それは死に急ぐ子どもたちのこと。今年もまた、なんかこうかんたんに投げ捨てるようにみずから命を絶ってしまった子どもたちが多かったような気がする。
なんだかんだ言ってもこの国は 60年以上も平和な世の中がつづいて、たとえばパレスティナなど、ほんとうの「紛争地帯」、あるいはおなじ国の民族どうしが殺しあう「内戦」というのを―― われわれも含めて ―― 体験したことがない。たしかに生きることが苦しいことはだれにもありますし、ここにいる門外漢も人前にそんな思いにとらわれることもしばしば。あるていど年取った人が「自死」を選ぶ、というのと年端もいかない子どもが( 見たかぎり )あっけなく飛び降りたりするのとは、やはり区別する必要があるように思う。
先日、なんとはなしに聞こえてきた地元ラジオのパーソナリティが、リスナーからのこんな便りを紹介してました。曰く、「子どもが、『今日はつまんない一日だった』と言って帰ってきた。だからこう言ってやった。『あんたがつまらないと感じた今日という一日は、きのう亡くなった人にとっては、なにがなんでも生きたかった一日なのよ。だから大切に使おうね』」。パッと光の差すような体験、もしくはジョイスの言う「エピファニー」というのはこういうことかもと思いつつ聞いてました。
以前、ここでも引用したジョー・キャンベルのことば。重複も顧みずにまたしても引用する。
… 芝生のことを考えてください。… 芝が、「頼むからよく考えてくれ。あんたがこうしょっちゅう刈り取られたとしたら、どうなると思う」と言ったとしても不思議ではない。でも、芝はそんなことを言わずに、ひたすら伸びつづけようとする。ここに私は中心のエネルギーを感じます。… 根源はいったん生命体として存在したからには、なにが起ころうがかまいません。肝心なのは、与えること、成ることです。そしてそれがあなたの内にある<成りて成る生命> であり、神話のすべてはその大事さをあなたに告げようとしているのです。
これってたとえば前にも書いたけれども、「死生学」のアルフォンス・デーケン教授の思想とも相通じるところがあるように思うし、いまちょうど地元紙に連載中の、五木寛之氏の『親鸞 完結編』にも、キャンベル本で見かけたことのあるような内容が書かれていたりします( グノーシス文書「トマスによる福音書」のような、「天国( =浄土 )」は、死後のどこかの世界のことではなく、いまここにある、というような思想 )。
このブログ記事を検索したら、ちょうど昨年の暮れにも似たようなことを書いていたようです、当人は完全に忘れていたけれども。でも柴田トヨさんではないですが、ワタシもこう思います。「生きてさえいれば、そのうちきっといいこともある、とにかくくじけないで」、と。
というわけで、このあいも変わらずなに綴ってんだか本人も関知しないブログは今年もぶじ店じまい。いま、ちょうど記事が 740 を超えたところです。バッハの作品番号で言えば、「ああ神よ、天から見たまえ」。このオルガンコラールはバッハがまだはたちかそこらのころの作品で、定旋律が低音、足鍵盤上に現れる。そしてこんなこといま言うべきことじゃないですが、バッハ作品番号の 1080 番目、「フーガの技法」台までこの拙いブログ記事を綴った時点で、完全閉店しようかとも考えています( といっても、これについてはとくに深い理由などありません )。
命、あるいは「生きる」というのはどういうことか、それをもっとも親しみやすく、大上段に構えずに、幼児にもわかることばで表現した人がいます。故やなせたかしさんです。著作権上の問題があるので、個人的に重要な箇所のみ引用して、今年最後の記事を締めたいと思います。
「アンパンマンのマーチ」
作詞 やなせたかし
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられない なんて
そんなのは いやだ
…
なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
…
時は はやく すぎる
光る 星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
…
生きる喜び … そう ! かのベートーヴェンもこう言っているではないか。「おお友よ、このような調べではない ! もっと快い調べにともに声を合わせよう。喜びに満ちた調べに ! 」。FREUDE !!!
タグ:やなせたかし
