2012年05月16日

出航の地はディングル半島ではなくて、もっと北 ?! 

 今日は「聖ブレンダンの祝日」。昨年はいろいろあって、正直、どうなることかとおおいに不安だったのですが、気がつけばもう一年が経過していた。ぶじでいられるというのは、ほんとうにありがたいかぎりです。そういえば今月 29 日は、忘れもしないあの故グスタフ・レオンハルト氏の文字どおり最後の来日公演、それも大好きなオルガンのリサイタルを聴いてからはや一年でもあるので、レオンハルト氏を偲んでまたいろいろ音源を聴いてみたいと考えてます。

 前にも書いたけれども、当方が勝手に本家サイト特別顧問にさせていただいているアイルランド・ケリー州トラリー在住の古地名学の権威、Breandán Ó Cíobháin 博士。いま博士は昨年の調査航海の補完のため、アイスランドを再訪する予定でいるらしいのですが、そういえば昨年、博士からいただいた貴重かつたいへん興味深い資料について、ここでなにも書かなかったことに思い至り、ブレンダン関係のことに絞ってここですこしご紹介しよう、と思い立ちました。いつも思いつきで書いてしまって、まことに申し訳アリマセン ( あんまり計画性のない人 ) 。m(_ _)m

 昨年の調査航海の概要についてはDingle News関連記事ページ下に PDF ファイルのダウンロードリンクがあるので、そちらをご参照ください。そして自分の手許の資料はいまひとつありまして、それはディングル半島とその南隣に突き出すイヴェラ半島における、船乗り聖人に由来する古い地名についての考察です ( 文書名は 'Ecclesiastical Structures of the Early Christian Period in Corca Dhubhne, Co. Kerry' ) 。そこで博士が指摘しているのは、たとえばディングル半島およびイヴェラ半島に残る初期キリスト教時代の遺構に見られる特徴はよく似ており、おなじような遺構が北西海岸のゴールウェイ、メイヨー州にも見られること、またこの時代の西海岸特有の記号文字オガムについては、アイルランド南東部カーロウ / キルデア以外では 'MARIANI', 'VITALIN' といった人名が記録された唯一の例がディングル半島に残っており、「長老 ( presbyter ) 」を示す 'QRIMITIR' なる肩書きを記したオガム文字はアイルランドの他の地域にはなく、この地域でしか発見されていないこと、ディングル半島西部の教会跡に残る後期オガム文字にはラテン文字の使用が見られることなど、はじめて知ることばかりでアタマは刺激されっぱなし。コーゲド ( cóiced, 「5分の1」の意 ) と呼ばれる、古くからの領地区分でのマンスター地方の守護聖人はラテン語版『航海』にも登場する聖エルベ ( アイルベウス ) だけれども、ディングル半島の守護聖人がフィオナン・カムなる人だということもはじめて知った。こっちはだれだろ、と思ってオンライン版 Catholic Encyclopedia にあたってはみたものの、項目はなし。ローカルな聖人、ということかな。こちらの解説ページによると、修道院創設期の紀元 5−6 世紀の人みたいですが。

 というわけで、ブレンダン関係の古地名について、かんたんに書きだしてみます。

1). 元来ケリー州中央部に拠点をおいていたキアリー・ルアフラ氏族は、8 世紀が終わるまでに、北部にいたアルトリー・カイル族を吸収し、アルトリー族の守護聖人だったブレーナン [ 原文はアイルランドゲール語表記 ] をそれまで彼らの守護聖人だった Carthach / Mochuda に代えて祭るようになった。これら 3 名の守護聖人について注目すべきは、彼らの創設した主要な修道院共同体はいずれも故郷マンスター西部 ( Iarmhumha ) ではなく他の地域にあり、彼らに対する崇拝はマンスターでは下火になっていった。アードファートは、マンスター西部地域に残るブレーナンが創設した唯一の共同体である。近隣のブランドンウェル ( アイルランド語名 Muileann Bhréanainn ) および 15 km 南東に位置する Uaimh Bhréanainn は、ディングル半島外の、マンスター西部に現存する数少ないブレーナンに捧げられた地名である。

2). 11 世紀までキアリー族の支配階級だった Uí Fhearba 一族の封土 ( 現在のブランドン山東麓一帯、ブレンダン生誕の地とも言われるフェニト、その東隣のトラリー市にも近い ) では、ブレーナンに由来する地名はいよいよ少なくなり、唯一「ブレーナンの泉 ( Tobar Bréanainn ) 」と 「ブランドン山 ( Cnoc Bréanainn ) 」のふたつの地名によってのみ記念されている。後者はラテン語版『聖ブレンダン伝』では「ブレンダンの野 ( Saltus Brandani ) 」、『航海』では「ブレンダンの座 ( Sedes Brandani ) 」とされ、ブレーナン出航の地と云われている。… ‘Cnoc Bréanainn’ という地名は、12 世紀後半になってはじめて登場する。いっぽうで『ブレンダン伝』と『航海』は 8 世紀ごろから大陸においてテキストが発展していることから、この呼称が故郷の地で最初に使用されはじめたのは 12 世紀になってからかもしれない。ブランドン山の西側に、ブレーナンに捧げられた泉が 5 つあることは、ノルマン人入植者のあいだでブレーナン信仰が高まった結果と言えるかもしれない。このブランドン山麓地域では彼は守護聖人であり、年1回の巡礼登山が何世紀にもわたって行われてきた。それどころか、12 世紀には北部地域における『聖パトリックの煉獄』に相当する、『聖ブレンダンの煉獄』に言及した文書まである。

『聖ブレンダンの煉獄』!! いったいなんぞや、それ ?!! これはちょっと調べてみる必要があるかも。

 さてここで昨年の調査航海の文書にもどると、個人的にはひじょうに気になる内容が書いてあります ( 下線強調部 ) 。↓

1). ブレンダンは現在のケリー州トラリー地域に居住していたアルトリー・カイル族の出身。彼の創設した主要な修道院共同体は現在のゴールウェイ州南西部に位置するクロンファートであり、小規模な修道院がコナハト州北西部にいくつかある。

2). 見過ごされがちな事実だが、ラテン語版『聖ブレンダンの航海』に代表される「航海物語」は、すでに 7 世紀後半に編纂されたアドムナーンの『聖コルンバ伝』に「コルマックの航海」としてその原型的な挿話のかたちで現れている。

3). 奇妙なことに、ラテン語版『航海』では元来北西部ドニゴール州にある「石の山 ( スリーヴ・リーグ ) 」だったブレンダン出航の地が、スリーヴ・リーグからクレア州北西海岸、そしてケリー州ディングル半島の「ブランドン山」山麓直下へと遷移してきた。これが示唆するのは、キアリー・ルアフラ氏族がブレンダンを一族の守護聖人に据えたことなど、当地でのブレンダン信仰が 11 世紀ごろまで拡大していったということなのかもしれない。

4). イヴェラ半島沖のヴァレンシア ( アイルランドゲール語では「オークの茂る地」を意味するダルリイ Dairbhre ) 島には、「ブレンダンの祠の泉 ( ‘Tobar Ula Bhréanainn’ ) 」という地名が残っている ( イヴェラ半島の現地語名は Uíbh Ráthach [ おそらくウィベ・ラータハ ]で、英語名はこの発音が転訛したもの ) 。

下線部で博士が指摘しているのは、おそらく『聖ブレンダン伝』に見られる記述を根拠にしているんだと思う。でも「クレア州」というのは … よくわかんないから、ご本人に直接訊いてみないとわからない。前にも書いたけれども、成立年代はおそらく『ブレンダン伝』のほうが先。『航海』の 3 章に出てくる、「出航 → 聖エンダのアラン島訪問 → ブランドン山麓の狭い入江にもどって舟の建造 → また出航」なんて奇妙なルートはどう考えても「もともとふたつの航海だったものをひとつにまとめた」とか、原典を改変したものと考えられます。ちなみに『ブレンダン伝』の該当箇所は、『リズモアの書』所収の版ではつぎのようになってます。「そこで、ブレンダンはコナハトの地へ行き、すばらしい大きな船を造りました。それは立派で巨大でした。彼はその船に一行と一族を乗せて、いろいろな植物と種も積み込みました ( 松岡利次編訳『ケルトの聖書物語』 p.133 ) 」。蛇足ながら本家サイトですが、先日、めでたく ( ? ) カウンターが 2 万ヒットを超えました。先週末自分がリンク先修正のために踏んだら、ちょうど20,100 でした。非常時に備え、どこか避難先 ( ミラーサイト ) をもっか探索中。

 最後に、こちらの動画をどうぞ。



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