントフィールドでした ] ) を見ながら翻訳を進めたようです。キャンベルという人は、いわゆる学究肌の学者然とした学者ではぜんぜんなくて、当代髄一のストーリーテラーといったほうがいい。NHK で放映されたモイヤーズとの対談でその飾らない、でもひじょうに説得力ある語り口にすっかり打ちのめされた二十代のころを思い出す。この本も『神話の力』とおなじく、冒頭からキャンベルの飾らないストーリーテリングにすっかり引きこまれてしまった。

 キャンベルの講演では、たとえば昨年読んだ『生きるよすがとしての神話 ( 原本 Myths to live by )』とカブる話、『パルツィヴァル』、「ニュージャージー行きの小舟のたとえ話 ( 大乗仏教と小乗仏教のちがい ) 」、「ゾウに道を譲らなかったインドの若い修行者の話 ( ラーマクリシュナお気に入りの寓話だったらしい ) 」、「クンダリーニ・ヨーガと経絡図 ( チャクラ3 とか 4 とか ) 」やチベット密教のオーム( 日本風に言えば「阿吽」 )の話、またはお気に入り ( ? ) らしい10 世紀のスーフィーの殉教者マンスル・アル-ハッラージュの「炎に飛びこむ蛾」の話や「トマスによる福音書」の引用などがけっこう出てくるけれども、聞き手を、というかここでは読者だけど、いっこうに飽きさせないのはさすがというべきか。いわばバッハの多用した、パロディの手法比較神話学版とでも言おうか。

 日本人のくせして仏教についてはとんと門外漢のワタシみたいな読者は、「ニュージャージー行きの小舟の話」なんか、ひじょうにわかりやすくておもしろいし、『生きるよすがとしての神話』に出てくる、奈良の大仏の右手が「汝恐れるなかれ」という印であること ( 「施無畏印」というらしい ) とかをキャンベルの講義から知るのはなんともありがたいことではある。もっともキャンベル先生も人の子、ときおり数字がちがったりするし、古代エジプトの話 ( 4章 ) の話では当時の知見でものを言っているので、これは致し方なし。もっともそれは枝葉末節のたぐいなので、物事の本質を突いた言い方はさすがとしか言いようがない。

 以下、この講演集を読んで印象に残ったキャンベルのことばをいくつか。

 ―― 私たちが持っている聖典は、私たちの生活経験を知らない別の民族が別のところで編纂したもの … そこには根本的な隔絶があります。… 自然に対する人間の支配を、人間に与えられた本性と見ている。それをシアトル酋長やブラック・エルクの言葉と比べてみてください。これこそ、すでにひからびて死に、本来の働きを失った神話と、いま機能している神話との相違です。神話が生きているとき、私たちはだれに対してもそれがなにを意味しているかを語る必要はありません。それは、ほんとうにあなたに語りかけてくる絵を見るようなものです。( p.56 )

 ―― 農業の確立と動物の飼育とに続く地域社会の拡大と共に、職業の差別が生まれました。ジェネラリストやアマチュアの文化とでも言えるようなものの代わりに、職業が生まれ、ある特定の人々とその一族が何代も続いて、官吏、祭司、交易、農業といった職に生涯を捧げることになりました。人々のあいだに差別が生じると、新しい問題も出てくる。つまり、生活様式の違う人々に単一組織のメンバーであるという自覚を持たせるにはどうしたらいいか、という問題です。われわれの世界がまとまりを欠いているのも、そこらに原因があるようです。労働者が経営者と対立する、あちらとこちらが敵対するという具合に、文化組織がボロボロと崩壊しますね。( pp.65-6 )

 ―― しかし、インド人は捕囚の状態にあったのではない。つまり、異郷で流刑になっていたわけではありません。神は彼らのまっただなかにいるのです。私たちが異民族文化の交流について語るとき、比較宗教学の立場から宗教について語るとき、そういう相違を認識しておく必要があります。比較 ? そうです、私は比較をします。それが私の商売ですからね。理念の相違が存在しているとの前提に立って、比較をするのです。 ( p.80, こちこちのユダヤ教徒だったマーティン・ブーバー博士の「私たちはみな捕囚の状態からそれぞれ独自の方法で脱け出さなければならない」との発言を受けて )

 ―― 大乗仏教はインドの北西部で発達しましたが、面白いことに、その時期は主としてキリスト紀元の最初の二世紀のあいだで、キリスト教が発達した時期と重なっています。ボーディサトヴァ ( 菩薩 ) というのは、超越性を自覚した人が現実世界に参入するという思想です。… キリストの呼びかけはなんでしょう。キリストは人々に、もし世界に悲苦が満ちていると思うならば、その世界に参入せよと呼びかけています。もしあなたがキリストをブッダと同じような存在だと考えるならば、キリスト教と仏教とのあいだにはすばらしい対話が生まれます。その両者は、同じひとつの基本的な理念の二つの民俗的な表れです。( p.127 )

 ―― あなたとあなたの神とは、あなたとあなたの夢がひとつであるのと全く同じく、ひとつです。とはいえ、あなたの神は私の神ではありません。だから私にそれを押しつけないでください。各人がそれぞれ独自の存在と意識とを持っているのですから。( p.169. これ、どっかの聖書の押し売り団体に聞かせてやりたい名言ですな )

 ―― … 興味深いことが起こります。近代語の進化です。ラテン語からフランス語が、古ドイツ語からドイツ語が生まれました。ラテン語では ―― amo は「私は愛する」、amas は「汝は愛する」などのように ―― 主語と動詞が一体ですが、いまや主語は動詞から離れる傾向が始まりました。ここでもまた個の強調が見られます。「私は愛する」は ich liebe です。( p.236, これはドイツ語ですね。ようするに西欧圏で顕著となる「個人」という意識の誕生と発達が、言語面でもはっきり現れていると述べている )

 ひとつ思ったんですが、グノーシス主義に近い文書とされる『ヘルメス文書』って、コジモ・ディ・メディチ支配下のフィレンツェにてラテン語に翻訳され、それがたいへんに受けたらしい。「ボッティチェリの作品はこの思想で満たされていますし、ルネッサンス芸術のすばらしい花盛りも、そこに盛られた思想を雄弁に語っています ( p.136 ) 」とあり、有名なドミニコ会士ジョルダーノ・ブルーノもこの翻訳に触発されて独自の神秘思想へと走り、「地動説」支持を撤回しなかったために火あぶりにされた … らしい。とにかく当時、この『ヘルメス文書』翻訳のあたえた影響というのはすごかったみたいです。

 翻訳 … ときて思い出したのが、その前に読んだこちらの本。現在の西洋文明を考えるとき、古代のアレクサンドリア大図書館およびアレクサンドリアという古代都市の果たした役割は測り知れないように思う ( たとえばクレメンスやオリゲネス、アタナシオスといった教父たち、グノーシス派のヴァレンティノスや水オルガン ( ヒュドラウリス ) の発明者クテシビオスやエウクレイデスなどなど … ) 。ネット全盛時代とはいえ、われわれはいまだにその影響を受けつづけているようにも思うのでした。

 キャンベルにもどって … 個人的には『生きるよすがとしての … 』よりは、最晩年の講演録であるこちらの本がいいような気がする。前者もすばらしい講演集ですが、いかんせん時代が古くて、アポロ計画たけなわのころの講演など、時代を考えてもちょっとハイなんじゃないかって気がしたものですが … でも冒頭の「科学は神話にどんな影響を及ぼしたか」は、合理主義者としてのキャンベル節全開、といった感じでけっして押しつけがましくはないものの、たいへん説得力に富んでいる。

 『時を超える … 』の 213 ページにガッフーリオなる人の著した『音楽実践法 ( Practica musice, 1493 ) 』に掲載されているという木版画にも、おおいに興味をおぼえた。キングギドラみたいな三つの頭を持つケルベロスの長ーい尻尾が天上におわすアポロン神まで、テトラコードのギリシャ音階とともに昇っているという図は、はじめて見た。各音階にはそれぞれ 9 人のムーサつまりミューズとプトレマイオスの惑星と太陽があてがわれているんですが、よくよく見るとドリアが「太陽」になっていて、最下段のヒポドリアが「月」というこの関係は … よくわからない。でもこれって、ケプラーが『宇宙の調和 ( 1619 ) 』で太陽系の各惑星に音階を当てはめたのとまったくおんなじ発想なのかもしれない ( 「天球の音楽」という思想は、古くプラトンにまでさかのぼる ) 。それと、p.64 の、クノッソスの有名な迷宮に描かれている二頭のグリフィンの壁画について。「ダンスの絵のなかで女性たちはグリフィンの頭を持っています。… なぜかグリフィンは女神信仰の儀式とかかわりを持っているのです」とあるのは、まったくの初耳でした。

 でもやはりなんといっても感動的なのは、 1855 年ごろに白人入植者にたいしておこなったとされる、シアトル酋長のスピーチのくだりです( pp.35 - 7 ) 。

 ―― ワシントンの大統領は「おまえたちの土地を買いたい」と言ってきた。しかし、空や土地をどうして売ったり買ったりできるのだろう。その考えはわれわれにとって奇妙なものだ。… もしわれわれが土地を売るとしても、空気はわれわれにとって貴重なものであることを忘れないでほしい。空気は、それが支えるあらゆる生命とその霊を共有していることも覚えていてほしい。… われわれはこの大地を愛する。生まれたばかりの赤ん坊が母親の胸の鼓動を愛するように。だから、われわれが土地を売ったなら、われわれがそれを愛してきたのと同じようにその土地を愛してほしい。われわれがそうしてきたのと同じように土地の面倒を見てほしい。心のなかに受け取った土地の思い出をそのまま保ってほしい。あらゆる子供たちのために、その土地を保護し、愛してほしい。神がわれわれみんなを愛するように。… われわれが土地の一部であるように、あなた方も土地の一部なのだ。大地はわれわれにとって貴重なものだ。それはあなた方にとっても貴重なものだ。われわれはひとつのことを知っている。神はひとりしかいない。どんな人間も、レッドマンであろうとホワイトマンであろうと、区別することはできない。なんと言っても、われわれはみな兄弟なのだ。

 『生きるよすがとしての … 』では飛田先生はじめ、三名の共訳というかたちをとっている。「訳者あとがき」もそれぞれが書かれてますが、とくに目を引いたのが、こちら。↓

 ―― … 原書を受け取り、数ページ読んでみると、これはたいへんな仕事だ、はたして私の手に負えるのだろうか、と不安になってきた。なにしろ、キャンベルの扱うトピックは、ギリシア神話という狭い範囲のものではない。神話・哲学・宗教のみならず、芸術、科学など広い分野の知識が網羅されている。… しかも、エッセーとはいえ文章はかなり難解で、調べものと翻訳作業とに四苦八苦するありさま。… 私の担当部分は原文の半分くらいでしかなかったにもかかわらず、半年以上ものあいだ、常に机の上に原書が広げられていた。ずいぶん長くかかってしまったものだが、このすばらしい本を訳すことのできた喜びは苦労よりも何倍も大きかった。… 章を追うごとに「知覚の扉が浄化され」、世界をこれまでより新鮮に見たり、感じたりできるようになっていく気がした。… 仕事を口実に手抜きばかりしているダメママに無邪気に甘えてくる二人の幼い娘たちの笑顔にささえられて、亀のようなペースではあったが、翻訳を続けることができた … 。

もしキャンベルがこの「あとがき」を読んだら指をパチンと鳴らして、満面の笑みを浮かべてこう言ったかもしれない。「彼女もまた、ささやかなヒロインです ! 」。

評価:『時を超える神話』るんるんるんるんるんるんるんるんるんるん

『生きるよすがとしての神話』るんるんるんるんるんるんるんるん

posted by Curragh at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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