2007年10月06日

修道院と聖堂参事会

 ふたたび備忘録がわりの覚え書き。西方教会とくに中世イングランドにおける、修道士と在俗の聖職者組織である聖堂参事会員の関係についてすこしだけ。

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 西暦597年6月、聖コルンバ(コルムキル)はみずから建てたアイオナ島の修道院内礼拝堂で真夜中の日課のとき、祭壇前で法悦状態となり、仲間の修道士に洗礼を施したあとに天に召されたと伝えられている。ちょうどときおなじくして、アイオナのはるか南、イングランド・ケントの東岸に浮かぶ小島サネット(Isle of Thanet)に教皇大グレゴリウス1世が派遣したオーガスティン率いる宣教団が上陸、ブリテン諸島にはじめてローマカトリック教会の地歩を築きはじめた。北のスコットランドや南西部ウェールズではすでに修道院を中心にすえるアイルランド人のケルトキリスト教が根付いていたが、ウェールズのケルト人聖職者は自分たちを追いやった侵入者であるデーン人やアングル人、サクソン人を嫌っていて宣教活動をしなかった。ケント王エセルバートは妻ベリータがすでにカトリック教徒だったこともあり、王もオーガスティンから受洗し、カトリック教徒となった。このときロンドンにイングランド最初の司教座が置かれたものの、ここを拠点としての布教活動は成功せず、けっきょくカンタベリーに設立されたオーガスティン修道院に「全イングランドの」司教座が置かれることになる(現在の英国国教会総本山カンタベリー大聖堂は廃墟となった修道院跡地の近くに建つ)。

 このころローマカトリック教会はガリアなどローマ帝国植民地内で司教を頂点とする教区制度を確立、信徒の司牧は彼ら在俗聖職者たちの仕事になった。都市が発達しつつあった大陸ではローマ教皇以下階級化された聖職者集団が各教区を割り当てられ、また蛮族の王たちも彼らをうまく取り込んだほうが都合がよかった。同時に「清貧・貞潔・従順」の修道誓願に束縛される「修道士」も彼ら在俗聖職者とともに存在した。パコミオスのはじめた共住修道制度は地中海のレランス島の修道院を経由してミラノやガリアのトゥールにもたらされ、やがてそれは遠くアイルランドにまで波及する。当時のアイルランドは群雄割拠する小王国の集まりで、都市さえないありさま、そんな状態では西方教会側の司教を頂く教区制度は馴染めず、けっきょく牧畜中心の小村落そのままの修道院集落となり、各地の領主一門が修道院長を兼任する場合も多く見られた。

 大陸では西ローマ帝国滅亡の混乱のさなか、アイルランドやブリテン諸島から宣教団が上陸、道徳的に退廃していた当地の教会建て直しに貢献するとともに、各地に修道院をつぎつぎと建てていった。その代表格が聖コルンバヌスやイングランドの修道院育ちの聖ボニファティウスだったが、とくにコルンバヌスはガリア各地で司教たちと衝突、ガリアから追い出されたりもした。このころ各地の修道院では独自の「規則」が存在しており、コルンバヌスもみずから修道規則をものしている。とはいえ「上長に口答えしたら鞭打ち50回」とか度を過ぎた節食とか、あまりに過酷な懲罰をふくむ彼の修道規則は極端すぎて、もっと中庸かつ常識的な規則が必要とされてもいた。またアイルランド人修道士に特有の「遍歴」も批判にさらされるようになり、大陸の修道制はしだいに「一箇所への定住」を求められるようになる。「ベネディクトゥス会則(戒律)」がしだいに西欧の修道制度でひろく採用されはじめたのはそんな時代背景も影響した*。6世紀末ごろにはローマで、尊者ベーダの記述によれば8世紀までにはイングランドで、そして12世紀にはモン・サン・ミッシェルでもこの「ベネディクトゥス戒律(以下、戒律)」に従う修道院が出現した。ローマ教皇側からすれば、この「戒律」は修道院共同体を自分の配下に置くという点において好都合だった。こうして在俗聖職者と修道士は方向性は異なるもののともにおなじローマ教皇を頂点に頂く西方教会の組織に組み込まれ、それゆえ世俗の権力闘争に巻き込まれることも多くなったり、また在俗信徒にすぎない領主一門が修道院と所領を私物化するなど、しだいに修道制度そのものが堕落してゆく。修道院の世俗化に歯止めをかけるべく大陸では改革の動きがひろまった。最初の波は11世紀のブルゴーニュ・クリュニーから、つづいて12世紀にはシトー会が設立され、ともに教皇直属の修道会として隆盛を誇る。クリュニーもシトーも改革修道会だったが、クリュニー系修道院はあまりに典礼重視で華美な傾向に走り、教皇直属組織ということで世俗権力の干渉も受けず、結果的に富の蓄積を招くという皮肉な結果に陥った。これを批判した勢力は「聖ベネディクトゥスの理想に帰れ」を旗印に掲げて当時未開の地だったシトーに修道院を創設、こちらは典礼重視のクリュニーとは反対に質素・倹約、修道士の労働を重視した(音楽史から見ると、トロープスやセクエンツィアといった歌唱形式は典礼重視のクリュニー系修道院で発達したもので、オルガヌムなど初期多声音楽の発達へとつながる)。

 800年、カール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝として戴冠して以降、世俗王権側はその正当性を後ろ盾するものとして、教会側は宣教拡大の手段として、たがいにその力を利用しあうようになる。教皇は西欧における事実上のキング・メーカーになった。修道制度が俗人修道院長をいただくなど堕落していた8世紀、同様に堕落していた在俗の聖職者たちのあいだからも改革運動の声があがり、一部は「使徒たちの生き方(Vita Apostolica)に倣え」と主張。カールの父ピピンがフランク王だったとき、メッツ(現在のロレーヌ地方メス)司教でピピンの近親でもあるクロデガングは755年ごろに自分の司教座聖堂の聖職者のために「戒律」をアレンジした34項目からなる独自の規則(Regula Canonicorum)を制定したり、816年にはアーヘンでおこなわれた帝国会議における取り決め(「アーヘンの参事会員規定」)などにより、聖堂運営と司牧にあたる参事会員にも修道士にかなり近い「規則」で拘束するようになる。この動きはカール大帝の時代にフランク帝国全土にひろまった。

 初期教会時代には修道士も在俗聖堂参事会員もともに共同体をなしていたが、後者は雑事が増えるとともに若年者の面倒がみられない、あるいは聖職録保持者という名目のみでじっさいには聖堂にとどまっていない「幽霊」参事会員が増えるなどして急速にすたれていった。またフランク王国の分裂以後、聖職売買が横行したり、皇帝が教皇選挙権を牛耳ったりと西方教会じたいが世俗権力の手に握られすっかり弱体化していた。そこで教皇レオ9世みずから教会改革に乗り出した。グレゴリウス7世の在位期間中に頂点に達する一連の改革運動の結果、清貧と隠修士的な理想を求めたプレモントレ会やカントゥジオ(シャルトルーズ)会などが成立する。教皇グレゴリウス7世は、それまでの「古い」規則であるクロデガングの参事会員規則やアーヘンの規則ではもはや不十分と考え、在俗の聖堂参事会にたいしては「アウグスティヌス会則」と呼ばれる、聖アウグスティヌスがヒッポの男女聖職者に宛てたと伝えられる一連の書簡をもとに再構成した規則をあらたに制定した(アウグスティヌスの真筆と推定されるのは一通のみらしく、結果的に「戒律」とは異なり各地の参事会で内容にかなりのバラつきがあった)。この「会則」に従う聖堂参事会員は修道士と同等とみなされて「律修」参事会員と呼ばれるようになり、11世紀以後、おもだった都市大聖堂を運営する組織も従来の在俗聖堂参事会(Secular Canons)、アウグスティヌス会則にもとづき誓願を立てたアウグスティノ律修参事会(Regular Canons)、そして共住聖職者教会(修礼教会、Collegiate Church)とに分かれるようになる。

 いっぽうイングランドではベネディクト会修道院が発展していた関係上、同会の修道院ならびに司祭でもある修道士が運営する「大聖堂修道院Cathedral Monastery」が独自に発達した。聖堂を運営するのが在俗聖職者のときはその聖堂は「司祭参事会聖堂」、「アウグスティヌス会則」に従うアウグスティノ律修参事会員のときは「修道参事会聖堂」と呼ばれる。中世イングランド各地の大聖堂のうち約半数がベネディクト会修道士司祭の司牧する「修道院付属の大聖堂」もしくは「大聖堂として機能していた修道院」だった。また970年ごろ、ウィンチェスター司教エセルウォルドら3人の司教が開催した教会会議で、「戒律」を下敷きにRegularis Concordiaと呼ばれる修道士・修道女向けの規定を独自に編纂してもいる。

 以下、中世イングランド司教座つき聖堂のおおまかな内訳。

1). 在俗司祭参事会運営の大聖堂:エクセター、チチェスター、バンゴール、ソールズベリ、ヘレフォード、リンカーン、ヨーク、ロンドン(セントポール)、ウェルズ、リッチフィールド。

2). ベネディクト会運営の大聖堂修道院または修道院付属聖堂:カンタベリー、ダラム、イーリー、ノリッジ、ロチェスター、ウィンチェスター、ウースター、チェスター、グロスター、テュークスベリー、ピーターバラ、セントオールバンズ、ラムジー(女子修道院)など。

3). アウグスティノ律修参事会運営の修道参事会聖堂:ブリストル、ヘクサム、セントフライズワイド(現オックスフォード・クライストチャーチ)、サザック、カーライルなど。

4). 司教座のない、たんなる共住聖職者教会:ペヴァーリミンスター、サズルミンスター、リポンミンスター、ベリーセントエドマンズ。

* …「戒律」が事実上の修道会則の標準になったあとも、従来の修道規則との混合規則だったり、また「戒律」の精神を受け継いだクリュニー系修道院では独自に条項を追加するなどしたため、厳密な意味では「唯一絶対の」修道規則というわけではなかった。おなじベネディクト会修道院でも大陸とイングランドではその内容が異なっていたりと、「戒律」普及の歩みはきわめて遅かった。

*... いちおう参考文献など(一部書籍は本家サイト「参考文献」ページ掲載のものとダブっています)。このほかにも記事作成のさい参照したWebサイトや雑多な切り抜き・コピーあり。

今野國雄著『修道院――祈り禁欲・労働の源流』岩波書店、1981.
朝倉文市著『修道院』講談社現代新書、1995.
ライオンパブリッシャーズ編『キリスト教2000年史』井上政己監訳 いのちのことば社、2000.
トマス・ケイヒル著/森夏樹訳『聖者と学僧の島』青土社、1997.
ポール・ジョンソン著/別宮貞徳監訳『キリスト教の二〇〇〇年 上巻』共同通信社刊、1999.
Alan Mould, 'The English Chorister: A History', Hambledon Pr., 2007.
J.ハーパー著/佐々木勉・那須輝彦訳『中世キリスト教の典礼と音楽』教文館、2000.
『ルネッサンス・バロック音楽の世界――バッハへ至る道』芸術現代社 音現ブックス5, 1981.
J.バラクラフ編/上智大学中世思想研究所監修『図説キリスト教文化史 I/II』原書房、1993.
石原孝哉・内田武彦・市川仁著『イギリス大聖堂・歴史の旅』丸善、2005.
今谷和徳著『中世・ルネサンスの社会と音楽』音楽之友社、2006.
K.S.フランク著/戸田聡訳『修道院の歴史――砂漠の隠者からテゼ共同体まで』教文館、2002.
志子田光雄・富壽子著『イギリスの修道院――廃墟の美への招待』研究社、2002.
 
posted by Curragh at 23:45| Comment(8) | TrackBack(0) | 歴史・考古学
この記事へのコメント
これはじっくり読ませて頂かなければ・・・と思ううちに日が過ぎていってしまいました。今朝やっと、通読しました。
遅かりし、由良之助!

どんな史料をもとに、ここまでお読み解きになられるのですか? ただ、驚嘆しております。

キリスト教関係の通史は、僕はそのものズバリのタイトルの「「キリスト教史」(平凡社ライブラリ)を必要に応じて買って来て頼る以外に手だてを知らないのですが、これだけでは不足だなあ、と思いつつ読んでいます。などとエラそうなことまでは本当は言えませんで、まだ3巻の途中で止まっているのですが。。。
イングランド系の記述はここまで体系だっていませんで、ただ「ミンスター」とは修道院聖堂のことを言う一般的な用語だったことが印象に残った程度でした。

適切な日本語文献があればご教示頂けるようでしたらありがたく存じます。

>トロープスやセクエンツィアといった歌唱形式は典礼重視のクリュニー系修道院で発達した

という明確な認識も、私は持っていませんでした。
ありがたく存じました。
Posted by ken at 2007年10月14日 08:50
ご要望におこたえしまして、参考文献などを挙げておきました。

クリュニー系修道院は、たとえばその建築様式とかの写真を見れば感じられるように、華美に走っています。日々の聖務日課にあまりに偏ったためにふたたび改革派のシトー会系修道院が登場するわけですが、こと音楽にかんして言えば、トリエント公会議で廃止されるまでのあいだ、個人的・共同体的な祈りの一部をなした一連の声楽曲を生み出したのはおもに北フランスのクリュニー系修道院だったと言われています。逆にシトー会系修道院は音楽については単調な詠唱中心だったようです。いずれにせよそんなシトー会も所領経営による財産の肥大化で本来の理想とはかけ離れ、托鉢修道会に取って代わられるのですが。

セクエンツィア(続唱)については、やはりクリュニー派修道院だったザンクトガレンのノトケルNotkerらが有名です。ザンクトガレンももとはアイルランド人修道士聖ガルスが建てた修道院(と言っても庵に毛が生えたようなものですが)にルーツがあります。ガルスはもともと聖コルンバヌスのお供のひとりでしたが、コンスタンツ(ボーデン)湖畔にさしかかったころ病気になり、師匠とけんかしたあげく、ここにひとり取り残されたというこぼれ話つきです。
Posted by Curragh at 2007年10月15日 02:23
もうひとつだけ。minsterは後期ラテン語の「修道院」が訛って定着した語らしいです。もちろん意味はおっしゃるとおりです。
Posted by Curragh at 2007年10月15日 03:05
アイルランドから大陸に流出した修道士や写本の事を知りたくて、”ポッビオ”という場所を探していた所、このサイトを見つけました。貴サイトとても面白く拝読させて頂きました。(まだポッビオは見つかっておりませんが・・)
流出の原因として、「西ローマ帝国の滅亡とその後の混乱」が関わっていると書いておられ大変勉強になりました。これほど多くの修道士や写本技術が、何故、この時期に、大陸へ、 と向かったのかとても興味があります。 私の想像は、バイキングなどの度重なる攻撃で海辺の部分の裕福な都市が荒らされ、「海辺」ではない「内陸」へと向かったのかと幼稚な想像をしておりました。
また、今後もこのサイト読ませて頂きますね。
Posted by まま at 2010年07月23日 15:43
ままさん

コメントありがとうございます。m(_ _)m

ポッビオではなくて、北イタリアのボッビオ(Bobbio)のことだと思います。コルンバヌスゆかりの地ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%93%E3%82%AA

なおコルンバヌスについては、以下の本も参考になります。

盛節子著『アイルランドの宗教と文化――キリスト教受容の歴史』 日本基督教団出版局

アイルランド人修道士の大陸宣教についてはコルンバヌスなどの例を見ても明らかなように、ノースメンの襲撃以前からさかんに行われていました。8世紀になって「ケーリ・デ」の修道院改革運動が起こると、逆に大陸への遍歴が禁止されたりしました。「ケーリ・デ」については、拙サイトのコラムもご参照ください。

http://curragh.sakura.ne.jp/endofcelticchurch.html
Posted by Curragh at 2010年07月24日 17:59
はじめまして。素晴らしい記事ですね。非常に参考になりました。

ところで、「律修」参事会員についてなのですが、朝倉文市著『修道院』(講談社現代新書)では(p.169)、司教座聖堂参事会員が「修道士ではない」ことと区別して、「司教座律修(修道)参事会」は「修道士の集団」としています。「したがって、彼らは誓願(清貧・貞潔・服従)を立てている」(p.169)という記述もあります。

ところがネットで調べると、こちらのサイトのように「律修」参事会員とは、「修道士と同等とみなされ」た聖堂参事会員のことであるとしているところもあって、一体どちらなのだろうと、とまどっております。

もしよろしかったらご意見をお聞かせ願えないでしょうか。
Posted by 飯食わぬ犬 at 2011年08月28日 01:06
飯食わぬ犬さま

コメントありがとうございます。m(_ _)m

『修道院』p. 228 の図表では (たいへん細かい字ですが) 、「『律修聖職者(修道聖職者)』Regular Clerks は、修道士なみの戒律に従って聖務日課をおこない共同生活をしているが、司牧活動をする司祭の集団でもある」と書いてあります。11世紀以降、「あたらしい制度」として「聖アウグスティヌス会則」に縛られたあたらしい修道者組織(アウグスティノ律修参事会系)に属していたので、そのように書かれたのではないかと思います。これらの組織形態については英国など各地方でばらつきがありますが、アウグスティノ律修参事会に属する場合は、「司牧も担当する修道士」と考えてもさしつかえないと思います。
Posted by Curragh at 2011年08月28日 20:36
お返事、ありがとうございます。

おっしゃる通り、やはり地方によってばらつきがあるものを、無理にかっちり枠にはめて理解しようとしない方がいいのかもしれないですね。とりあえず聖アウグスティノ会則に縛られた律修参事会という面白い立ち位置の集団、みたいな感じで考えておくことにしました。

こちらのブログも聖ブレンダンの方も非常に興味深く読んでいます。
Posted by 飯食わぬ犬 at 2011年08月29日 01:40
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