移動中に「らじる」にて聴いたのですが、とくに後半のチャイコフスキーの「5番」なんか、まだ三十代の人が降っているとは思えないほどの深みを感じて、ちょっとシビれました … こういう感覚って、ひさしぶりです。
ゲストの奥田佳道さんがこの若きマエストロの発言をいくつか引いていまたしが、いやあ、なんてすばらしいことを言う人なんだろうと歩きながらウンウンと頷いてしまった。もうだいぶ記憶が薄れてしまったものの、ハッキリ憶えている発言があります。曰く、「現代人はあまりに忙しすぎる。もっと瞑想する時間が必要だ」。インタヴューした奥田さん自身、年齢のわりにじつに深いことをぽんぽんおっしゃられるので、内心おどろいていたとか。
こういう深い内面性 ―― およそワタシみたいな浅薄な輩にはないもの ―― をしっかりと持った人というのは、そうと知らなくてもちゃんと聴き手の心に届くものなんですね … その発言を耳にした瞬間、いきなり泣けてきましたよ。けだしそのとおり !
けさ、「ららら ♪ クラシック」の再々放映を見てました。もちろん大バッハの「アリア(「管弦楽組曲第3番」)」だったからなんでありますが、あらためて聴いてみて、また涙腺が緩みそうになった。そうなったわけは、以前ここにも書いたこととカブるが、バッハのベースライン、つまりあの振幅の大きい通奏低音パートで。
「古楽の楽しみ」とか「らじる」で聴きながら歩くことが多いんですが、バッハの作品って、教会カンタータにしても鍵盤作品にしても管弦楽作品にしても、わりと「ウォーキング」と相性がいい ―― ようするにあのテンポが絶妙な場合がじつに多いんです、体験的に。あのやや早足気味の通奏低音のテンポとリズム。やっぱり杉山先生の書かれたことは正しかったんだって思いますよ。バッハ作品聴きながらのウォーキングは最高です。
もっとも「歩みのテンポ / リズム」という点では、バッハと同時代かそれ以前の作曲家の作品だって言えるんじゃないかって気がしますが、やっぱり「よく歩いた人」バッハの音楽がもっとも相応しい気がします。… ウォーキングのお供にはバッハの音楽 ?!
ラジオ番組ついでに昨晩、ボージョレ・ヌーヴォー飲んで「ねとねとに溶け」た脳味噌で例の「英語で読む村上春樹」を聴取していたんですが、今月号テキスト巻末には英米文学翻訳家の鴻巣友季子氏の対談が載ってまして、番組終了後しばし溶けたアタマで活字を追ってたら、'I don't know you.' という科白を「ご用件は ? 」と訳していたことについて触れていた箇所が目にとまった。おややこれはいつぞや読んだ『翻訳夜話』に出てきた、掃除機の押し売り( ? )の出てくるカーヴァーの短編で出てきた科白じゃないですか。「これはやっぱり小説家じゃないと出てこない表現だなと思いました」と鴻巣氏はつづけてましたが、たしかにそれは一理ある ! と思ったしだい( 上記科白は、掃除機のセールスマンがやってきたときに「わたし」がぶつけたことば。詳しく知りたい方は本を読んでね )。
… 29日は「バーの」聖ブレンダンの祝日、そしていよいよ待降節 … ボージョレの新酒を口にするたびに、ああ今年も押し詰まってきたな、とつよく感じます。
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