2012年07月22日

いまごろになって「天下の奇書」と出会うとは

1). 以前、こんな記事を書いたことがあったけれども、とうとう見つかったようですね、「ヒッグス場 ( こっちの言い方のほうが正しいらしい )」。いろいろ見聞するに、やっぱり昔の人って「当時なりのやり方で」この世界、ひいてはすべての存在の根源たる宇宙というものを意識し、理解しようとつとめていたんだなあ、とつくづく感じます。当たり前のように聞こえるかもしれないが、世界各地の創世神話って、たいてい「混沌」からはじまり、秩序あるこの世界、時間に縛られたこの世界というものが「神」によってこさえられたとかって、出だしですよね。アイルランドの場合、そもそもの世界の成り立ちを語る創世神話はないみたいですが、たとえばわが国の『古事記』なんかを見ますと、

 ―― 夫 ( そ ) れ混元既に凝りて、気象未だ効 ( あらは ) れず。名も無く為 ( わざ ) も無し。誰か其の形を知らむ。

とか書いてある。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」は、「創世記(1:1-2)」。キャンベルの『神話の力』には、アリゾナの原住民ピマ族の神話と『ウパニシャッド』からこんな引用が出てきます。「初めに、至るところに闇だけがあった ―― 闇と水だけが。やがて闇がところどころで固まり、厚くなった。集まっては別れ、また集まっては別れ …… 」。… 「初めに、大いなる自我だけがあり、それがひとりの人間の形として映っていた。映っているそれが見いだすものはそれ自身でしかなかった。そして、その最初の言葉は『これは私だ』であった」。… キャンベル先生の好きな ( ? ) グノーシス派の『ナグ・ハマディ』には、こんな文書も収められている。

 「… 私はそれらの ( 文字を ) 、肉なるものの創造に役立てるために与えたのである。なぜなら、その者なしでは何物も存在できず、そのアイオーンが生きることもできないからである」―― 「われらの大いなる力の概念」から。引用出典は岩波書店刊行の『ナグ・ハマディ』叢書最新刊から(p.114)。

 そういえばこんな画像も見かけた。その伝でいけば、さながらヒッグス粒子は「これはわたしだ」と言った大いなる極小の自我だ、というふうにも言えるかも。ついでにグノーシス関連で調べ物をしていたら、いつのまに岩波書店は『ナグ・ハマディ』叢書の最新刊としてチャコス写本の「ユダ福音書」邦訳を出したんだろうか。図書館で見つけてびっくらこいた ( 上記引用した本です ) 。ついでに 'MASS' は、「質量」と「ミサ」を引っかけている、なんていうのは不要な説明かもしれないが。

2). 最近、空いた時間を「翻訳演習」と称して比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルのさまざまな著作から適当に拾いあげて ( FB のフィードや手許の本から ) 、気に入った部分を我流に試訳をつけたりして過ごしてます ―― へたくそなバッハの練習もどきみたいなものも織り交ぜながら ( 最近は暑いしくたびれるので、こっちのほうはあんまりやってない ) 。既訳本が手許にあれば、自分の学習のため、そちらも書き写してます。なんでそんなことやってんの ? と言われても、やってる当人にもよくわかんないです ( 苦笑 ) 。「写経」みたいなもんですかね。

 しばらく前より、手許にあるキャンベルの『神の仮面 第 3 巻 西洋神話』コピーから、アイルランド関連のページとか読んでまして、ついでに著者による「あとがき」も読んでいたら、あにはからんや、あの天下の奇書、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用で締めくくられていた ('utterly impossible as ...' ではじまる最初のパラグラフ最後の文)。

 … うむむ。なんなんだ、この呪文みたいなのは ?? というわけで、手っ取り早くいま借りている本を返しに図書館に行ったついでに、日本語版『フィネガン I 』を借りてきてしまいました。とりあえずパラパラ繰ったら … !!!!! これ、すごすぎです。キャンベルは若かったとき、『「フィネガンズ・ウェイク」を読み解く親鍵』といういまだに利用されつづけている解読本みたいなものを出版していますが、いやあ、ヤナセ訳はぶっとびですね。なんと注釈はひとつもなし ! これならなんとか「20 世紀文学の最高傑作」に数えられるこの奇天烈な物語を解読、いや快読 ( ? ) できそうな気がしてきた。

 机上のノートPC の両脇にはいま読んでる本とか積んであるんですが、そんな一冊がその柳瀬先生のものされた『辞書はジョイスフル』という本。1994 年刊行というから、奇しくもキャンベルとモイヤーズの対談を NHK 教育の「海外ドキュメンタリー」にて視聴し、はげしい衝撃を受けたころに買った一冊ということになる。まだ Windows 95 も Web も Google 先生もなかったころ (当時出たばかりの『リーダーズ』電子辞書版は万札はたいて買っていたけど)、たったひとりで『フィネガン』を邦訳しようと愛猫とともに「航海」に乗り出した柳瀬先生。『聖ブレンダンの航海』みたいに 7 年半かかってフランス革命の記念日に脱稿したというのだから、ご友人の清水ミチコさんの言い方を借りれば「世界初の活字芸人」による、まさしく「偉業」です。

 いま、ひさしぶりに『辞書は … 』を読んでみると、おもしろい話がそれこそ本からあふれ出そうなくらいのてんこ盛りで、内容的にはちっとも古くなってない。たいてい名翻訳家というのは、偏執的なまでに辞書好き、辞書オタク、ギークなんである。柳瀬先生は当時出たばかりの CD-ROM 版『広辞苑』をワープロに入れて使用していたらしい。多種多様な言語がごった混ぜになっている『フィネガン』の翻訳に、なんと日本語の持つ多種多様な「表意」を「視覚的に」見せようとする斬新な発想による前代未聞の技法を編み出して個人全訳を成し遂げています。↓ は、その冒頭部のヤナセ訳。

川走 ( せんそう )、イヴとアダム礼拝亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り道を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇 ( H.C.E. ) たるホウス城とその周円。

原文: riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

[ 注:冒頭の riverrun は誤植ではない。思うに、「ゴルトベルク」とおなじく、「ずーっとひとすじにおわりのいとしいえんえん」で終わる巻末から、またひっくり返ってもどること、円環を暗示しているのではないか ? とこれはワタシの妄想 ]

ありがたいことにこのヤナセ訳、原本のノンブルまでご丁寧についてまして、問題の箇所がすぐわかった。そしてこれは前にも書いたことだけど、アイルランド人の体にはこういう血が流れているのだろうか。中世アイルランドの生み出したトンデモ物語としてたとえば『マッコングリニの夢想』などがありますが、ジョイスの『フィネガン』は、さながら中世のパロディ『西方風の語り ( Hisperica Famina ) 』の 20 世紀版といったところだろうか。英語力にとりわけ自信のある方はとくに、 ↑ でリンクした箇所とか、読んでみてください。一読しただけで、もともと英語という言語の持っている「可塑性」に加え、ジョイスの地元アイルランド・ゲールはおろか、印欧諸語族はじめ、トルコ語や、なんと日本語の「武士 ( !!! ) 」まで英語化して溶かしこんでいる。柳瀬先生言うところの「ジョイス語」、造語のたぐいもすごいが、こうした多義的な「かばん語 ( portmanteau words ) 」の大洪水です ( Hispericaじたいが、「ヘスペリデス」と「ヒベルニア」を引っかけた当時のかばん語だという ) 。そういえば『神話の力』には『親鍵』について、キャンベルがあとで知ったという、この作品にこめたジョイスの真意が明かされている箇所がありますが、まさしく全人類の歴史が一夜の悪夢として凝縮されている、そんなとてつもない作品です。そして、ここがいちばん肝腎なところだが、ヤナセ訳は読んですこぶるおもしろいです。

 アイルランド・スコットランド関連だけでもかばん語化した箇所はそれこそ引きも切らず。「ブレナン峠」なんていうのまで出てきます ( おそらく聖ブレンダンにちなんだ地名として ) 。ほかにも「フォ猛烈 ( モーレつ ) どもがツアー歯・デ・ダーナンを砕き、… 蹴ヴィンと天上へ投げ上げ、… 」、「ギャローうぇーっと侃々諤愕」、「同ルイッド同志」や「フィ似アン同志」とか、「愛和ランド」、「燃エール本海」、「ブラン、ブラン、カンブラン ! 」以下省略 … 。

 柳瀬先生は、『辞書は … 』の「まえがき」で、こんなふうに書いてます。
 
まず、おそろしくものを知らない。だから、しょっちゅう辞書を引く。
 そして、翻訳という仕事をやっていると、しょっちゅう知らないことに出くわす。だから辞書を引く。
 … とりわけ七年半の時間とエネルギーをつぎこんだジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の全訳作業中は、連日連夜、寝ても醒めても、言葉を探しに探さねばならなかった。だから辞書を引きに引いた。

 この本には柳瀬先生のインタヴュー記事の切り抜きも差しこんであって、そっちは 1996 年のもの。「現代に問う『ユリシーズ』」という見出しで、12 章に出てくる謎の語り手が『オデュッセイア』にも出てくる「犬」であることを突き止めた話とかが載ってました。で、翻訳について、こんなことを語っています。
 「注釈本の翻訳を並べるなら、それはもう翻訳ではないんですね。翻訳というのは、注釈を参照しながら、批判を加える往復運動。注釈を取捨選択し、自分の読みを確認しながら、注釈をなんらかのかたちで日本語に反映させたり、溶かし込む、という方法を僕は取っているつもりです」。

 実例として、Throwaway のことば遊びを引きあいに出しています。競馬新聞を「うっちゃる」動詞の throw away と、馬名の Throwaway 。ヤナセ訳ではそれぞれ「もういらない」、「モイラナイン」に置き換えている。これについては、
 「そこは、そう変えなければ生きのいい会話がどうしても出てこない。そういう構造や、仕組み、トリックなりが翻訳できないようであれば翻訳ではないんですね」。

 ヤナセ訳で『フィネガン』を読んでいると、なんというか、心地よいリズムが感じられます。字面の見かけは英語ながら、そのじつ重層的な意味ないしは多国語も響いてくるというわけで、音楽でいえば英国のトマス・タリスの「 40 声のモテット」みたいな、「ことばの織りなすポリフォニー」のような作品じゃないかと思えてきます。そういえばジョイスという人は、じつはピアノも玄人はだしだったらしい。

 柳瀬先生の不断の、ふだんの努力もさることながら、これぞキャンベルの言う「至福を追い求めよ」の典型的な一例、と言えるのかもしれない。

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