2012年04月16日

こういうのは困る

1). 先週末、You've Got Mail という10 年以上前に公開された洋画が深夜のローカル局で放映されていたので見てました。なんでもこれ昔の作品のリメイクだそうで、かつての「恋文 ( この言い方はもう古い ? ) 」に代わって、電子メールでのやりとりが全面に押し出された感じの作品。このころのトム・ハンクスといえば、「アポロ13」のラヴェル船長役をすぐ思い浮かべるんですけれども、それにしてもこの映画を見ると、インターネットの使い方というものがわずか 10 年ほどのあいだでこれほどまでに変わってしまったのかとヘンな意味で感心してしまったり … 当時は当然、ダイアルアップ接続 ! しかも最近とんと見なくなった AOL の接続ソフト !! つまり電話線でつないでいた。いまみたいに定額制なんてないから、使えば使っただけ通信代金がかかる従量制。いまなんかすごいですよね。iPhone とか Android 端末、iPad などのタブレット端末とかはみな携帯電話回線か、Wi-Fi 経由でつなぐのが当たり前、プリンタなんかも NetBEUI だったか、有線でさえ PC と接続するのに一苦労だったというのに、いまじゃ Wi-Fi 経由のプリント対応機種では無線LAN ルータ経由でかんたんにつなげてしまうのだから。

 トム・ハンクスと相手役のメグ・ライアンは Mac Book ? かな、いちいちノート PC をベッドに持ちこんだり、デスクトップ型マシンの CRT の前で頬杖ついたりしてチャットしたりメールを打ちこんだりしているけれども、iPhone で猛烈な速さでテキスト打ちこむいまの若い世代の人がこれ見たらなんて思うかな。この映画では老舗の街角の本屋さん vs. 大型量販書店という話でもあったが、いまじゃどっちも旗色が悪い。もちろん電子書籍のことだが … それについては、たとえばこんな報道もありましたね。

 ことほどさようにテクノロジーの発展というか進化の速さには目を見張るものがある。たとえば Google。まだ日本語版が登場する前から「これはすごい ! 」と使ってきた年季の入った ( ? ) ユーザーなので、最近の Google を見てるとなんかもうついてゆけない感じもする。それでも Person Finder というサービスをいちはやく立ち上げたりして社会貢献もしている … 点も考えると、好むと好まざるとにかかわらず、もはや Google は地球規模での社会インフラみたいな存在になってきている、と思う。ちなみにいまこういう本を読んでいるのですが、いかんせん分厚い大作なので、ただいま中断中 ( ほかにも読むものがあるので … )。マッキベンの本もそうだけど、この取材本もひじょうにおもしろいので、近いうちにこちらについてもここで感想を書くつもりではいる。Google という社名が、創業者のひとりが登記するときに Googol と申請しようとしてミススペルした結果のもの、というのは知らなかった。Google っていったいなにしている会社なの ? とか、Google のいまを知りたい向きにこの本はおすすめです。ちなみに Google 以前の「検索エンジン」というのは、まず AltaVista 、そして Inktomi というのが主流でした。どっちもいまの Google みたいに「ほぼ一発で」知りたい情報にたどりつける、なんていう芸当にはほど遠かった … 。

 と、そんな折も折、こんなニュースが目につきました。うーむ … テクノロジーの発展でかならず問題になるのが、人間の仕事の口をつぎつぎと奪ってしまう、ということ。たしかジョブズ氏は、荷馬車からトラックへと輸送手段が変わるにつれて、人の仕事もまたそれにあわせて変わるものだ、みたいなことを言っていたような気がするけれど、「自然の摂理」に人間の手前勝手な経済モデルを押しつけるいまの経済社会構造にはっきりノーを突きつけている農民にして詩人のウェンデル・ベリーは、これにからめてつぎのように書いている ( 訳は拙訳 ) 。

 ―― かつて技能は、最終的には質を指すことばだった。その仕事はどれくらいできがよいか ? その品はどれくらいよくて、長持ちして、使っていて心地がよいか ? だが機械が大型化し、複雑さを増すにつれ、われわれの機械に対する畏怖の念もまた大きくなり、労働力をさらに節約したいと欲するようになってからは、技能というものを質ではなく量として判断する傾向がますます強まっていった。ある人はどれくらい速く、安く仕事ができるか? といったぐあいに。「計量化できる」技能ばかりが、ますます求められている。計量可能な技能が求められるほど、それはいともたやすく機械に取って代わられる。機械が技能に取って代わるにつれ、機械は生命とのつながりを絶ち、人間と生命とのあいだに割って入るようになる。*

 これはあくまで農業について書かれたものだけれども、おんなじようなことを比較神話学者キャンベルもまた書いていたりする ( 『生きるよすがとしての神話』の6 章、「東洋芸術のインスピレーション」後半部分 ) 。たしかに便利になることじたいに反対するような人は、きわめて少数派だろう ( いまのところは ) 。でも「テクノロジーの発展 = 楽して手抜き」であっていいわけがない。それとこれとは話がべつだし。どうも最近、こういう話が多いような気がする。誤訳とかなんとか、それ以前の「意識」の問題ですね。これこそ、機械と人間の手仕事との重要なちがいなのにね。

2). それともうひとつ、地元紙夕刊紙上にて「にっぽん色めぐり / 桜花の淡紅」という記事を見ました … 内容は、なんでいまの日本では桜、というとソメイヨシノ一辺倒なのか、ということをおもに歴史から焦点を当てて考察したもの。署名はないけれど、なかなか読ませるコラムでした。ワタシはソメイヨシノ … ももちろん好きではあるが、あればっかりというのはやはり自然の植生という点から見てもいただけないと前々から思ってます。個人的に理想なのは、吉野山のようなヤマザクラとその自然交雑種。ソメイヨシノは、いわゆるクローンなので、いっせいに咲き出す。オオシマザクラゆずりの大型の花はたしかに見栄えがいいし、散りぎわも華やかだし花筏もまたをかし。でも ! ヤマザクラの美しさはまた格別ですよ ! あの鮮やかなオレンジ色の若葉と同時に花を咲かせる姿が大好き。あれを見ると、なんというか欧米人が「イースターエッグ」を見て思い浮かべるのとおんなじような、強い生命力というものを感じます。先日、西伊豆へ花見に行ったのですが、あいにく今年は例の暴風が二度も吹きまくったためか、塩害でせっかくの花びらが変色した樹が目立った。これもまた自然だと自分に言い聞かせて撮影していたが、当日はくそ寒くて、午後は冷たい西風が吹きまくり、吹き飛ばされそうになりながらも堂ヶ島で断崖に砕け散る波とか撮ってました ( 苦笑 ) 。

 … けさの「古楽の楽しみ」は、リュート作品特集みたいだったようで、ダウランドの「涙のパヴァーヌ」とかかかってました。そういえばバッハもリュート独奏作品をいくつか残しているけれども、キリのいい BWV.1000 はなにかと言えば、「ト短調のフーガ」でした。

* ... The Unsettling of America, p.91.

posted by Curragh at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | Web関連
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