2012年08月14日

いまもあたらしいグールド

1). 今週はちょうど旧盆期間。早朝の「深夜便」ではもうすぐ命日のプレスリーとかかかってまして、うつらうつらしながら聴いてたんですが、いま NHK-FM では「グレン・グールド変奏曲 〜 名盤を通して知る大ピアニスト」というおもしろい番組をやってます。で、以前から、「あ、今年はグールドが 50 ( ! ) で急逝してからちょうど 30 年目なんだ … 」とか漠然と感じてはいたものの、そうか、生誕 80 周年でもあったんだ、といまごろになって気づいた ( 激遅 ) 。

 いま手許に図書館から『フィネガンズ・ウェイク I 』といっしょに借りてきた『文藝別冊 グレン・グールド』というバッハ没後 250 年にあたる 2000 年に刊行されたムックがあるんですが、この中に去る 5 月に亡くなられた故吉田秀和氏の「グールド讃」という文章が転載されてます。そういえばこの前、こちらの番組で吉田秀和氏のことを取り上げていて、その中で使われていた「… このことに関しては、自分ひとりでも、正しいと考えることを遠慮なく発表しようと決心した」という一文が、じつはこの「グールド讃」からの引用だった。あらためて読んでみると、なにかこう、グールドの直感的でありながら作品の本質をずばり突いたような演奏解釈と相通ずるところがあるなあ、と感じた。たとえば、ウィーンのさるピアニストがクラヴィコードでスカルラッティを弾くのを聴いた吉田氏は、グールドがピアノによるバッハ作品演奏で表現したかったのは、チェンバロでは「本来果たすべきなのに構造上の理由で果たせない、その音質を手に入れるためにピアノを」用いたと鋭く指摘している。「グールドのピアノは、よほど特異である」。こういうことを書いた人って、1965 年当時では吉田氏ただひとりだったかもしれない。また、グールド自身によるライナーの解説についても、「… 彼自身の解説は比類なくすぐれたもので、凡百の解説の水準をはるかに抜いている点で、彼の演奏と同様の性格をもっている」ことも指摘している ( 「バード & ギボンズ作品集」に付されている解説を見ておどろいた自分としても、これはまったく同感 ) 。

 「直観が論理となっているばかりでなく、秩序が直観を導いている」。だからグールドの演奏は、一見いや一聴するとすごく奇矯に聴こえるけれども、とても新鮮かつ説得力ある解釈だということがわかってくる。もっともグールドだって人の子、たとえば ―― オルガンとピアノというちがいはあるが ―― おんなじ「コントラプンクトゥス 1 ( 「フーガの技法 BWV.1080)」を弾いても、若かったころの録音と最晩年の録音ではまるで様相が異なる。もっとも個人的には、ブツブツ切って、なんだかあいだに休符でもあるかのような徹底したノンレガート奏法の解釈も、消え入るような最弱音の出だしとやたらゆっくりしたテンポに支えられた最晩年の演奏も、どっちも好きではあるが。最近、「バード & ギボンズ」のほうは聴いてなかったから、ひさしぶりに聴いてみようかと思う。

2). というわけで、「グレン・グールド変奏曲」を聴きつつ、前にも書いたヤナセ訳『フィネガンズ・ウェイク I 』をようやく読み終えた。まだ I 巻だから、もちろん II, III - IV と読み進めるわけなんですが、これ読みはじめたらまともなものが読めなくなりそう ( 苦笑 ) 。内容もそうだけど、とにかく目だけでなく、アタマもどうにかなりそう。なんと「ブレンダンの鯡沼むこうのマークランドの葡萄土では … 」なんてくだりまで出てくるじゃないですか。この前、鶴岡真弓さんが ETV の番組に出ていたけれども、その鶴岡さんの『聖パトリック祭の夜』という著作にも書かれていたかどうか … 本棚の奥深くにあって取り出せないからなんとも言えないが、たしか『フィネガンズ・ウェイク』にも聖ブレンダンが言及されているという指摘があったような気が ( ? ) する。

 にしてもようやく読み切った巻その一。かばん語、ジョイス語、ヤナセ語のオンパレードで、ただただもう圧倒されっぱなし。こちらの記事にあるようにもともとこれは 19 世紀後半にはやった俗謡みたいで、下敷きになっているのはケルト神話上の人物フィン・マクールということらしい。で、ひじょうに筋がたどりにくいのがこの難物の特徴ではあるけれども、いちおう主人公はパブのおやじハンフリー・チムデン・イアウィッカー ( H.C.E. ) と、その妻アナ・リヴィア・プルーラベル ( A.L.P. ) 。このふたりはむしろ H.C.E. と A.L.P. の通り名で頻繁に出てくる ―― それもひっくり返ったり、変形されたり、変身したり、さまざまなかたちとなって変奏、変装、変裝する。

 比較神話学者キャンベルも書いているけれども、H.C.E. は 'Here Comes Everybody' だというのはわりとよく知られている事実で、ようは人類すべて、あなたもわたしもみんなにもあてはまる物語、みたいなふうにも読める。キャンベル本を読むとよく出てくる「中世宮廷もの」のモティーフ、たとえばアーサー王の円卓の騎士の話とか、「トリスタンとイズー」の物語なんかも彷彿とさせるし、げんに後者はそれとなく何度も登場する。

 キャンベルの大作『神の仮面』については前にもすこし書いたけれども、とりあえず『西洋神話』の巻は邦訳されているものの ( あいにくそのできは … あんまりよろしくない ) 、全四巻のうちいちばん興味を持っていた最終巻『創造的神話』はどこの版元からも出そうになく、かつどなたも邦訳してくれないみたいなので、手っ取り早くまたしても Amazon にて買ってしまった。本文だけで 678 ページ、こんなもんはたして読み通せるのかどうか … はさておいて、Ch.5 はなんとその『フィネガンズ・ウェイク』を軸に書かれていて、あれまこんな偶然ってあるのねぇ、と止まっていたしゃっくりがまた出てきた ( 笑 ) 。

 … ヤナセ訳では「すっティんペラリー」だの「フー・イズ・シルヴァー ( これってシューベルトの「シルヴィアはだれ ? 」のもじりなのか ?? )」だの、そしてたしか「シューラ・ルーン」まで出てくるこの巻その一、なんとなんとあのバッハまで出てくるじゃないの !! 「 … ピアノ相手にバツハカリヤからブルース迄ぼいんぼろろんとやつてからシユヴアイツアの寝臺下に注意深く崩れ落ち」!!! なおこの章だけなぜか旧字体と旧かなづかいで書かれてゐる ( ここは A.L.P. のことばを手紙にしたためた書き手である息子の「筆男シェム」について書かれてある … ように思う ) 。問題の部分は、バッハとパッサカリア ( BWV.582 ) の合体形じゃな。ちなみに『神の仮面』の「あとがき ( 正確には、全巻完成に寄せて書かれたもの ) 」に出てくる引用箇所のすぐあとで、その A.L.P. の書かせた手紙を「肥え場」で発見したのが「かの原罪雌鶏」。ついでにキャンベル本でよく引用される『西洋の没落』の著者名が、「 … 新イタリア学派あるいは古パリ學派の思裝家や朱ペングラつき家たちの言い分をここで訂正しておかねばならない」として登場している。ついでに巻その一最終章は、なぜか世界中の河川名がそこここに溢れている。A.L.P. =リフィー河ともとれるので、そのつながりか ? あと、個人的に絶句したのはつぎの箇所 → 「 … われは、と北 ( ほく ) に在ルスターがいう、そしてそれが誇りなり。われは、と南岐のマンスターがいう、難儀なるわれを救いたまえ ! われは、と東方のレンスターがいう、そして当方何も語らず。われは、と西に来ナートがいう、何のことなーと ? ( p.118 ) 」。

 … ヤナセ訳のほかにも抄訳ものとか、ほかにも邦訳はあってそっちもおおいに興味あり ( そしてこっちの本も ) 。とにかくこのとんでもない傑作を最終巻まで読んだ暁には、ただでさえおかしいアタマがいよいよ本格的にどうにかなりそう … な気はする。なんというか、「毒を食わらば皿まで」てな感じですかね。もうあとは勢いよ ! 

posted by Curragh at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | NHK-FM
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