2012年06月03日

この人も生誕 100 年 & Libera

1). 先日、NHK-FM 「ベスト・オヴ・クラシック」はドイツの名指揮者、ギュンター・ヴァント生誕 100 年を記念して未公開音源の数々をいっきにオンエアしてました。いやー、聴きごたえがありました ! こういう企画はどんどんやってもらいたい、と思う。シューマンが心身ともに充実していたころの名曲「ライン交響曲 ( 3 番 )」、シューベルトの「 8 番」、「悲しみが疾走する」モーツァルトの「 40 番」、そして、ブルックナーの大作「7 番」と「 8 番」、そして最後の「 9 番」!! これだけでも壮観、としか言いようがない。大満足。

 それとオルガン好きにはこちらもはずせない Pipedreams 。もうかなり前の回になるけれども、あの米国人オルガニスト、ヴァージル・フォックスもじつは今年が生誕 100 周年の記念イヤーだった。フォックスは、たしかできたての NHK ホールの大オルガンを弾きに来たことがあったと思う。フォックスの音源は、ほんとひさしぶりに聴いたのですが、なんというか、いろんな意味で 20 世紀の典型的なショーマンタイプのオルガン弾きだったと思う。出だしの「小フーガ BWV.578 」では、たとえばわざとらしいほど長く引き伸ばしたコーダとか、あるいは「幻想曲とフーガ BWV.537 」ではある特定の旋律をこれでもかと際だたせるような鍵盤交代とレジストレーション、そしてなかば伝説化したロックコンサート会場での「トッカータ BWV.565 」でのハデハデの演奏など、聴き手の好き嫌いがハッキリとわかれる演奏家だと感じます。でもたとえば第二次大戦時の慰問演奏旅行とか、バッハってだれ ? みたいな若い聴衆の面前で移動式のチャーチオルガンを引っさげて「トッカータ BWV.565 」を弾いてやんやの喝采を浴びたり … この人なくしては、米国におけるオルガン音楽の認知度はいまのような水準には達しなかったのではないかとも思います。この人の演奏スタイルを忠実に受け継いでいるのが、たとえばあの巨漢オルガン弾きのカルロ・カーリーですね。この人もまた師匠とおなじく NHK ホールのオルガンを弾いてリサイタルを開き、その模様を中継したNHK の番組も見たことがあるけれども、MC ( ! ) までこなして、「わたしは美しいものを信じます」とかなんとか言って、おもむろに自身の編曲によるヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ / 前奏曲とイゾルデ愛の死」を弾きだしたり … ベートーヴェンの「トルコ行進曲」では「最後の音に注目 ! 」とか前置きしてから弾きはじめ、コーダではまるで関係のないヘンな「ブー」音を左足で出したり … 前にも書いたがバッハのもうひとつの「ニ短調のトッカータ BWV.538 」では特徴的な16分音符進行を「蒸気機関車」と表現したり … たしかに子ども受けはしますな。こういうアプローチは、それはそれでたいへんけっこうなことだと思う。入門向けとしてはまさにフォックスもカーリーも最高の演奏家だと言える。でもたとえばなにか重い病気とか抱えている人がこの手の演奏を聴いて、心揺さぶられる感動を、生きる勇気を与えられるほどの深い感動を、身震いを覚えるほどの強烈な感覚を受けるだろうか。なかにはいると思う。比較神話学者キャンベルが、「あなたにとって至福は、無上の喜びは、どこにあるのか。あなたはそれを見つけなくてはなりません。ほかのだれもが見向きもしない古くさい曲でもいいから、とにかく自分が大好きなレコードを聴くとか、あるいは好きな本を読むとか ( 『神話の力』p.173. なお TV 放映版では、「どんな陳腐な音楽でもかまいません」のように発言していた ) 」と言っているように。でもあいにく自分はそうではない。行き詰まったとき、壁にぶつかったときは、やっぱりヘルムート・ヴァルヒャの録音に手が伸びてしまう。そういうときの心理って、「奇をてらったところのない、一点の濁りのない清冽な泉のごとき音楽」というのを自然に欲するのではないかと思う。

2). それはそうと、けさの「ビバ ! 合唱」ではなんと Libera 特集 !! でした。案内役の大谷研二先生が、「ロバート・プライズマンさんは、こんな高レヴェルの子どもたちをどうやって集めているのかな ? ひょっとして聖歌隊の伝統のある国だから、聖歌隊から引き抜いているのか ? 」みたいな疑問を呈しておられた。じっさいには、地元の南ロンドンのふつうの小学校に通うふつうの少年たちを中心にスカウトしている … ということをいろんなソースで読んで知ってはいるけれども、たしかにこれってひじょうに骨の折れるたいへんな仕事ですよね。また音源で聴くのと実演に接するのとではやはりちがうものでして、ワタシはそのちがいをおおいに楽しむほうだから、なにがあっても平気なところがある。でも初来日時に 2 回、聴きに行った経験から、この子たちの歌声は CD で聴くというスタイルのほうがよいのかも、と思うようになったのも事実。例の 5 段階評価では「うまい」か、ソリストによってはそれ以上の実力の子どもたちであることは明らか。でもマイクを通した歌声を聴く、というのが自分の場合、どうも性にあわないみたいで ( じっさい、エコーのかかったサウンドはかなり耳に響いた ) 。ほかにもいくつか理由はあるが … いずれも直接、音楽とは関係ないので省略。

 聴取したあと、あらためて手許の音源を調べたら、2006 年暮れに発売された国内盤カヴァーヴァージョンだけ、なぜか封も切らずに後生大事に持っていたことが判明 ( 苦笑 ) 。ワタシとしたことが、なんということか。あとで聴いてみよう。そのあとオンエアされた「吹奏楽のひびき」は、「追悼 モーリス・アンドレ」でこちらもよかった。オルガン好きなので、レモ・ジャゾット「作曲 ( と、明言していたのは好感が持てた ) 」の「アルビノーニのアダージョ」はオルガン伴奏に乗せて哀愁を帯びた旋律をピッコロ・トランペットで奏でていたのはすばらしかった。ついでに Libera の「カッチーニのアヴェ・マリア」について、大谷先生ははっきり「ヴァヴィロフという人が 1970 年ごろに作曲した曲」だと言っていたのも、好感が持てた。それから「きらクラ ! 」では、Boni Pueri の音源までかかっていた ( 「おお牧場はみどり」とスメタナの歌劇「売られた花嫁」から「花は麗しく、鳥は喜び」)。

 またしてもキャンベルの引用が出てきたところで、最後もこの人で締めくくりたいと思います。FB の JCF サイトに掲示される引用名句の数々。つい最近、『神話の力』からこんなお気に入りの一節が引用されていたので、飛田先生の訳と併記して紹介しておきます ( またまた脱線だが、キャンベルの恩師ハインリッヒ・ツィマーという古代インド哲学の権威と同名の父親は、19 世紀末のケルト学黎明期の権威。ツィマーって、どっかで聞いた名前だな、なんて漠然と思っていたら、こんなとこでつながっていた ) 。

"I think of grass ―― you know, every two weeks a chap comes out with a lawnmower and cuts it down. Suppose the grass were to say, 'Well, for Pete's sake, what's the use if you keep getting cut down this way? ' Instead, it keeps growing." ...

芝生のことを考えてください。ほら、二週間ごとにだれかが芝刈り機で伸びた芝を全部刈り取ってしまうでしょ。芝が、「頼むからよく考えてくれ。あんたがこうしょっちゅう刈り取られたとしたら、どうなると思う ? 」と言ったとしても不思議ではない。でも、芝はそんなことを言わずに、ひたすら伸びつづけようとする。[ ここに私は中心のエネルギーを感じます。] ―― ibid., p. 382

posted by Curragh at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連
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