2012年12月30日

ひたぶるに長い老いを生きるとは

 今年は内外を問わず、ほんとうに多くの著名人と呼ばれる方々が物故されてしまった、そんな印象のつよい一年でもありました。とりわけ音楽関係者の訃報がひじょうに目についた感があります。玉木宏樹氏 ( 69歳、1月8日 )、別宮貞雄氏 ( 89歳、1月12日 )、グスタフ・レオンハルト氏 ( 83 歳、1月16日 )、ホイットニー・ヒューストン氏 ( 48 歳、2月11日 )、モーリス・アンドレ氏 ( 78歳、2月25日 )、畑中良輔氏 ( 90歳、5月24日 )、尾崎紀世彦氏 ( 69歳、5月31日 )、ブリジット・エンゲラー氏 ( 59歳、6月23日 )、ジョン・ロード氏 ( 71歳、7月16日 )、ルッジェーロ・リッチ氏 ( 94歳、8月6日 )、カルロ・カーリー氏 ( 59歳、8月11日 )、イアン・パロット氏 ( 96歳、9月4日 )、桑名正博氏 ( 59歳、10月26日 )、エリオット・カーター氏 ( 103歳、11月5日 )、本田武久氏 ( 41歳、11月28日 ) … 。心から各氏のご冥福をお祈り申し上げます。個人的になによりもびっくりしたのは、前にも書いたがやはり年明け早々のレオンハルト氏の訃報だったが、いま Wikipedia の訃報データベースを参照していたら、なんと米国のオルガン・エンターティナー、お相撲さんのような巨漢のカルロ・カーリーさんまで亡くなっていたことがわかり、しばし呆然。しかも行年 59歳というのは、どう考えても若すぎる。バッハより先に逝ってしまった。いまごろ両氏はバッハと語らっているのだろうか。

 そして、われわれクラシック音楽ファンにとって忘れてはならない大恩人にして知の巨人と言ってもいい人まで逝去された。吉田秀和氏 ( 98歳、5月22日 )。ご存知のようにきのうは 41 年間 ( !!! ) 、吉田氏が中断することなくつづけてこられた「名曲のたのしみ」最終回スペシャルが放送されました。貴重な音源、あるところにはあるものですね … でもどう考えても 5 時間というのはちと短かすぎないですか ? 41 年分ですよ、「今日は一日 … 」みたいに、倍の 10 時間くらいは放送してほしかった。できればきのうの最終回はまた近いうちに再放送してほしい。

 ワタシも雑用の手を休み休み、風呂掃除のときも携帯ラジオをかたわらに置いて聴いていたんですが、自分はそれほど吉田ファンでもなく、かつ熱心なリスナーというわけじゃなかったけれども、この番組のリスナーの熱い熱い思いのこもったお便りとか聞いているとこっちまでこみ上げてくるものがありました … とくに最後の作曲家シリーズとなったシベリウスの放送用原稿、なんと最終回分まで用意していたとか、亡くなる 5時間前もチーフプロデューサーの西川さんと電話で打ち合わせしていたという話を聞いていると、やっぱりご本人は無念だったのではないか、と察します。吉田氏の最終回用の原稿は、フィンランド語で書かれた詩の英訳を抜き書きされたものだったらしい。自分は、それを耳にしたときに目頭が潤んでしまった。

 昨年暮れのこの時期、ここで引用したウェンデル・ベリーの「ほんとうの仕事」じゃないけれど、健康であるとかいくつか条件はつくものの、真のプロフェッショナルというのは生涯現役、指揮者だったらシノーポリ、オルガンだったらルイ・ヴィエルヌのような死に方が理想なのかもしれない。とはいえ吉田氏の仕事ぶりはとてもボンクラにはなかなか真似できないなあ、と嘆息しつつも、せめてこの世に別れを告げなければならないその瞬間まで情熱を燃やしつづけられる仕事じゃなければほんものではないんだ、ということを痛感したのも事実。ちなみにパリ・ノートルダム大聖堂オルガニストにして作曲家だったヴィエルヌは、オルガンを演奏中に演奏台の上に崩れ落ちるようにして息を引き取ったという、壮絶な死にざまだったらしい ( 「生きざま」という言い方があるが、本来はこちらのほうが正式 )。そして人間、順調に行けば当然のことながらこの老いの過程がもっとも長い。「老いの一徹」ということばもありますね。とにかく吉田氏の仕事に対する情熱は、鬼気迫るものがある。並大抵のことじゃありません。そういえば名優・高倉健さんはプロフェッショナルとはなにかについて、「生業です。以上です」とおっしゃっていた。

 で、なにが言いたいのかというと、最近またなにかの流行りみたいに今年に入って十代の自殺のニュースが急増したことが念頭にあったからです。亡くなった若者にたいしてこんなこと言うのは不謹慎であることは承知のうえで言わせてもらうと、どうしてそんなに死に急ぐのか。60 数年前だったら、出征していく学徒にたいして「きみ、死にたもうことなかれ ! 」と叫ぶところだったろうが … またこんな投稿も最近、地元紙面にて見かけました。投稿者は 78 歳の女性。「若い人たちがいじめで自殺しています。『なぜ』という言葉が頭の中でグルグル回っています。生きていくのは楽しいことばかりではありません。でもこの世にいただいた大切な命です。人生、最後まで生きていると、きっと穏やかな日々がおとずれると思います。… 生意気を言うようですが、今の若い人たちにもきっと良い時期がやってきます。衣食住が豊富な時代、生かされていることへの感謝を忘れずにいてほしいです ( 以上、下線強調は引用者 ) 」。

 自殺する人には筆舌に尽くせないほどのたいへんな理由があるにちがいない。ここ数年、世代間、あるいはもっと一般的な意味でのコミュニケーション能力不足がよく話題にのぼります。二十代の人としゃべっていても、ウンでもスンでもなく、ちゃんとこっちの話を聞いてるのかとハラ立つこともしばしばのおっさんから見ると、たとえばこちらもどういうわけかいっこうに減らない「振りこめ詐欺」と若い人の自殺の問題はどこかでつながってるんじゃないでしょうか。自殺者はたったひとり孤立無援だと考え、絶望しきっているからみずから死を選択するのであって、もしだれかひとりでも、その人と向きあって話を聞いてくれる人さえいたら生きる勇気を取りもどす可能性はずっと高まるはず。「振りこめ」だって、ふだんから隣近所、いつも行っている金融機関、親子どうしで意思疎通ができていたなら、たとえ手のこんだ「芝居」でも、健全な批判精神を取りもどして「なんかヘンだぞ ? 」と気づくはずだと思うのです。

 「ジャマナカ」と仇名されたあの山中教授が、もしその苦しいときにすべてを投げ出していたら、ノーベル生理学・医学賞を共同受賞することもなかったでしょう。リヒャルト・シュトラウスのような「英雄の生涯」を送ったわけでもなんでもない一介の門外漢に言わせてもらえば、「とにかく生きなさい。そのうちきっといいこともありますよ」。

 明日の大晦日は HDD にダビングした「神話の力」のお気に入りの回でも見て、それから「第九」を聴こうかと考えているけれども ( ノリントンさんの「第九」は、合唱部分以外は全体的に快速急行だった ) 、べつに比較神話学者キャンベルの回し者じゃないが、けっきょくどんなことがあっても追いつづけられるものを持っているか否か、にかかっているような気がする。それは天職と言えるような仕事かもしれないし、メシの食えるライスワークでは残念ながらないがそれなしでは生きられないライフワークと言える仕事、あるいは家族か、子どもか … それともエピキュリアンなワタシみたいに「音楽」や「絵画」などの芸術にそれを見出すのか、それは人それぞれだろう。でも十代の人にとにかく言いたいのは、生きてください、ということのみです。

 いつだったか朝の NHK の番組を見ていたら、こんな話が披露されていた。広島県呉市の万年筆修理の達人の許へ、女子高生らしい女の子が高級万年筆を手に来店した。達人はペン先の修理を終えると、それとなくこの万年筆でなにを書くの ? と訊いた。その女子高生は、「これで遺書を書くんです」。万年筆修理の達人は、まだきみは若いんだから、ほかのことを書いてみなさい、と言ったそうです。後日、その女子高生から手紙が来て、あの修理した万年筆で、こうしたためられていた。「もうすこし生きてみようかと思います」。

 今年のワタシにとって、大袈裟な言い方をすれば「生きるよすが」となったのは、アイルランド人小説家ジェイムズ・ジョイス最後の大作、『フィネガンズ・ウェイク』との出会いだった。これをきっかけに正月は柳瀬氏による新訳なった『ダブリナーズ』も読むつもりでいるけれど、芸術至上主義者としては、ほんものの芸術作品に出会うことの重要性も強調しておきたい。たとえばこの油絵。「日曜美術館」の「アートシーン / 世界美術館紀行」にて放映されたときに見たんですが、見た瞬間、涙があふれそうになって困った。昨年暮れに出かけた静岡市美術館のダ・ヴィンチ展でもラファエロの弟子が描いたらしい愛らしい「聖母子像」があり、いまその絵はがきを机に飾っているけれども、ほんものの芸術作品というのは理屈じゃないんです。見た瞬間、精神と身体を貫く煌めき、ジョイスの言う「エピファニー」がある ( そうでないものが、「ポルノグラフィー」。ちなみに有名な「小椅子の聖母」も紹介されていて、こっちはいまにも額縁からはみ出るんじゃないかというくらいの幼児の生命力が感じられて、やはり大好きです )。人生なんて『フィネガン』じゃないけど、「上昇」と「転落」の繰り返しですよ。たしかにこの国も子どもの貧困問題などが深刻になりつつあって、それはそれで大問題ではあるけれども、とにかくまだ前途があるのに、可能性だって昔にくらべれば信じられないくらいに転がっているのに ( ほんらいインターネットというインフラは、そのための道具であるはず )、せっかくいただいた命をいともあっさり捨てないでほしい。「生は、つねに死と隣りあわせだ」という真実を身近に感じていれば、よほどのことがないかぎり、みずから電車に飛びこもうとか飛び降りようなどと考えるわけがない。明日はどうなるかわからない、ということを知っている人のみが、「もっとも晴れやかな顔で明日を迎えることができる」。とにかくみなさんがたはそれだけの価値しかない存在では、けっしてないのだから。そんな人は、この地球上にただのひとりもいやしない。

posted by Curragh at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連
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