2013年11月11日

『海外ミステリ 誤訳の事情』

 本家サイトがいちおうの完成を見るまでは、ひたすら ―― でもないか、ヤナセ訳『フィネガン』のように脱線することもしばしば ―― 聖ブレンダンおよびラテン語版『航海』関連書を読み漁っていたものですが、そのあいまにときたまですが、どういう風の吹き回しか海外ミステリ小説なんかも読んだりすることもありました。だれだったか、某競馬ものシリーズの定番の訳者先生の訳文を評して、「新聞記事みたいな訳文が好き」とかおっしゃっていた方がいたことも思い出した。

 先日、地元図書館でたまたま海外文学ものの書棚前に来たとき、なんか妙にユルいダストカバーのこの本が目にとまり、バッハのカンタータ全集のついでにとこっちも借りて読んでみたら、これがけっこうおもしろい。10 年前にすでにこんな本が出ていたとは、遅かりし、由良之助 !! 

 たとえばオビに、「なぜ刑事はとつぜんデンマーク人を探しに行ったのか / 「なんで ? 」と思った人は 104 ページへ」とある。これなんかたまさか冷やかすていどのミステリ門外漢でも、なにをまちがえたのかはわかる。と言っても、いまどきの人だったらだれだってああ、あれか、とすぐ思い当たるエラーだとは思うが( ハラが減っては戦ができぬ、と思ったかどうかは知らないが、ようするに刑事はパン屋さんに行ったんですね )。

 またしても寡聞にして知らなかったが、著者の直井氏はもと商社マンで、米国ニューオーリンズとかヒューストンあたりにけっこう長く駐在していた人らしい。エド・マクベインと親友で、長いつきあいなんだとか。なんてスゴい人だろう。海外ミステリ好きが昂じて、作品の舞台になった土地をあっちこっちと訪ね歩いてきた人でもあるらしい。

 いわば海外ミステリものの目利きみたいな人なんですが、マルタの鷹協会の月報に、誤訳指摘のコラムを書いていたつながりでこの本を著したようです。日本語訳文の語感の問題から、ミステリにつきものの銃火器関連の知識を縦横に駆使して原作者の知識不足まで指摘したりと、内容的にはかなーり辛口。でも、世に言う「誤訳指摘本」と一線を画しているのが、全巻通して流れているユーモアと、やさしい視線です。それがもっともよく現れているのが、やはりこの本のユル〜い装幀。借りる気になったのも、はっきり言えばこの本のユルい装幀画に尽きる( 笑 )。ふかふかのあたたかいふとんのように見えて、カバーをめくったらなにやらキラリと光るものが出てきた、そんな印象。

 また、「書いている側が名前を出し、書かれている方々を匿名に」した点が人間的にも好感が持てます。例外的にお名前が出ている訳者先生もおられるが、たいていの場合はよい仕事をされた方。もっとも「映画字幕翻訳の大御所」だった某先生の場合は、「チャンドラーならこの翻訳家と思われていた人の省略ぶりには、いささか驚いた」。

 「重箱の隅を徹底的に」突いたとありますが、むしろ問題視しているのは訳者ならびに編集者の attitude のほうだと感じた。ミステリというジャンルはいわゆる通俗小説、消耗品と割り切っているのではないか、と「あとがき」で苦言を呈しています。たとえばある訳書で、はっきり言ってケアレスミスのたぐいのつまらない誤訳を担当編集者に伝えたら、「迷惑そうな顔をして ―― 確かに迷惑なのだろうが ―― 文脈の大きな流れとして間違ってなけゃいいじゃありませんかと」言われたんだそうな。やっぱ図書館で読むにかぎるな、そのていどの矜持で世に出された邦訳本じゃね。

 ちょっと脱線すると、たとえば大部のノンフィクションとかの場合、一部を端折った「抄訳」という場合も多かったりします。で、一字一句厳密に訳出した「完訳」との見分け方があるんです。「訳者あとがき」に、「本書は … XXX を訳出したものである」とかなんとか書いてあったら、十中八九、抄訳つまり部分訳と思ってまちがいない。きちんと全訳した場合はちゃんと、「 XXX を全訳したものである / 完訳したものである」と書いてあるはずです。そういえばかなり昔、さるジャーナリストの書いたカラヤンの評伝邦訳が出て、それが『レコ芸』の書評に取り上げられてたんですが、「調べてみたらかくかくの章が抜け落ちている。けしからん」みたいなことが書いてあった。この評者先生自身、ドイツ語圏の音楽関連本の邦訳を多数ものされていて、「オレはすべて全訳しているのに、なんなんだこのていたらくは ?! 」と思ったのかもしれない。でも、一般教養書とかノンフィクション本の場合ではこれはわりとよくあること。ものによっては必ずしも最初から最後まで日本語にしなくたってかまわない。げんに手許の『中世キリスト教の典礼と音楽』というすばらしい訳書だって、全訳ではないけれど、だから困った、不便だ、と感じる点はないですしね。むしろ問題なのは、全訳にしろ抄訳にしろ、中身の訳文でしょう。いくら全訳したからって、あまりに読むに堪えない訳だったら、だれも大枚はたいて買うことはないでしょう、たとえそれが Kindle 本で廉価で投げ売りされていたとしても ( そして残念ながら、キャンベル本にもそのたぐいの迷訳[ ? ] が紛れこんでいたりする。『千の顔をもつ英雄』とか、『神の仮面』上下巻とか )。

 話をもどして、上記とおなじようなケアレスミスのたぐい、たとえば sawhorse を「馬」、字幕の意味の subtitle を「副題」とやってしまったようなことは、だいたい見当がつくけれども、料理名、地名、略語、役職名の表記、作品に出てくる映画の邦題はどうするかなど、いつものように付箋ペタペタ貼りながら読み進めていったらたちまち付箋だらけになって、ぜんぶ紹介できないのが残念。ただ、ひとつだけつよく印象に残ったのは、ミステリ作家っていう人はどうも古典、とりわけシェイクスピア作品の引用が大好きな人が多い、ということ。たとえば『ハムレット』。有名な第三幕第一場の長い独白( 'To be, or not to be ... ' を含む独白 )箇所から引用したタイトルだけでも、著者調べによればもじりも含めてなんとその数 21 篇あったという。警部がさらりと『ハムレット』からの引用句を口にしたり … あ、そういえば、やはり図書館で、『流れよわが涙、と警官は言った 』なんていうタイトルの SF 小説があったことも思い出した。こういう音楽関係もぽんぽん出てくるから、やはり翻訳はむずかしい。音楽関連については、直井氏のこの本では南北戦争時代の軍歌と、On Top of Old Smoky が取り上げられてました( 俎上に上げられていたのは、これを「グレート・スモーキー山脈」ととらずに、「古びた煙突」としちゃった訳書。以前ここでも Museum と大文字で始まっているにもかかわらず「ミュージアム」と手抜き訳した本のことを書きましたね )。引用、というのではハクスリーの短編集 Mortal Coils ( 1922 ) も出てきて、じつはこれじたいがおなじ『ハムレット』の引用でもあるんですが、ワタシはキャンベル本の影響で、ハクスリーとくるとつい『知覚の扉』のほうを思い浮かべる( これももとはブレイクの詩『天国と地獄の結婚』からの引用、つまりキャンベルは孫引用している )。そんなこと言ったら、映画「スターウォーズ」のエピソード 6 で、今際の際にあるヨーダがルークに向かって、「おまえは、自分の父と対決して倒すことが使命となったのじゃ。果たしてその重荷に耐えられるか ? 」と問うけれども、これだって見方によっては、「おまえは自分の運命に耐える力があるのか」というハムレットの自問が響く、ということも言えないことはない。ついでに一箇所だけ、千慮の一失と言うべきか惜しいと言うべきか、「ハスクレー」という誤植があったのはご愛嬌。

 著者の該博な知識にまたしても脱帽、ではありますが、俎上に上げられている英語圏ミステリの訳書は、なんかこう刊行からウン十年経っているような、古本がちょっと多いような気がするのも事実。終章に「先人たちと現在」とあり、戦後まもないころの海外ミステリの「珍訳」、たとえば『くまのプーさん』を「漫画本」とした訳書とか、あとその当時のヘンテコ訳として「エリントン公爵のピアノ(!)」なんてのも引き合いに出していますが、こんどもし続編を書かれるようなら、ぜひここ 10 年以内に刊行された海外ミステリ訳書について書いてほしい、とも感じたしだい。
 
 こういう読んで楽しい、もちろんおおいに頭を掻かされ勉強になる「誤訳指摘本」は、希少だと思う。そしてなにより、それでも邦訳ミステリが大好きでたまらない、という姿勢がビンビン伝わってくる。だからこその「辛口批評」なんですね。とにかくもし、海外ミステリものの翻訳者を目指している若い人が、この拙いワタシの評を見たら、なにはともあれ一度はこの本を手に取ってしっかと読むべし。

評価:るんるんるんるんるんるんるんるん

付記:先日、キャンベルの創作作法について書いたんですが、例の黄色いリーガルパッドと呼ばれる筆記用紙。じつはこの本にもその説明が出てきまして( p. 114 )、そうか、向こうでは法曹界の人間が使う場合が多いのか、ということに思い至った。そういえば「ソーシャル・ネットワーク」だったかな、なんかそんな筆記用紙が出てきたような気が … 世の中には万年筆や原稿用紙なんかにやたらとこだわりを持つ人が多いらしいけれども( 自分もそう )、ググってみたらリーガルパッドにもいろいろあって、そんなリーガルパッドを解説しているブログ記事とか眺めているうちになんか急に( ? )自分もほしくなってしまって、地元の文房具屋に行ったらたまたま Mead のパッドが置いてあったのでとりあえず買って、さっそく使ってみた( 影響されやすい人 )。名前くらいしか聞いたことのなかったこの米国生まれの黄色い剥ぎ取り式筆記用紙、いやービックリ、こんな使いやすいものがあったんかと目から鱗状態です。この点に関しても、間接的にはキャンベル先生のおかげかもしれない。満寿屋さんの原稿用紙もすばらしいが、ちょっとしたメモ書きなら断然、こっちのほうがいい。この前も、「英語で読む村上春樹」で英訳者のルービン先生のお話を聴きながらこのリーガルパッド上に要点を走り書きしていた。これからはこれでいこう。ただ買ったパッドは日本人の感覚からするとちょっとでかい気がするので、ジュニアサイズのものも買おうかなと、思案中。ついでにリーガルパッドで思い出したけれども、たしか iPhone / iPad 標準搭載のメモ帳って、デザインがまさしくこれですよね ? 黄色い帳面を再現したような感じで、罫線のかけ方までそっくりだ。もっともあちらはデジタル端末のメモ帳なので、それなりに便利な使い方とかあるのかもしれないが( iPhone / iPad で作成したメモは Mac でも即編集可能、もちろんその逆も可なところとか )、視認性という点ではどうなのかなあ、と。じっさいに紙のリーガルパッドを使ってみると、視認性という点では断然紙のほうがいいような気が … とこれは個人の感想です。

posted by Curragh at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近読んだ本
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