2007年09月24日

『航海』とオルガン(Navigatio, chap.15)

 ラテン語版『聖ブレンダンの航海』15章。「聖エルベの島」の修道院で「主のご降誕」の季節、つまりクリスマス期間(1月6日まで)を過ごした聖ブレンダン一行は、「眠りの泉の島」−「かたまった海」を経て、四旬節明けのある日、ふたたび親切な世話人(procurator)の住む「羊の島」に到着します。その日がちょうど「洗足木曜日(Maundy Thursday)」。「聖なる三日間」最初の日に当たり、以後、クリスマスは「聖エルベの島」、「洗足木曜日」から「復活祭」までは「羊の島」・「ジャスコニウス」・「鳥の楽園」で過ごすというサイクルを7年、繰り返して目指す「聖人たちの約束の地」へとたどり着きます。

 さてその15章、「鳥の楽園」の鳥たち(いわゆる堕天使の一種だが鳥の姿をして描かれるのはアイルランドに特有のものらしい)が聖務日課に定められた詩編歌を歌うのを聴きつつ復活祭週を過ごしたブレンダン一行。つぎの日曜日、予告どおりに「世話人」の若い人がカラフを漕いでやってきて、一同食事の席につくと、「お告げ」を告げる役回りの鳥が群れから一羽やってきて、ブレンダン一行の革舟の舳先に舞い降りた。そのとき鳥は「翼を広げ、大オルガンのように鳴り響かせた」とあります。ラテン語版最古の写本と言われるアランソン写本版でも同様に「鳥は舳先に舞い降りると翼を広げ、まるで大オルガンのような音を鳴り響かせた」とあります。

 オルガン好きとして、この描写は以前からひっかかっていた箇所でもありました…そんなこと言ったらそれこそ引っかかる箇所だらけですが(笑)。たいていはこっちの理解のていどが足りないんでしょうけれども(苦笑)。

 ブレンダンが生きていた時代に「大オルガン」があったかどうかと訊かれれば、こたえはたぶんノーでしょう。オルガンはもとをたどれば笙とかパンフルートと同様、音階順に並べた縦笛から発達した楽器です。記録上もっとも古いオルガンはいわゆる「水力オルガン(ヒュドラウリス、hydraulis)」というもので、こちらは移動も可能な組み立て式。言ってみれば「ストリートオルガン」の元祖みたいな存在で、屋内というより外で演奏されていた楽器。ローマでは、たとえば有名な円形競技場の「コロッセオ」でも演奏されていたらしい。かの暴君ネロも好んで弾いていたとか。だいぶ前、この「ヒュドラウリス」を復元してじっさいに演奏してみる、というなんとも興味深い実験がなんと静岡で(!)おこなわれたことがありましたが、ブレンダンの生きていた時代には水に代わってふいごで空気を送り込む方式、「ニューマチック」式へと進化したけれども、けっして「大型」の楽器ではなかった。

 カール大帝(シャルルマーニュ)が新生西ローマ帝国皇帝として戴冠する前の757年、東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス5世(コプロニュモス)がカールの父・フランク王ピピンに「巨大なオルガン」を贈った、という記録があります。当時のオルガンは世俗の楽器で、宮廷儀式で使われたようですが、教会につきものになったのは10世紀以降のこと(ある本の受け売りで確証はないが、英国ではすでに800年ごろから教会に導入されはじめたらしい)。教会の楽器としてのオルガンの最古の記録は10世紀、英国ウィンチェスター大聖堂に設置されたという大オルガン。400本のパイプをもち、70人のふいご手、ふたりがかりで演奏され、その大音響はウィンチェスターの町じゅうに鳴り響いた、つまりはやかましかったと言います(→「楽器の女王オルガン」サイト内ページ)。

 以上ざっと見たあとで問題の箇所にもどると、楽器の大型化と教会への導入…はどんなに古くても8-9世紀以後のことだと言えます。なのでこの箇所は作者の生きた時代の風物が反映された部分と考えるのが自然です。「ベネディクトゥス会則(戒律)」なんかもそうですし。原型となったもともとの物語にはおそらくこんなたとえはなかったと思います。鳥の翼の音がいかに大きかったかという比喩としては、やはりウィンチェスターにあったとされる楽器のようなものを推定するほかない。ブレンダン時代のアイルランドにそんな楽器があったのか? 材料の観点から見れば、そこそこの木材と錫や鉛が採れればできるので、可能性はまったくゼロとは言えないけれども(5世紀当時、アイルランド人は特産の銅をカラフに積みこみ、地中海地方まで航海して交易していたことを示唆する記録があります)。

 当時の「大オルガン」について。ゴシック様式の大聖堂がつぎつぎと建設されていた時代、もはやそれまでのちっぽけな音しか出せないオルガンでは聖歌隊の歌を支えきれないと考えたんでしょう、製作家たちはこぞってオルガンの大型化に乗り出しました。いわゆるゴシックオルガンというもので、ウィンチェスターだけでなくランス、ミュンヘン、リモージュなどの大聖堂に設置されていたようです。当時の大オルガンは数百のパイプをもっていましたが、鍵盤は一段のみ、風箱と基壇が一体になった「ひとつの大オルガン」鍵盤が特徴です。音域は当時、聖歌隊が歌っていた詩編唱、アンティフォナなどの声楽曲に合うように作られ、はじめは20鍵くらいだったようです。ゴシック後期の楽器になると、音域も3オクターヴくらいにまで拡大していきます。初期の楽器では鍵盤はひじょうに大きくて、ちょうどカリヨンの鍵盤のように、こぶしでひっぱたいて演奏していました。ドイツの音楽学者プレトリウスはその著書Syntagma musicumに、ハルバーシュタット大聖堂にあったとされるゴシックオルガンの鍵盤図を載せていますが、その当時の鍵盤が復元されてもいます(→ハルバーシュタットの関連記事)。

 このもっとも古いタイプの「ゴシックオルガン」の流れを引き継いでいるのがイタリアの教会に見られる古オルガン。パイプ群がそそり立つ基壇直下に演奏台があり、手で弾く鍵盤が一段あるのみ。足で弾く鍵盤はありません。ストップのない楽器もあります。ストップはもっとあとの時代、15世紀以降の発明です。その後パイプ群がそれぞれ独立した小オルガンとして各自の鍵盤を備え、足鍵盤が追加され…とだんだんとバロック時代のオルガンに近い形に発達していきます。

 ちなみに演奏可能な最古のオルガンは、スイス・シオンにあるノートルダム・ドゥ・ヴァレール教会の「燕の巣」型オルガン。1390年製作のもので、たしかパワー・ビッグズによる演奏盤があったと思います。

この記事へのコメント
極めて合理的な、すばらしい解釈です!
尊敬!

オルガンについてはほとんど知りませんので、楽器史としても非常に勉強になりました。

それにしても、「カリヨネア」というのは全く知りませんでした。
いろんなものが、あるんですねえ。。。
Posted by ken at 2007年09月24日 23:15
Kenさん

オルガンつながりではたしか織田信長にオルガンらしい楽器(一説ではオルゴールのような自動演奏楽器)が贈り物として献上された…とか聞いたことがあります。

安土町の文芸セミナリヨのサイトに、こんなページがあります。

http://www.hottv.ne.jp/~bungei/seminariyo/organ.html

むむ、それにしても立派な楽器ですね(汗)…。英国製みたいです。響きと会場の残響のバランスのとれた楽器、とくると、昨年暮れに聴いた東京カテドラル聖マリア大聖堂のイタリア製オルガンはけっこうよかったです。オルガンついでにサントリーホールが化粧直しを終えて復活しましたね。たいていそういう時期にオルガンもオーバーホールするものなので、ひょっとしたらNHKホールのオルガンのとき(1984年に90→92ストップへ変更)みたいに、実働ストップが追加されているかもしれません。

本文に書いたのは、手許の文献を読んだ感想というか、あくまでもディレッタントの推測にすぎません。とりあえず『航海』関連の備忘録ていどに綴っています。なので寝転がりながら斜め読みなさってください(笑)。これからこのカテゴリの記事を増やすつもりで、ゆくゆくは本家サイトのほうにまとめたいと考えています。
Posted by Curragh at 2007年09月25日 00:41
セミナリオの頁、見ました。
確かに、すごいなー!

東京カテドラルのオルガンを作る過程はDVDになっていて、文はちょっとお恥ずかしいのですけれど、映像に感動して私の綴った記事があります。

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/dvd_58f0.html

・・・このDVDで、私は初めて、オルガンという楽器の素晴らしさを知らされたのですが、Curraghさんのところでもっと勉強してから綴ればよかったな・・・
Posted by ken at 2007年09月25日 21:51
もちろん読みましたよ、カテドラル新オルガンのDVDの記事! オルガン好きとして、コメントしようかな〜♪という誘惑に駆られたものです。

大聖堂サイトによると、以前のオルガンは、ニューマチックという方式だったようです。これは電気式ですが、弁の開閉は空気圧を利用しておこないます。昔ながらの機械式アクションとくらべて微妙なタッチが反映されにくく、また電気と併用した複雑な機構なので故障も多く、ときおり鍵盤の動きと関係なく勝手に音が鳴ったりします(自鳴、cipher)。雨漏りによる電気部品の故障も頻発していたようです。雨漏りについては、いよいよ大改修工事が今月で終了するので、たぶん大丈夫(?)でしょう。旧オルガンの仕様は、あきらかに建造された時代を反映していますね。

あたらしいマショーニ社製オルガンの鍵盤は昔ながらの機械式、ストップのみ電気式で、現代オルガンの標準的な造りです。わたしも開演前、スペースセントポールにてオルガンのライヴ演奏盤CDを買いました…といってもふつうのCD-Rなんですが…。でも響きはとてもクリアです。きれいに録れていると思います。
Posted by Curragh at 2007年09月26日 09:35
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