2012年07月15日

『音楽好きな脳』

 だいぶ前、地元紙朝刊の書評欄を見て気になっていたこの本。いまごろになってようやく読んでみました。著者はもとロッカー → レコードプロデューサー → 認知心理学者・神経学者としてモントリオールのマギル大学で心理学を教える教授先生という、一風変わった経歴の人です。

 「作曲などできない人もいれば、いとも簡単に曲を作れる人がいること」を不思議に感じ、「創造力というものは、いったいどこからやって来るのだろうか ? 心を動かされる歌があるのに、何も感じない歌もあるのはなぜ」かと疑問をいだいた著者は、レコードプロデューサーとして仕事をつづけながらスタンフォード大学の神経心理学の教室に通いはじめる。「ほとんどの科学者は三十歳ともなれば、自分の専門分野で身動きがとれなくなっている。ひとつの分野にあまりにも多くの労力を注いできたために、その年齢になるとたいてい、行き先を根本的に変えるのはきわめて難しい。それに比べて私は何も知らず、あるのは少し古びた物理と数学の基本教育を受けた経験と、新しいことに取りかかれる力だけだった」と「二重螺旋」のクリック博士のことばを引いているように、「少し年齢がいってから科学の道を歩み始めた」。

 いわゆる脳科学ものとか、認知科学ものという本にはたいして関心もなく、「ヒトの脳なんてそんなに単純には解明できっこない」とか、「音楽を聴く / 演奏する / 作る」行為すべてが脳内の働きによるもの、ということがいまいち感覚的にのみこめなかったりするわけですが、それはともかく、こういう寄り道の多い経歴の持ち主でなければけっして書けなかったであろう内容の本であることはまちがいなく言えます。

 みずからテナーサックスやベースを演奏し、音楽がいかに楽しいものかを肌で知っている人の書く読み物だから、少々やっかいな専門術語のたぐいはしかたないとしても、あらたに発見された事実なども織り交ぜられて、読む者を飽きさせない。たとえば小脳と音楽との密接な関係とか、ワタシもふくめて音楽好きならだれしも興味ある ( と思う ) 「絶対音感」をもつ人の脳とそうでない人の脳はどこがどうちがうのか、とか。著者によると「絶対音感」をもっている人の脳は、聴覚皮質の一部領域である「側頭平面」が大きく、これが絶対音感となんらかの関係があるらしい。またいまはやりの「クラウドコンピューティング」よろしく、音楽活動をおこなっているときのヒトの脳は、脳全域にわたって「分散処理」をしているようなものらしい。よく言われる「右脳・左脳」といった単純な線引きのできることではないということがいろいろな例を挙げて語られている ( 「言語処理は主に左半球に局在しているが、イントネーション、強調、ピッチパターンなど、話し言葉の全体的特徴の一部は右半球の損傷によって損なわれる場合が多い」 ) 。Groovy な音楽とは、「タイミングをわずかに外して」いることが心地よいと感じるからであって、そう感じさせるのは前頭葉ではなく、じつは耳 - 小脳 - 側坐核 - 辺縁系という回路を経由していることも教えてくれる。

 とはいえ認知科学はまだ歴史が浅く、ことに「脳と音楽の関係」についてはわからないことだらけで多くは仮説の域を出ないことも率直に認めている。そこここに、「人格と神経構造について言えることのほとんどは、まだ漠然として、ごく一般的なことばかりだ」とか、「なぜ、音楽の ( テクニツクではなく ) 感情という側面で、ある音楽家が他の音楽家を上回るのだろうか ? これは大きな謎であり、その理由をはっきり説明できる人はいない。心を読む脳スキャナーをつけて演奏をした音楽家は、まだ誰もいない。技術的に難しいからだ」みたいな記述も散見される。でもたとえば、「写真や歌をハードディスクにコピーしておき、見たり聴いたりしたいときにダブルクリックしさえすれば、そっくり元の通りの姿で現れる。これはいくつもの階層にわたる変換と融合によって生み出すことのできる錯覚で、私たちにはその過程がまったく見えない。神経コードもこれと同じだ」とか、「新しい曲を好きになるのが難しい理由には、構造的な処理もある。交響曲の形式やソナタ形式、あるいはジャズ・スタンダードの AABA の構造を知らずに音楽を聴くのは、道路標識のない高速道路を運転しているようなものだ。自分がどこにいるのかも、目的地にいつ着くのかもわからない」のように、あちこちに散りばめられている比喩はどれも卓抜で、イメージしやすい。

 もとロッカーで、スティーヴィー・ワンダーやサンタナ、クラプトンといった有名ミュージシャンと仕事もしてきた著者ならではと言おうか、ジョニ・ミッチェルだのレッド・ツェッペリンだの、あるいはパット・メセニーにコルトレーンにエヴァンス、マイルス・デイヴィスといったモダンジャズやフュージョン系までありとあらゆる古今東西の音楽家が引きも切らず出てきますが、聴いたことない曲も多いため、いまいちイメージがつかめず。バッハについては、「無伴奏フルートパルティータ BWV.1013 」での完全 5度以上の跳躍の効果について述べていたりするけれども、クラシックの作曲家についての言及はおしなべて古典期以降。また冒頭の「カトリック教会が多声音楽 … を禁じたのは、聴く者が神の一体性を疑うようになるのを恐れたからだ」というのは勇み足。* 著者の脳裏にあったのはトリエント ( トレント ) 公会議での決定のことだと思いますが、そのすぐあとで中世教会は「増 4度音程を禁じた」云々というのは、誤解を招く書き方だと思う。時代をさかのぼっているし。

 また最後のほうでヴァーグナーにたいする非難めいた記述 ( p. 307 ) があるが、これも恣意的な書き方だと感じます。たしかに性格的にいろいろと問題のあった人だったとは思うが。ついでにマーラーの「5番」のことがちらほら出てきますが、主調以外のキーで終わる交響曲は、たとえばフランクの「交響曲 ニ短調」なんかもある(pp. 296 - 7, 輝かしいニ長調で閉じている)。

 ここまで説得力あるおもしろい記述がてんこ盛りですが、最後の章はなんとなく … 尻すぼみという感じがするのはワタシだけか ? 著者はどうしてもダーウィンの進化論と音楽とを結び付けないではいられないらしい。ここで反論を展開しているのは認知心理学者スティーヴン・ピンカーの主張する、「音楽は進化の偶然、チーズケーキにすぎない」論。前半で、「 ( ピンカーらは ) 人間の音楽知覚システムは本質的には進化の偶然だとした。生き残りのための圧力と性淘汰の圧力によって、言語とコミュニケーションのシステムが作られ、私たちはそれを音楽の目的に利用することを学んだのだという。これは認知心理学者の間で意見の別れるところだ。考古学の記録がいくつかのヒントを残しているものの、そうした問題をきれいに解き明かせる『決定的な証拠』はほとんどない」とさらりと書いていたことですが、終章ではその大先輩の説にまっこうから反論。「進化の偶然」なんかじゃなく、「クジャクの美しい尾羽」とおなじだとし、性淘汰のうえで必要不可欠だったと解く。

 そのことじたいに異論はなし。たしかにティーンエイジャーのころに聴いた音楽というのが、その後の人生においてどんな音楽が好きになるかを決定づけるし、「男性が車や宝飾品に憧れて買おうとするピークが思春期で、性的能力が最も大きい時期であることが、理屈に合っている」。ちなみにアルツハイマー患者はほかの記憶を失っても、十代のときに聴いていた音楽だけははっきり思い出せるものだそうです。ついでに赤ん坊の聴覚システムは完成はされているものの、耳に入ってきた音楽を完全に知覚可能なシステムの完成がだいたい 10 歳くらいまでかかるんだそうで、それゆえ十代のころになにを聴いていたかが後年の音楽の嗜好を決める決定的要因となるみたいです。

 でも「ちょっと待ったー」と言いたい。ヒトが音楽を聴くことって、べつに性淘汰とかなんとか、あんまり関係ないんじゃなかろうか。快楽中枢を刺激するだけの手段、たとえば麻薬なんかがそうですが、門外漢の一読者としてはピンカーの言う「ただのチーズケーキ」のほうが経験的にも近い気がする。ただしここで言う「心地よさ」はその場しのぎの快楽なんかじゃなく、もっともっと深い「心の慰め」です。バッハだって「このような音楽の愛好家の慰めのために」とか、そんな文言を書いていたりする。これこそ、ヒトと動物とを区別する境界線のようにも思う ( 進化学者のグールドの著作は読んでないから、そのへんはよくわからないが ) 。水族館でオルガンを器用に演奏するオタリアだかアシカだかいますが、彼らはみずから進んでそんなことを覚えようとして覚えているわけじゃないでしょう。エサがもらえるからであって、けっして self-taught なわけがない。人間はどうか。はじめはたしかに性淘汰とセットになっていたかもしれず、5 万年ほど前のものとされる絶滅クマの骨を組み合わせた最古の楽器も発見されていることから、言語能力を獲得する以前にすでに「音楽 ( と切っても切れない関係にある「ダンス」 )」は人類とともに存在していたかもしれない。でもわれわれはなにもメスの気を惹きたいから音楽を演奏したり聴いたりするわけじゃないだろう。バッハの音楽なんか、その対極ですよ。自分の心が求めているから、にほかならない。それはほかの目的は伴わない。著者だって、モーツァルトを毎日聴くと頭がよくなる云々の研究にまつわる騒動に「イラつ」き、「たいていの人は音楽教育の存在意義を、音楽そのものにではなく、見返りとして役立つことに見出そうとしているらしい」とも書いているじゃないですか。「人はパンのみに生きるにあらず」ですよ。心のずっと深いところで、バッハのような真に精神的な支えとなる音楽を求めるという音楽好きだっているわけですよ。すくなくともワタシはそうだったな。え ? だれもあんたの意見は聞いてないって ? それは失礼。

 ともあれ、ルビンシュタインのミスタッチのある演奏のほうが、完璧に弾けてもその意味の伝わらない若い演奏家より上だとする批評家の話とか、「ラヴェルは < ボレロ > で音質を作曲の道具に用い、メインテーマを異なる音質で何度も繰り返している。これは脳に損傷を受け、ピッチを聞き分けられなくなってからの作曲だった」とか、「私たちの文化では、音楽のエキスパートとただの音楽好きの間にある溝が広がりすぎて、みんなが弱気になっているのだ。 … 認知神経科学者の研究によれば、そんなことはない。子ども時代にほんの少しでも音楽のレッスンを受けると、まったく訓練を受けなかった人より効率的で発達した音楽処理用の神経回路が作られる」といった書き方は、大好きですねぇ。また、楽器の発音する瞬間の「アタック」を取りのぞくと、いったいなんの楽器だかわからなくなるという実験の話もおもしろいです。アタック部分を取り去って、フルートとヴァイオリンの音をつなぎあわせた音源をこさえたら、なんと手回しのストリートオルガンそっくりの音色になったとか ( pp. 70 - 2 ) 。また、「1 万時間説」というのも登場する。こちらはわりと有名らしくて、なににせよ毎日 3時間の訓練を 10年間、つづけてはじめてものになるとか。その伝でいけばかのマルセル・デュプレは「毎日 10 時間」オルガンの勉強に励んだそうだから、10 年かからずにプロのオルガニスト・作曲家・即興演奏家の域に達したのかな ?? 

 この本はこの手の分野の好きな読み手にとっても、音楽好きにとってもたいへん読みごたえのある一冊と言えると思う。

評価:るんるんるんるんるんるん


* ... 手許のコピーには、以下のようにある。

「すべての事柄を勘案して、ミサは ―― 歌を伴って執り行われようがそうでなかろうが ―― すべてがはっきりと正しい速さで行なわれ、それを聞く人々の耳と心に静かに入いり込むことができるようにすべきである。… オルガン演奏であっても歌であっても、淫なものや不純なものが混入した音楽はすべて教会から取り除かれなければならない」―― 「トレントの公会議、ミサに用いられる音楽についての規定」より

posted by Curragh at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/57060627
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック