この本、「日本語版によせて」という巻末の著者のことばを引くと、本書は「思いもよらない状況から生まれた。本の虫以外のなにものでもなかったわたしが、突然本に集中することが難しくなったのだ。原因のひとつはテクノロジーにあった。より正確にいうなら、テクノロジーがもたらすノイズだ。… 現代的で、何重にもつながった過剰ネットワーク生活にひしめく、あらゆる注意散漫の元。… 本書を書いた目的は、この問題を特定し、言葉にすることによって、注意散漫の悪循環からなんとか抜け出す」ために書いた、という。著者デヴィッド・ユーリン氏は「ロスアンジェルス・タイムズ」の文芸担当記者で、現在はカリフォルニア大学大学院で創作を教えている人。
「テクノロジーがもたらすノイズ」、とは言い得て妙。この手の「ノイズ」って、いまじゃ著者言うところの Twitter や FB に代表される SNS、ブログのたぐいなんでしょうが、昔はやっぱり TV ですかね。あまたの英米文学ものの翻訳を手がけてきた中田耕治氏だったかな、原稿書きの仕事はコタツの上で、しかも目の前の TV もつけっぱなしで、とか書いていたのは。でもひねくれた一読者から言わせれば、「それってけっきょく、当人の心の持ちようでどうにでもなるんじゃ … 」とつい、横槍を入れたくなるところではありますが、この著者の場合はそうはいかなかったようで … あるとき著者ユーリン氏は、『グレート・ギャツビー』を課題としてレポートを提出しなくてはならない中学生の愛息に、「文学は死んでるね。だれも本なんて読まないんだ」と出し抜けに言われたことにおおいに衝撃を受けた。反論しようにも、悲しいことに愛する息子から繰り出された強烈なパンチをお返しする反論さえ浮かばない。それもそのはず、「本の虫」であったはずのこの自分でも、「ひょっとしたらそうなのかも」と、本を読むことに集中できなくなっている自身を顧みて疑念に駆られているのだから … 。
かくして、なぜ、こうなったのか ? ほんとうに「文学は死んだ」のか ? もうだれも本を、つまり「物語」を読まないのか ? ということを、いままで著者が読み親しんできた小説家やエッセイストの作品から引いた文章から、そして最新の脳科学研究の報告まで引いて、文字どおり徹底的に考察を進めた本です。考察、と言ってもそこはそれあくまで個人的体験にもとづくエッセイなので、文学・物語の本質について考察したかと思えば『グレート・ギャツビー』をめぐる息子との一件にもどったりと、ショーペンハウアーの本とは正反対のテイストで「ヒトが本を読むということ」について綴ってます。読みようによっては読書論というより、父と息子の物語、もっとはっきり言えば愛する息子ただひとりのために書いたような、そんな本です。これはこれでおもしろい書き方だと思う。著者も言っているように、いろいろな読み方ができるというのは、いわゆる文学 / 物語の本質だと思うから。
ありがちな、「最新テクノロジーの媒体 vs. 旧来の媒体」という図式では語っていない。一個人の視点から綴られたこの本の語り口はときおり散漫になりがちではあるけれど、一貫しているのはメディアとかテクノロジーとかいうモノではなく、真に問題なのはそれをどう活かす / 使うか、その結果出てきたもの、いまふうに言えばコンテンツのあり方にある、という点。グーテンベルクが活版印刷を発明した当時は、「紙に印刷された本」こそ、時代の最先端をゆくテクノロジーであり、それゆえ旧来の情報媒体とその文化、たとえば写本文化を支持するような立場の人からは非難されたりした。あたらしい媒体が登場するたびにわれわれの脳内も「作り変え」られてきている、という研究結果なんかも紹介されてておもしろいけれども、「あたらしいテクノロジーの使い方」ということでは、「かぎりのない現在時制」という点が、こと本を読む行為にとってははなはだ邪魔になる、とも指摘している。
… ( テクノロジーは )存在することさえ知らなかったものに近づく機会を与えてくれる。… とはいえ、少なくともわたし個人は、… 特殊なケースだと考えている。過飽和状態のわたしたちの文化は、絶えず存在し続ける "今" の上に崩れてきつつあるからだ。より日常的にわたしが抱くのは、知的な意味でも感情的な意味でも表面だけをかすめているような感覚や、なんとなく漂っているような感覚のほうだ。そんな感覚の中で、時間と文脈は、錨を失い漂流している。これこそが、わたしの注意散漫の本質だ。
「どんなときも、世界があまりにも手近にある」。言われてみればたしかにそうで … ゆえに「思いついたその瞬間に Eメールをチェックできる」し、また、「リアルタイム至上主義」みたいな 21世紀のいまを考察した最近のエッセイからこうも引用する。「スピードが、それだけで価値を持つ時代になってきた」。
対して、本を読むという行為で流れる時間というのはちがう。「真の読書」は、「余裕が必要」で、「瞬間を身上とする生き方からわたしたちを引きもどし、わたしたちに本来的な時間を返してくれる」。たとえて言えば、新幹線ではなく鈍行、クルマではなくテクシー( ちょっと言い方が古い ? )。ワタシは日ごろからよく歩いているのですが、おやこんなところに花が咲いてたとか、けっこういろんな発見があって飽きないですね。クルマは、もちろん悪いとは言わない。交通事故さえ起こさなければ。なんたって地方在住者にとっちゃ「足」ですし。荷物がかさばるときなんかも自家用車でもレンタカーでも、とにかくクルマはあったほうがいい。でも「ちょっとそこまで」行くのにもクルマを乗り回すような御仁がじつに多い。前にも書いたかしら、故阿久悠さんが何十年も昔、「日本人は自家用車を持つようになって傲慢になった」と書いていたと聞いてますし。ときには歩きもいいもんですよ。老化は足腰からくるって言いますし。
話もどして、本を読むという行為のもたらす効用は、なにも本来的時間をとりもどすことにとどまらない。「読者は本と一体化する」、これこそがまさしく本を読む醍醐味、本を本たらしめるものだと著者は書く。
… ( 『ネット・バカ』の著者ニコラス・カーは ) 読書とは心の状態や体験を描き出す方法、あるいは刻みこむ方法であると述べている。読書とは、それによって人生の認識にいたる、人生のひな形である、と。… 読書とは、自己認識の一形態であり、それが達成されるのは、逆説的だが、自己を他者と重ね合わせたときである。それは、わたしたちをきわめて具体的に変化させる抽象的なプロセスだ。
それじゃ、いま流行りの電子書籍( おどろくことに、米国人の著者でさえ、ふだんの生活では電子書籍リーダーが使用されている場面をあんまり見たことがないという ! )はどうか。画面上に表示されるテキストデータを読む行為は、紙の本と変わらぬ効用をもたらしてくれるのか ?
以前、iPad にプリインストールされているらしい『不思議の国のアリス』について、「電子紙芝居」だと書いたおぼえがあります。もはや電子書籍上で読むというのは、ただ白地の画面に並んだ活字の列を読むことだけにとどまらない。飛び出す絵本よろしくキノコが転がり出てきたり、派手なアニメーションや、音楽なんかも流れたりする。こういうご時世なので、米国の物書きのなかにはさっそく最新テクノロジーを駆使した作品( 紹介されているのはプレゼンソフトを使用した章のある小説 )をものする人も出てきている。こういう「作品」を読むことも、読み手の精神を豊かにし、想像力を深め、人格を形成するような読書になる、と言えるのか ?? 著者自身、すでに iPad も Kindle も持ち、『シェイクスピア全集』から『ザ・フェデラリスト』までさまざまな本を揃えている。そんな著者曰く、「どんな形であれ、すべてはテキストがあってこそ成り立っている … そして、読書の質が上がるかどうかは別として、本を読むという行為はさまざまな形態のもとに存在しうる」。… なんでもすぐにこたえを求め、即「白か黒か」と判断をくださずにはおれないいまの悪しき風潮、というのはわかっちゃいるんだが、やっぱりワタシとしては性格的に、「うまくボカしたな」と思ってしまった。
でもこの本、読書論というのをはるかに超えて、米国人の精神的崩壊について、ある大学の卒業式におけるオバマ大統領の意味深な発言について( 「情報は気晴らしとなり、娯楽となり、… そうした情報のあり方はあなたたちを圧迫しているばかりか、わたしたちの国や民主主義さえ、これまでになく圧迫している」。とくに下線部に注目 ! )、米国の中学生が受ける文学の授業の内容について ( びっくりするくらいの本格的な作品解釈、そして詳細なレポート提出まで課される。ある意味、ひじょうに古典的な学習方法 )、そしてなんといってもこの本じたいが、古今のすぐれた英米文学読書案内としても読める( ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』について、「正直に認めよう。わたしも全部読んだわけではない。まだ読み終わりそうにもない」というのは、この人の人柄が出ていて好感が持てる )。個人的にはこっちのほうにおおいに惹かれた。知らない作家がぞろぞろ … とりわけ「最初から脱線して全編余談という傑作」だという、大バッハの息子たちと同時代人のロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』なんか、読んでみたいですねぇ。また、冒頭に出てくる、ジョーン・ディディオンが 40 数年も前に書いたというエッセイ集からの引用箇所なんか、なんとなく以前読んだウェンデル・ベリーの The Unsettling of America とも通底しているようにも感じた。
他人の著作からの引用、ということでは、前出のディディオンのエッセイに、この本の内容を要約しているような箇所がありました ――「わたしは、もっぱらみつけるために書く。自分は何を考えているのか、何に直面しているのか、何がみえているのか、それは何を意味するのか、何が欲しいのか、何が恐ろしいのか」。「書く」を「読む」と言い換えれば、そのままわれわれ読み手の問題になりますね。
評価:




余談:再三、この本で取りあげられていたスコット・フィッツジェラルド。『グレート・ギャツビー』以外はなにも知らなかったが、『崩壊』というエッセイ集、このたびこの本を読みまして、興味を惹かれました。フィッツジェラルド … がらみでは、手許の古い翻訳指南書の記述も思い出した。曰く、フィッツジェラルドの文体って「庄野潤三の文体によく似ており、言葉の選択が極度に慎重で、センテンスは透明で明晰さがあり、おだやかに押えて書いてありながら、文章に陰影と量感と静かな気品があって、詩心の豊かさを感じる」。なお個人的なこだわりとして、こうしてディスプレイ画面上にキーボード叩いて文章を綴るのと、原稿用紙に向かって手書きで綴るのとでは、書いた文章に対する心理的距離があきらかにちがう、と感じている。昔、まだまだ「ワープロ専用機」全盛時代だったころ、故飛田茂雄氏がワープロで作成した文章についてこんなこと書いていた。飛田氏は訂正だらけの手書き原稿を編集者に渡すのが心苦しかったらしく当時からワープロ肯定派で、整然と印字された原稿は「客観的に読み返すことができます」と評価していた。これは裏を返せばどんな駄文でもそれらしくかっこうのついた文章に「見えて」しまうということでもある。同様に、ディスプレイ上に表示された活字の列を目で追うのと、紙の上に印刷された活字の列を目で追うのとでは、やっぱり心理的に違和感がある。たとえば RSS リーダーとかに表示される新着記事の一覧を無造作に「飛ばし読み」、「ななめ読み」している自分に気づく。この「読んだ気になっている」という問題は、電子書籍も含めたハイパーテキスト世界全般に言えることなんじゃないかと思っている。みなさんはどうですか ?