2014年02月01日

聖バーリンド ⇒ 「トリスタン( ブレンダン )跳び」

 以前からちょくちょくここでも書いているように、ジョーゼフ・キャンベルの代表作のひとつ『神の仮面』四部作の最後の本である Creative Mythology を、暇さえあればせっせと読んでいるところなんですが、この本の第2部第4章は、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクという有名な中世叙事詩人の著した『トリスタンとイゾルデ』を中心に論じてます。で、またしても聖ブレンダン関連でメモ書きていどにお茶を濁したくなり、以下、思いつくままに書きだしてみる。

1). この章でキャンベルは、まずトリスタンと彼の叔父さんにあたるマルク王の住む「世界」のちがいを述べ、マルク王の居城ティンタジェルのある世界は、あらゆる時代の恋人たちすべてが入るヴェヌスの山、そこにある「水晶の寝台(トリスタン物語における「愛の洞窟」)」とは正反対の場所であり、後者はわれわれの内にあり、かつ外にある自然そのものだ。その失われた、だが完全に忘れさられてはいないこの内なる世界は、ケルト神話や民間伝承では「常若の国」とか「波の下の国」とかの名前でなぞらえられ、またランスロットが育てられ、「エクスカリバー」が授けられた「湖の精(女神)の国」も、そして瀕死のアーサー王を乗せたはしけが向かった「アヴァロン島」、つまり「林檎の島」も、この「波の下の国」と同一モティーフであり、死からの復活を象徴する( アーサー王の負った 15という傷の数も、月の満ち欠けの日数と一致するというのは偶然なのだろうか )。そして聖母マリアに抱かれるイエスのイメージ「ピエタ」の象徴するものも、また深手を負ったトリスタンの向かったダブリンのイゾルデが象徴するものも、みなおなじひとつのモティーフの一例なのだ、みたいに書いてます。で、「アーサー王の死」で引用されているのが、モンマスのジェフリーの書いた『聖マーリン伝( 聖メルラン伝 )』で、「(『ブリタニア列王史』につづいて )のちに書いた『聖マーリン伝』のなかで、このおなじ年代記作者は、アーサー王を乗せた舟の船頭はバリントゥスというアイルランドの老修道院長だった、と付け加えている」とキャンベルは書いてます( pp. 184−5)。

 この『聖マーリン伝』ですが、ありがたいことに現代英語訳したサイトまであって、そこの注釈によると、
Geoffrey may have got his Barinthus from an early tradition in which he was god of the sea and the otherworld rather than from the Navigatio Brendani as is sometimes suggested.
とあります。

 また、こちらのブログ記事ではさらに突っこんでバリントゥスとケルト神話の海神マナナーン・マク・リルとの関連について書いてます。キャンベル本ではすこし先のページで、このケルト版プロテウス、マナナーン・マク・リル( Manannán mac Lir )について書いてますが、もう文脈が切り替わってまして、バリントゥスについてはあとにも先にも( 322ページから先はまだ読んでないから、わからんけど )言及されているのはここだけです。

 ラテン語名バリントゥス、アイルランド・ゲール語名バーリンドは、本家サイトでも書いたように、アイルランド中部オファリー州エグリッシュ郡にある教区ドラムカレンの修道院長をつとめ、550年ごろに没したと伝えられている人ですが、マナナーン・マク・リルとの関連では、Barri という語が一種の添え名となって、たとえばフィンバー( Saint Finbarr、コーク市の守護聖人 )などに「化けて」いるという主張もあり、なんとも言えませんが、どうもジェフリーはこっちの連想でアーサー王を乗せたはしけの船頭を修道院長老バリントゥスにしたのかもしれない。

2). ラテン語版『聖ブレンダンの航海』を下敷きにブノワという名のベネディクト会修道士がアングロ・ノルマン語で著したとされる、『聖ブランダンの航海』。「参考文献」ページにも挙げたように、すでにこちらの版本は松村剛先生が「冥界往来 ――『聖ブランダンの航海』」として 20年以上も前に発表していますが、ブレンダン( アングロ・ノルマン読みでブランダン )修道院長とお供の一行が、隠者バーリンド( 同様に現地語読みでバラン )から聞いた、「地上楽園」目指して船出する場面。ここで、こんな一節が出てきます。
… ブランダンは皆に接吻し出発した。…
とある岩までやってきた。いま、平民が「ブランダン跳び」と呼ぶ岩である。
この岩は海に向かってながくのび、岬のようであった。
この岬の下に船着き場があり、
そこで海に川の急流が流れこんでいた。…

「ブランダン跳び」について、松村先生の訳注( p.69 )を見ますと、これはラテン語版に出てくる 'saltus virtutis ( 奇蹟の野 )' の saltus を、「跳躍」を意味する salt に移し替えたものとしたうえで、ベルール作『トリスタン物語( ブリタニエのトマによる『トリスタン物語』およびトマ作品を底本にしたゴットフリート作品とは「異なる」系譜、いわゆる「流布本」系に属するもの )』に出てくる「トリスタン跳び」を想起させる、と書いてます。

皆様がた、この岩山の中途に
大きな広い岩石が突き出ていた。
トリスタンはいとも軽やかにそこへ降り立つ。
吹き上げる風が服を膨らませ、
まっしぐらに落下するのを防いだからだ。
コーンウォールの人々は今なおこの岩石を
「トリスタン跳び」と呼んでいる。*
だいぶあとのほうでも、トリスタンが「ウェールズ跳び」、「ヴァヴレ跳び」を競ったとかって出てきます。いずれも訳注では「不明」とある。どうもトリスタンは、足腰が天才的なまでに発達した若者だったらしい。世が世なら、オリンピック選手になれたかも( 笑 )。そうそう、音楽好きにとってはこの名前、「トリスタン和音」でも有名ですな。

 ついでにこのトリスタンという名前。ゴットフリート本では名付け親( 育ての親、ほんとうの両親はすでに亡くなっている )が「さてトリステというのは悲しみのことであって、このような数奇な運命のためにこの子はトリスタンと名付けられ、早速洗礼が施されて、そう命名された」† と出てきます。手許の『ケルト事典』によれば、この人名はもとのかたちが「ドラスタン」であり、アーサー王伝説の騎士の名前としても取り入れられ、語源的にはピクト人の言語からケルト語に借用されたのではないかと書いてます。いまひとつトリスタンものの作者として、アイルハルト・フォン・オーベルゲという 12世紀に生きたドイツの詩人がいます。この人の手になる『トリストラント( Tristrant 1170−90 )』が、現存する「トリスタンもの」最古の形らしい。キャンベル本に話をもどせば、このトリストラント → 実在のホウス城主トリストラムとなり、つぎの章ではその「サー・トリストラム、かの恋の伶人が、短調の海を越え … ( 柳瀬尚紀訳 )」と書かれた『フィネガンズ・ウェイク』と、『哲学者の薔薇園』を中心に論じることになります。さらについでに、トリスタンが一騎打ちのためすぐ沖合の小島に渡るとき、またダブリン湾を帆船から降ろされた「小舟」に乗って漂流する場面について。この「小舟」、キャンベル本ではいずれも coracle とあり、これはあきらかにアイルランドの伝統漁船カラハ( カラフ )のことだと思う。ただしウェールズなどで見られる一寸法師でも乗りそうな「お椀型」のコラクルではないはず。ゴットフリートの物語では、「軍馬一頭と武装した人が一人やっと運ばれるくらいの大きさ」とあるけれども、川下り用途のコラクルではまさかないだろう、と思う。やはりここはカラハではないかな。当時は文字どおり「革舟」で、わりと頑丈だったし、カンヴァス張りになったあとでもたとえばディングルでは牛とか家畜の運搬用として、数十年前まで活躍していたという事実もある。

* ...『フランス中世文学集 I 信仰と愛と』新倉 俊一 / 天沢 退二郎 / 神沢 栄三 訳編( 白水社刊、1990年 )より。

† ... ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク著『トリスタンとイゾルデ』については、1976年に刊行された石川敬三氏による邦訳版から。この本の恩恵は、個人的には計り知れず。こんなすばらしい邦訳が、30数年も前( 1976年、奇しくもセヴェリンの「ブレンダン号」出航の年。奥付によれば定価 4,000円也 )に刊行されていたとは、まったく寡聞にして知らなかったし、この本が、いつも行ってる図書館の書庫に眠っていたこともまことに幸運としか言いようがなかった。まずこの本、なにがすごいかって、しっかり原本の行数が書かれていておかげでキャンベル本の参照箇所と逐一、対照できたし、訳者先生によるトリスタンものの系譜および解説、それに登場人物一覧に舞台となった当時のヨーロッパの地図まで巻末に付されている !! 巻頭口絵には当時としては保存状態のよいカラー図版の「ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの肖像」やキャンベル本とおんなじ英国チャーツィー修道院跡のタイル画も掲載されている。むろん翻訳もすばらしくて、「いとやさしく」とか「ゆめゆめ … 」とか古風な言い方が適材適所に散りばめられていて、それが一種の講談調になって耳に心地よく響く。あの当時の大学の先生による翻訳って、一般教養書はおろか文芸ものまで読みにくいいわゆる「悪訳」が横行していた時代だったけれども、この邦訳はまるでそんなところがなくて、その点もおおいに驚かされました。そしてなんといってもちょっとわかんない箇所とかあったらいまなら Web とか Google 先生とかにお伺いを立てればたいていのことは( あくまでたいていのことですが )なんとか間に合うし家にいながらにしてチョチョいとわかっちゃったりするんですが、この物語の邦訳本が出たころというのは、もちろんそんな「お気楽な」わけにはいかない。要所要所に付された訳注とか見ていると、訳者先生の苦労はいかばかりだったかと、思わずにはいられない。「あとがき」によれば、この本はさらに古い「初訳」本に改訂を加えたいわば「第二版」みたいですが、「初訳」はどこも引き受けてくれる版元がなくて、なんと自費出版だったという。で、初訳刊行当時のことを振り返って、こんなふうに述懐しています。ここを読んだとき、胸に熱いものがこみ上げてくるのを禁じえなかったのでありました( ちなみにこの邦訳本刊行当時、ワタシはまだ年長さんでした )。
その当時は … 難解なところにぶつかっても、誰に相談するでもなく、頼れるものはただ書物だけであった。ひとりこつこつと五年ほどかけてようやくひととおり訳し終えたのであったが、この千枚に近い原稿を何度も清書し、校正を全部みてくれた荊妻のほかには手伝ってくれる者は一人もいなかった。それが今は訳者の周囲にも中世ドイツ語・ドイツ文学の勉学を志す者が次第に集まるようになり、少なからず元気づけられている … 。

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