2013年12月30日

「鍛冶屋の島」と「炎の山」( Navigatio, Chs. 23−4 )

 年も押し詰まってきたいまごろになって、ライフワーク( かな ? )のラテン語版『聖ブレンダンの航海』関連記事エントリーを最近ちっとも書いていないことに気づいた。折しも( ? )、フィリピン海プレート上小笠原諸島のひとつ西之島すぐ沖合でなんと海底火山( !! )が噴火した。… たんなる偶然でしょうが、「巳年」って海底噴火となにかしら縁があるような気が … 24年前の巳年( 1989年、昭和64年だが昭和天皇崩御のため、1月8日から平成と改元した年 )にも、有史以来という伊豆半島伊東市沖でいきなり海底噴火が起こり、「手石海丘」を誕生させてもいます。なので「伊豆半島ジオパーク」運動は、今後もおおいに推進すべし(これまたたまたまかもしれないが、西之島からまっすぐ北へ線を引くと、ちょうど手石海丘あたりにぶつかる … ような気がする)。というわけで、今回はその「火山」の登場する『航海』挿話を取り上げます。

 … 23章で聖ブレンダン一行を乗せた革舟は「八日のあいだ北の方角へ」運ばれて、「八日後、ほど遠くないところに島が見え」る海域にやってきた。ブレンダン修道院長はなにやらイヤな予感がして、はやく舟をこの島から引き離すよう、「四方に十字の印を切って祈った」。院長がこの祈りを終えたそのせつな、「島の野人がひとり、なにかしようと外に出てきた」。体はものすごい毛むくじゃら、「真っ赤な炎と闇に覆われていた( 'Erat ille hispidus ualde et igneus atque tenebrosus.' )」。1).

 これを見た一行、あわてて帆を揚げオールを手に取っていっせいに漕ぎ方はじめ ! たんですが、「さきほどの荒くれ男がまっすぐ彼らに向かい海岸に駆け寄ってきた。両手に火バサミを持ち、恐ろしく大きい真っ赤に焼けた石の塊をつかんで、投げつけた」。島から飛んできた「燃える石の塊」は、しかしブレンダン一行の革舟を通り越して、近くの海中に落っこちた。すると、「それが落ちたとき、海は火の山が崩れ落ちたかのごとく煮え立ち、炉から吹き出す炎のような火柱」があがったという。その後、島民がひとり残らず出てきて、キリストの下僕たちに向かってつぎつぎと「火の弾」を投げつけた。「まるで島全体がひとつの炉と化し … 海も、肉のたっぷり入った大鍋を火にかけたように煮え立っていた。… 島が見えなくなっても、なお島民のわめき声が耳に届き、そしてひどい悪臭が一行の鼻を突いた」。

 からくもこの「鍛冶屋の島」から逃れた一行の舟ですが、つぎの章( 24章 )に入ると、「またある日、北の洋上、さほど遠くないところに高い山が現れた。雲かかったように見えていたが、それは山頂から吹き上がる噴煙だった」。そのせつな、一陣の風が革舟をとらえ、その島の海岸へと迅く吹き寄せた。舟は「陸近くに来てようやく止まった岸はてっぺんが見えないほどの高い絶壁、炭のように真っ黒で、城壁のごとくまっすぐ聳え立っていた」。このとき、「遅れてきた三人の修道士」の最後のひとりが舟から飛び降りて、「絶壁のほうへとよろよろ歩きはじめ … こう叫んだ。『ああ、父よ、わたしは力が抜けて、みなさんがたの許へもどろうにももどれません ! 』」。

 一行が見守っていると、「そのあわれな修道士が悪魔の大群に連れ去られ、拷問され火にくべられた」。そしてこんどは北風が吹き出して、一行の舟はこの「魔の山」から脱出することができた。「遠くから島を振り返ると、山を覆っていた煙は消えて、火炎が空高く噴き上がったかと思うと、また呑みこみ、山全体から海まで、燃えさかる積み薪のように見えた( '... ita ut totus mons usque in mare unus rogus apparuisset.' )」。2).

 以上、かいつまんで引用した箇所は、セルマー校訂版およびオメイラ教授による現代英語訳版で呼ぶところの「鍛冶屋の島」と「炎の山( 火の山 )」のふたつのエピソード。セルマーやオメイラは、ここを『アエネーイス』に出てくる「キュクロープスの島( 第三巻、→ 関連参考記事 )」とか、「シグルス」などの北欧神話群に出てくる「鍛冶」も想起させるとか注釈してあったりするんですが、たしかにギリシャ・ローマ古典からの「借用」という線も捨てきれないが、ディクイルの記述にもあるように、すぐれた船乗りでもあったアイルランド人修道士の活動範囲を考えると、やはり自分たちのじっさいの体験が色濃く反映されている箇所だと言い切ってよいように思います。

 たとえば 23章に出てくる「鍛冶屋の島」とつぎの「炎の山」は、かつてティム・セヴェリンが実験航海記にて指摘したことが当てはまります。前者はすぐ間近で起きた噴火、つまり西之島で起きている「海底火山」の活動であること、後者は遠くの島の「陸上火山の活動」を描写したらしい記述であることです。

 カラフに乗った修道士たちが直接、体験したことを示唆する点は、たとえばブレンダン一行の舟が「南から」島に接近したとあることからもうかがえます。げんにアイスランドの活火山帯は、本島南岸に集中し、セヴェリンの航海記にも、ちょうど半生記前の 1963年 11月に出現したスルツエイ島( 世界自然遺産 )のことが書かれています。3).

 対して「炎の山」のほうは、海岸が真っ黒の岩からなる絶壁が天突く高さにまで聳え立っていたとある。これとそっくりな場所が、やはりアイスランド本島南岸、ディルホーラエイという名前の海岸一帯に見られます( シベリウスの作品だったか、以前「名曲アルバム」でもここの異様な浮世離れした風景が紹介されたことがある。また付近一帯は海鳥の楽園で、ニシツノメドリ[ パフィン ]の営巣地でもある )。セヴェリンは、ここに「パパル」と呼ばれていた、アイルランド人聖職者の痕跡がいくつか残されているはずだとする地元の学者で当時のアイスランド大統領だった博士先生( ! )の主張も引いています。これと関連して、アイスランド南岸沿いで、アイルランド人船乗り修道士が生活していたらしい「洞穴」を発見したとかって話も以前、ここで紹介したことがありましたね。あいにく Ó Cíobháin 博士はお忙しいらしく、そして先日いただいたクリスマスの挨拶状の返信では、体調を崩したらしくて、その後本家サイトで告知する旨書いておきながら、「アイルランドの船乗り修道士たちがヴァイキング入植者よりも先にアイスランドにいた証拠」が見つかったのかどうなのか、けっきょく不明のまま。この件については、いずれまた折を見てお伺いを立ててみることにします。いずれにせよ不幸な「遅れてきた最後の修道士」は、このディルホーラエイとおぼしき絶壁海岸の汀まで強風で吹き寄せられた舟から浅瀬に飛び降りて、よたよたと陸に近づいて、表面は固まったかに見えた溶岩を踏み抜いて落命したのでしょう。なお「三人の余所者」というモティーフについてはこちらの拙記事参照。

 でも地名だけ見ても、アイスランド南岸−南東沿岸地方一帯には、あきらかに聖職者を示唆する「パパル」関連の地名が多いことに気づく。南東沖に「パペイ島」という島もあるし、パパフィヨルド、パポスなんていうのもあります( Google Maps なんかでじっくり探せばもっと出てくるだろうけれど、割愛[ 苦笑 ] )。4).

 そしてこれもまたじっさいにブレンダン時代とおんなじようなカラフのレプリカを建造し、それに乗船してじっさいに北大西洋横断航海を果たしたセヴェリンの航海記にもあるように、ラテン語版『航海』のこの箇所の記述とじっさいの航海での体験がぴたり一致している点も注目されます ―― ブレンダン一行が「南風に乗って北へ運ばれた」、つまりアイスランドへは「南から」接近しているということです。スルツエイやヴェストマンナエイヤル諸島など、海底火山活動の活発なアイスランド南岸沖と、「真っ黒で天突く絶壁の海岸」、そしてその背後に聳える陸上の大火山( ヘクラ山など )があることも考えれば、『航海』の作者はひょっとしたらアイスランドあたりの地理をよく知っている人だった可能性すらあると思われます( → 参考リンク:2011年に行われた、聖ブレンダン調査航海公式サイト掲載のアイスランドへのルート )。

1). ラテン語原文はすべてカール・セルマー校訂版から。邦訳文については、基本的に和歌山高専助教授太古隆治先生によるラテン語原文の邦訳を一部改変して使用しています。

2). この箇所、あらためて現代英語訳を見たら、'The whole mountain from the summit right down to the sea looked like one big pyre.' となっていた( 下線箇所は原文になし )。個人的には太古訳のほうがいいように思う。なお修道士ブノワによるアングロ・ノルマン語版『航海』の邦訳者松村剛氏によれば、ブノワ版での「炎の山」の描写では、「山は、山頂から海岸までおなじ傾斜からなっている」と解されるという。ようするに「富士山」型の成層火山タイプを暗示している。

3). Tim Severin, The Brendan Voyage(Hutchinson 版 1978 ), pp. 163 - 8.

4). 日本アイスランド学会編『サガ選集』( 1991 )所収の「学者」アリが著したとされる「アイスランド人の書 Íslendingabók 」には、つぎのようにある。
当時のアイスランドは山と海岸との間は森でおおわれていた。当時この地には、ノルウェー人らがパパと呼んでいたキリスト教徒が住んでいた。しかし、かれらは異教徒とともに居住するつもりがなかったため、やがてそこを去っていった。アイルランド語の本や、鈴、司教杖等が残されたままになっていたところから、かれらはアイルランド人であったと思われる( p.4、太字強調は引用者。なおこの本は、本家サイト「参考文献」ページにも掲載してあります )。

 なおこれは本文とはまったく関係ないけれども、本棚に突っこんである、『アイスランド何処ドコ紀行』は、とてもおもしろい紀行本です ! 

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