ひじょうに有名な、文字どおりの名著ですのでワタシみたいなのがあれやこれやと読後感を述べることないんですが、キャンベル本をいろいろ読んできた手前、なにかと引用されているショーペンハウアーですから、ちょうどいい機会だしこのさい二冊ともしっかり読んでおこう、と殊勝にも思いまして … 「箴言警句の大家」と言われるだけあって、さすがに言い得て妙、みたいな箇所がたくさんある。たくさんありすぎて、目移りするくらい。全体通しての印象としては、やはり正鵠を射たことばというのは、いつの時代でも通用するものなのだなあ、ということです。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。 … かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。 … 心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい。―― 「思索」から
ドイツやその他の国でも、現在文学が悲惨をきわめているが、その禍根は著作による金銭獲得にある … このような現象に伴ってまた言語が堕落する。… 翻訳の途中で原著者の説に改訂、加工を企てる翻訳者についてもここで一言しておくべきである。彼らのこのふるまいをいつも私は無礼であると思っている。汝、非礼なる翻訳者よ、すべからく翻訳に価する書物を自らあらわし、他人の著作の原形をそこなうことなかれ。… 我々は他人の文章の中に、文体上の欠陥を発見すべきである。それは自分でものを書く際にそのような欠陥におちいらないためである。… 単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった。文体は美しさを思想から得る。似而非思想家の場合のように、思想を文体によって美しく飾ろうとしてはならない。文体とは所詮、思想の影絵にすぎないからである。ものの書き方が不明瞭、もしくは拙劣であるということは、考えが曖昧であるか、もしくは混乱しているかのいずれかであるということである。… ドイツ語の悪文は実に長い。互いにもつれ合った挿入文がいくつもその間に割りこんで、ちょうどりんごを詰めた鵞鳥のような文章である。… ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断で判決を下すことを好まない国民はいない( 下線は、邦訳文では傍点強調箇所 )。――「著作と文体」から
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである … 読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。… 熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。… 悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。―― 「読書について」
この三篇は、『付録と補遺』という、ショーペンハウアー晩年に編まれた小論集から抜き出されたもので、ほんらいはこの大部の小論集に収められた全文を読まなくてはいけないとは思うけれども、この三篇だけでもショーペンハウアーという哲学者がどんな思想の持ち主だったかを知るにはじゅうぶん、という気がする。訳文はいささか古くて、いちいち「である」調がめにつく嫌いはあるけれど、それでも原著者の卓抜な警句、とりわけみごとな比喩表現には舌を巻いた。
小論三篇中いちばん長い「著作と文体」では、たとえば「匿名批評家」の害について憤懣やるかたなしといったふぜいで一席ぶっているけれども、よくよく読んでみるとどうも当時、ドイツ語そのものの「改悪運動」が起きていたらしいことがわかる。このへんの事情についてはまるで知らず、ショーペンハウアーの檄文によって推測するのみなんですが、日本語でいえば一連の「当用漢字」策定までの騒動とかがこれにあたるのかもしれない。とにかくショーペンハウアーは当時のこうした悪しき風潮、とりわけ台頭しつつあった「ジャーナリズム」が先頭に立って国語としてのドイツ語を切り刻んでいると嘆き、「無頼漢的三文文筆家が国文法を乱し、国語の精神を台なしにしているのである … ドイツ語はまったく大騒動に陥った」。でもこれっていまの日本語の置かれた状況にも当てはまるような … わけのわからない国籍不明語が跳梁跋扈するいまの日本語。なんでもかんでも短く切り詰めてしまう世の風潮。その結果、もてはやされているのは一回耳にしただけではなんのことだか見当もつかない、なにかの符丁・隠語のような短縮語とカタカナ語の氾濫、いっぽうで「憮然とした」とか「気のおけない」とかの言い回しが本来の意味で理解されなくなりつつあり、あるいは「ら」抜き / 入れことばとか … 。そして、こうした問題というのはいつの時代にもあるもんだなあ、ということも感じたしだい。それと「ドイツ人ほど自分で判断し、自分の判断で判決を下すことを好まない国民はいない」という一文、「ドイツ」人を「日本」人に変えたってそのまんま通用しますな。
翻訳関係でもっとも耳に痛い警句は、おなじく上で引いた「著作と文体」の一文ですね。たしかに辛辣だ。イタリアだったか、「翻訳者は裏切り者」という諺があるのは … ショーペンハウアーは当時のインテリ必須の古典語の素養が当然あるから、この本の中で名前を出しているアイルランド人神学者・哲学者のエリウゲナの『自然の区分』とかも原文ですらすら読めたのかもしれないが、われわれふつうの読者はやっぱりこのような「翻訳」がないと、とてもムリですよ。たしかにどんな翻訳だって叩けばホコリが出るものではあるけれど … でも「まともな翻訳」だったら、そっちで読んだほうが断然、理解ははやいし正確に読めますよ、確実に。この論文でショーペンハウアーは翻訳者を「無礼者」呼ばわりしているけれども、ひょっとしてショーペンハウアー自身は自分の書いた本が翻訳されるのがうれしいどころか、がまんならぬ卑劣な行為、と本気で思っていたのかな ? そりゃなんだって原文で読めれば、苦労はしないですよ。でもきょくたんな話、『聖ブレンダンの航海』みたいな中世初期アイルランド特有の「島嶼ラテン語」で書かれた作品とか、だれでも読めるわけもなく、またセルマーのような学者が写本を突きあわせて校訂した版もあるとはいえそれ自体が欠点を抱え、なおかつ不明な箇所、「スカルタ」のような特定不能な語だってたびたび出てくるわけで … というわけで、翻訳はやっぱり必要な言語行為だと思いますね。翻訳してくれる人がいるおかげで、ショーペンハウアーのこのすばらしい本だってわれわれみたいなごくふつうの日本人読者でも読めるわけですし ―― たとえそれが誤訳を含み、かつ原著者の意図した通りの修辞と表現をそっくりそのまま再現していなくても ( どんなすぐれた翻訳にも誤訳はあるものだし、間然するところのない完璧な翻訳、というのも存在しない )。
… いま読みかけのキャンベルの『神話の力 IV 創造的神話』に、ショーペンハウアーの「天球の音楽」に関する引用があったりするんですが、「思索」にもそんな表現がひょっこり顔を出していたりします … 。↓
… 思索家自らの思索はパイプオルガンの基礎低音のように、すべての音の間をぬってたえず響きわたり、決して他の音によって打ち消されない。
これなんか好き者としましては、いかにもドイツ人らしい音楽のたとえだなあなんて感心してしまう。蛇足ながら「基礎低音」とあるのはオルゲルプンクト、「オルガン点」という長ーく引き伸ばされた低音のことで、バッハ作品にも頻繁に出てきます。言いたいことは、読書を通じて他人の思想を取りこむことに汲々とするあまり、「常識や正しい判断、事にあたっての分別などの点で学のない多くの人に劣る」学者とちがい、真の思想家は「すべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる」。そのちがいをオルゲルプンクトになぞらえたもの。
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