2013年01月06日

ジョイス ⇒ 大拙師 ⇒ ベートーヴェン

 いま、図書館から借りてきたバッハの「カンタータ全集」の、BWV.1 から順番に聴いてます。今後はすべて聴いてみよう、と新年早々しょーもないことを考えている。ちなみに BWV.1 の「暁の星は麗しきかな」は、3 月 25日の受胎告知の祝日用に書かれたもの。初演は1725年3月25日。でも手許の『クリスマス音楽ガイド』という CD 付きの本では、このフィリップ・ニコライ作詞作曲による原曲を「顕現日 ( 公現日 ) 」の 1月6 日用の賛美歌、としている。… ??? 

 きのう見た「こころの時代」。禅とその思想を英文による著作で欧米などキリスト教圏にひろく紹介し、米国の大学にも客員教授として招かれ、ユング主催の「エラノス会議」にも列席したという鈴木大拙師にまつわる話だというのでしっかり見てしまった。大拙師の郷里金沢市にて「鈴木大拙館」の名誉館長を務める岡村美穂子さんが、最晩年の大拙師の秘書時代の思い出話をされていたんですが、もっとも印象に残ったのは、「心に枠をはめない」ということ。あらゆる点において「わかる」ということは、ふつう理解・判断するとかのことだと思うけれども、考えてみれば「わかる」というのは「分かる・分ける」ことにほかならず、理解も判断もともに「物事を腑分けする」という前提のあることば。逆に言えば人間はこういうかたちでしか事物を捉えられない生き物。もしまかりまちがって「あるがままに」わかって、あるいは受け入れてしまったら、それこそ比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの言う「精神分裂症 ( 統合失調症 ) 」になりかねない (シャーマンというのは、みずから進んでその状態に陥り、生還した体験の持ち主だという)。ようするに「発狂」しかねない、ということ。

 大拙老師のいう「枠をはめない」生き方というのは、自分の好きなキャンベルの生き方とか思想とかにもみごとに通底するものがある、と感じる。キャンベルはじめ、あの当時の米国の知識人たちは大拙師の熱心な支持者だった人が多いから、当然といえば当然なんだろうけれども、たとえばこれをキャンベルのことばで言えば、「世界の無条件の肯定」ということになる。また大拙老師は岡村さんが、「なんで雲水さんたちはあんなふうに修行しているの ? 」という質問に対して、「何事も『すっと』できるようになるため」だとこたえたという。そうですよね、人間、なにがむつかしいかって、この究極の自然体、すっとできないから、難儀するんですよね、とアタマ掻き掻き聞き入っていた。大拙老師ではいまひとつ、「それはそれとして」という達筆の書もすばらしい。ワタシも頭に血が上ったときに、この呪文 ( ? ) を心のなかでつぶやけば冷静になれるかも … しれませんな。

 昨年はジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にすっかりハマってしまったワタシだったが、これとて一脈通じるところがあるように思う。人類の全歴史とダブリンという一地方都市にしてアイルランドの首都のローカルな歴史とがみごとに混然一体となった書き方、英語という大英帝国から押しつけられた言語を完膚なきまでに破壊し、あらたなことばを紡ぎ出しているから、この作品に惹かれたわけではない。自分はそういう作者の意図がのみこめるほど聡明でもなんでもないただの門外漢にすぎない。そうではなくて、双子兄弟のシェムとショーンに代表されるような、ありとあらゆる二項対立を超えたところにこそ真の融和がある、というおそらく「真実」と言ってさしつかえない事柄について、理屈じゃなくて直感的に感じ、またそれがなかなかできないわれわれ人間の弱さも見つめ、それをも「肯定」しようとする姿勢も感じたからにほかならない。そしてこの作品のすばらしいところは、ジョイス自身も書簡などで言及しているとおり、「笑って読める」点にこそある。まさしくジョイだ。岡村さんのお話では、大拙師も究極の真理とは、「主体と客体とかの区別のまったくない、人智を超えたところにある」とかおっしゃっていたそうだ。テーゼ → アンチテーゼ → ジンテーゼみたいな話ですが、自由闊達な境地というのは、そういう感覚というか意識、キャンベルふうに言えば宇宙の究極原理ブラフマンと自己の存在 ( アートマン ) は深いところでつながっていると覚知したときにはじめて会得できるものなのかもしれない。以前ここで『音楽好きな脳』という本のことを書きましたが、最近の流行りは人間の意識もなんでもかんでも「大脳皮質」とか「前頭葉」が作り出した幻影、みたいな論調が多い。でもワタシなんかは、脳は「光の入れ物にすぎず、光そのものではない」と説いたキャンベルのほうが真理を突いているように感じる。それと大拙老師の思い出話では、円覚寺の背後の山から昇った朝陽を「There appears Hongan ! 」と指さして言った、というエピソードにも心打たれるものがありました。キャンベルふうに言えば、本願、ブラフマン、アートマンとかいうことばは、「究極の真理の一歩手前」の言い方。それらすべてを突き抜けたところに物事の本質、究極の存在というものがあるような気がしますね。もっともこんなふうにアタマで咀嚼しているかぎりはダメなんでしょうけれども。

 … 年末年始はなにかとバタバタしてしまって、「 NHK ニューイヤーオペラコンサート」で NHK ホールの大オルガンがひさしぶりの勇姿 ( ? ) を井上圭子さんによる独奏で披露したにもかかわらずその模様も見られず ( 泣 ) 、大晦日に録画したノリントン指揮の「第九」もいまだ見ていない … けれども、そういえば「ららら ♪ クラシック」で昨年末に「第九」の特集が組まれたとき、作曲家の吉松隆さんによる解説が秀逸 !! だと思った。詳細はこちらに譲りますが、そう、合唱の出てくる最終楽章って前 3 楽章の主題あるいは動機が出てきては、「いーや、オレの求めている音楽はこうじゃない !」とまたしてもアンチテーゼがしばしつづき、そしてようやく「歓喜の主題」が登場するや、「これだ !! これこそまさしく求めていた調べだッ、どべッ !!! 」とばかりに盛りあがって、バリトンの「口上」がはじまる。「このような調べではなく … 」( ちなみに「どべッ ! 」というのは、柳瀬尚紀著『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』の副作用 ) 。

 こういう革新的な作品って、いつの時代も拒絶反応に見舞われるもんです … 「春の祭典」しかり、そしてジョイスの『フィネガン』しかり。騒々しい ? 悪趣味 ?? … ノリントンの解釈はベートーヴェン自身のオリジナルに忠実だと、ご本人はそう断っていたようですが、FM の生放送を聴いたかぎりでは出だしの楽章なんかはほんと速いなーという印象。もっともこれは複雑な問題でして、突き詰めれば「音楽作品の受容史」というところまで行ってしまう。なのでこの記事の趣旨から大きく脱線する大問題なので、省略 ( 微苦笑 ) 。

 昨年のお盆、西伊豆町に墓参りした折に禅寺からもらってきた『円覚』という季刊の小冊子が手許にあるんですが、円覚寺派の管長さんが書かれた「無事是貴人 ( ぶじこれきにん ) 」という書は、すなおにすばらしい、と思い、気が向いたときに眺めていたりするんですが、ほんとそうですよね、無事でいられることこそ、真に尊いのです ! なにはともあれたまたまこの拙文を見てしまった方にとって、今年こそ「無事是貴人」でありますように。ついでにその西伊豆町安良里の禅寺の玄関口にも、鈴木大拙師のことばが日本語と英語で掲示してあります。

タグ:鈴木大拙
posted by Curragh at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽関連
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