2006年06月04日

忘れてました

 そうでした、そうでした。gnosis関連のことに首突っ込んでいたら、すっかり失念していました…こちらのblogエントリのおかげで思い出しました(ありがとうございます!)…自分で書いておきながら忘れるとは…orz。

 イスカリオテのユダのからみでは、ラテン語版『航海』にもユダとの遭遇の場面が物語後半に登場しますが、ある意味「約束の地」到達以上に、読み手であるキリスト教徒にとっては重大な関心のあった挿話だったにちがいありません。

 そのラテン語版『航海』(セルマー校訂版)の第25章に、こんな一節が出てきます。

 …ふたたび神の人(聖ブレンダン)がユダに訊いた。「この布はなんのためにあるのか?」
 「わたしが主のしもべたちの金入れを預かっていたとき、この布を癩病人にあたえたのですが、これは自分の布ではありません。主と、しもべたちの持ち物でした。それゆえこの布はわたしにとって安らぎではなく、むしろ厄介な代物です。布が掛かっている金属の熊手は、鍋を吊り下げるために、神殿の祭司たちにさしあげたものです。わたしが腰かけている岩は、主の弟子になる前、通行人が足を取られないように大通りの溝を埋めたものです」。…
(from 'The Voyage of Brendan', in Celtic Spirituality by Oliver Davies, Thomas O'Loughlin, Paulist Press, New York & Mahwah, NJ, 1999, p.184)

 聖ブレンダン一行を乗せた舟が、命からがら「地獄の縁(アイスランド?)」から逃れて南へ向かって7日が経過したころ、毛もぼうぼうの、みすぼらしいなりの男がひとり岩の上に腰かけ、強風と高波になぶられているのを発見。好奇心がうずうずしだした修道院長ブレンダン、弟子に命じて舟をその岩へ向けて進ませると、なんとそこにいたのは「裏切り者」イスカリオテのユダだった…とここまでは共観福音書や使徒行伝からの借用だろう、ということになりますが、問題は引用部分。ユダが生前、このような三つの善行をおこなったなどということは新約聖書正典のどこにも出てきません…じつはこれ、『パウロの幻視(Visio Pauli)』として知られる文書を下敷きにしている…らしいけれども、こちらはせいぜい「地獄に堕ちた罪人たちにも毎週土曜の夜から日曜の昼まで、地獄の責め苦を中断させるようイエスが計らった」くらいが共通項で、上記の「三つの善行」の伝承が具体的になにを下敷きにしているのか、いまだに――知らないのは自分だけ?――不明です。

 …ちなみに『パウロの幻視』も、もとはグノーシス系文書の新約聖書外典でした。おなじくケルト系神学者/哲学者で、大陸で活躍したヨハネス・ドゥンス・スコトゥスが9世紀にギリシャ語原典をラテン語に翻訳して以降、とくに大陸で広く読まれた物語です。こんなとこにもグノーシスの影響が…とまたしてもグノーシスつながりになってしまいますが、関連書籍に何冊か目を通すうちに、初期キリスト教成立の歴史を知るうえで、この多種多様でウナギみたいにつるつる掴みどころのないというか、捕らえがたい現象は避けては通れないものなので、いまのところは――「ユダの福音書」のおかげかな?――門外漢なりに理解しようと集中的に読んでいます。

 グノーシスと「ユダの福音書」については、日本語版が手に入ってからまた稿を改めて書きたいと思っています(気が変わるかもしれないけれど)。
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